夕へ、水を添える
「……汐、と名乗る人でした」
寝床の男がそう言ったとき、私は渡しかけた湯呑みを、盆へ戻した。
師走五日の朝。若葉寮の離れには、夜明けに寺から連れ帰った者が、煤を落としきらないまま詰まっていた。夫は額の白い布を押さえ、窓から離れた壁際に座っている。戸口には甲斐さんが、敷居をはみ出して立っていた。屋根の雪が、ときどき庭へどさりと落ちる。
寝床の男は、綾瀬周吾という。すずさんの亭主で、二年前の祝言の日に連れ去られた人だ。
周吾さんは、枕元に座るすずさんの顔を、さっきから一度も見ていなかった。
「脈が上がってますよ。話は手短に」
新見先生が戸口から言った。誰も手短にする気はなかった。
「こっち見なよ」
「……その、二年、すずの写真を一枚も持っていなくて。顔を、ちゃんと覚えているか」
そこで、口が閉じた。
「覚えてなきゃ、今から覚えりゃいいだろ。で、汐ってのが寺に来て、何したんだよ。全部吐きなよ。あたいは二年分、取り立てに来てんだから」
「書付に、判を捺せと。読ませてはもらえませんでした。きれいな字の人でした。それから、去年の春に、名前を書けと言われて、紙を一枚」
きれいな字の、汐と名乗る女。母の字もきれいだった、と思いかけて、やめた。
「その一枚で、私は春まで、あなたの妻でございました」
「す、すみません、宵坂さん。僕が……」
「それ、あんたが言うことじゃないだろ」
すずさんが、私のほうへ顎をしゃくった。
「こいつを叱るのは、あたいが先。二年分、並んでんだよ」
一息ついてから、私は周吾さんの枕元へ膝を寄せた。
「二階のお隣の方から、お預かりしたひと言がございます。隣の奴に、俺の粥を回してやれ、と」
周吾さんは、泣かなかった。天井を見たまま、しばらく黙っていた。
「壁の下に、指二本ぶんの隙間があって。毎晩、椀を半分、押してくれました。もともと薄い粥で、半分にすると、もっと薄かった」
誰かが、ぷっと息を漏らした。すずさんだった。
「なんだよそれ。ほとんど湯じゃないか」
「湯でした」
夫が、窓のほうへ顔を背けた。肩が揺れている。甲斐さんが鼻をすすり、すすった音について報告しかけて、やめた。
すずさんは懐から、手垢で黒くなった小さな帳面を出した。
「市電、三銭。これも三銭。全部、あんたに払わせるからね」
頁は、二年ぶんの三銭で埋まっていた。周吾さんが、そこで初めてすずさんの顔を見た。帳面をめくる指から、目を離さなかった。
「銀子さん。その綿帽子、うちで洗い張りしてやるよ。十銭のとこ、八銭にまけとく」
私は返事の代わりに、八銭、と繰り返した。
昼に、各務さんが宵坂の座敷へ来た。表紙の焦げた綴りを、両腕で抱えていた。
「ご家族の方に、見ていただきたい頁がありまして。寺が病人を預かった帳面です。二年前の秋のところが、焼け残りました」
綴りが、畳に置かれた。各務さんの指が、一つの欄を押さえた。
身元引受人。その下に、右上がりの字で「宵坂汐」。
祖母の煙管が、灰吹きの縁で止まった。
「……汐の字だよ、これ」
母は十四年前に帰らなくなり、骨になって戻った。宵坂の墓に納めるところを、私も祖母も見ている。
それなのに、この字を見た一瞬、骨のほうが違っていたのではないかと、二人して思ってしまった。二年前の秋にこれを書いたのが母なら、母はつい二年前まで、どこかで生きていたことになる。
私は立って、奥から母の針箱を持ってきた。蓋を開けると、鈴が小さく鳴った。底から手紙を出す。一枚目の、私あての数行の終わりに、母の署名がある。「汐」。
綴りの字に、指を重ねた。
母は自分の名を、夕から先に書いて、水をあとから添えた。五つの冬、私の手を包んでそう教えた。
綴りの汐は、三つ目の点から、筆の糸が夕へ伸びていた。水が先だ。
「お祖母ちゃん。これ、母さんじゃない。母さんの字を、何年も書いてきた人」
言い終わる前に、涙が綴りへ落ちた。焦げた紙が、そこだけ色を変えた。
祖母は綴りを膝に引き取ったまま、何も言わなかった。目は乾いていた。
各務さんが、帽子を両手で持ち直した。
「住職は、丸甚の名しか出しません。丸甚の主は、寺へ冥婚の口を取り次いだだけだ、と言い張っています。今のところは、ですが」
帰りぎわの各務さんに頼んで、その汐の一字だけ、薄紙に写させてもらった。
各務さんが帰り、祖母が台所に立ったあと、私は手紙を針箱の底へ戻そうとした。
手紙は三枚ある。これまで読み返してきたのは、一枚目の、私あての数行だけだ。あとの二枚は母の覚え書きで、開くたびに怖くなって、畳み直してきた。
その二枚目が折り目からずれて、一行だけ目に入った。
『襖の向こうで、男の声。汐の名なら、あと十年は使える。娘は、育ってからでよい』
母の、右上がりの字だった。娘、とは私のことだ。
今日は、これ以上読めない。私は蓋を閉めた。鈴が、さっきより低く鳴った。
夜、祖母は昼に泣いた私の背を一度だけ叩いて、早くに床へ入った。
明日の朝も、佐和さんは祖母の帯を結びに来るはずだ。今朝は私が寮にいたから、顔を合わせずに済んだ。明日の朝は、そうはいかない。
十四年前の秋、冥婚に出る母を迎えに来たのも、あの人だった。母が最後の日にどんな顔で家を出て、どこまで歩いたのか。知っているのは、もう佐和さんだけだ。
祖母には言わない、と決めた。嘘の下手な祖母に、何も渡せない。
店の奥で行灯を寄せ、針箱から、もう一通を出した。先月、佐和さんから届いた悔やみ状だ。表に「汐様の御息女様」とある。
その汐の字も、水から書いてあった。
あの日は、母の字に似すぎていて、筆の運びまで見る前に畳んでしまった。
昼に写した薄紙を、隣に並べた。行灯の下で、二つの「汐」が、同じ角度で右へ上がっている。
見なければよかった、とは思わなかった。見なければ、明日も衿を直してもらっていた。
裏木戸が、二度鳴った。夫と各務さんだった。
私は、全部話した。各務さんは悔やみ状と写しを預かって、外で待つ甲斐さんに何か言いに出た。
板の間に、夫と二人になった。
「見ないでください。ひどい顔です」
夫は黙って、行灯を自分の側へ少し引いた。私の顔に、影が落ちた。その影の中で、私はそっと鼻をかんだ。
各務さんが戻ると、夫は膝を立てた。
「今夜のうちに押さえる」
「あなた」
「柏木の箱車の運転手が、霜月の半ばに若い男に替わった。寮の門を見張らせた子らの報告だ。元の男は北へ出された。甲斐が裏を取った。柏木は、使った者を切る。次はその女だ。切られたら、口も一緒に消える。今夜、本家の裏に甲斐を立てる。検事が人を回せないなら、俺が行く。死人が一人夜道を歩いたところで、誰も数えん」
私は返事をしなかった。帳場の硯を引き寄せ、筆を取った。
夫が、口を閉じた。
『明朝も、いつものとおり、祖母の帯をお願いいたします。宵坂銀子』
寺の件が柏木さんの耳に入った今夜のうちに、手を引かされるかもしれない人を、自分から呼ぶ文だ。墨が乾くのを待って畳み、裏木戸を開けた。
「甲斐さん。これを、本家の佐和さんへ。今夜のうちに」
「はっ。……幽霊少佐殿、よろしいのでありますか」
夫は、立ちかけた膝を、ゆっくり板の間へ戻した。
甲斐さんの足音が、雪の路地を遠ざかっていく。
「何を待つ気だ」
「母の、最後の日です」




