↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
23/33

同じ写真を持つ男

 引き伸ばした写真の窓の奥に、額に白い布を巻いた夫がいた。

 若葉寮の冬の記念の一枚だった。寄進者が毎年、寮の子を門の前に並べて撮らせるものだという。前に子どもたち、後ろに世話役の婦人たち。その頭越しに離れの窓があって、硝子の向こうに、あの人の顔が白く浮いている。

 私は外套の前を掻き合わせた。今朝、衿を直してくれたのは佐和さんだ。いつもの刻限に来て、祖母の帯を結び、私の衿の歪みを整えて帰っていった。母の名を何年も書いてきた指だと知っていて、私は顔を作るので精いっぱいだった。

「柏木様が、大きく焼かせましたのよ。明日の追善に、新聞屋まで呼んでありましてよ」

 扇の陰で、藤宮紗雪さんが言った。昼前に店へ来るなり私を俥へ押しこんだ伯爵令嬢は、受け取りの刻限まで写真屋から聞き出してきたらしい。

 そのくせ、店先の見本の写真の前は、扇で顔を隠して通り過ぎた。

「許婚が亡くなった春から、私、写真には写らないことにしてますの」

 明日は夫の月命日だ。

「窓のとこだけ、でかく焼けと言いおった」

 写真屋の爺様が、作業台の端を叩いた。昔、一枚の取り合いで仲間を亡くしたという偏屈な人で、私が入るなり、黙って奥から引き伸ばしを出してきた。

「子どもが四十いて、わしが一人ずつ目に光を入れた。それを全部切って、窓だけ寄越せと言う。注文は昨日だ。撮ったのは、霜月の二十五日だがな」

 二十五日なら、あの人はもう離れにいた。撮ったときには、誰も窓など見ていなかったはずだ。それを昨日になって、窓のところだけ大きくしろと言ってきた。

 そこに誰が立っているか、分かって注文したのだ。

 敵は、あの人の居場所をもう知っている。

「おまけに、焼き増しの代まで値切りおった」

 爺様は仏頂面のまま、柏木さんの分の一枚を油紙に包んだ。

「焼き増しの代は、もうもらっちまった。……乾板は、わしの棚にある」

 乾板は、焼く元になる硝子の板だ。柏木さんとの勘定はもう済んでいて、元の板はこの店に残っている。同じ一枚は、いつでも焼ける。要るなら言え、と言われたのだと、少し遅れて分かった。

 爺様はそれきり背を向けて、薬品の瓶を並べ替えはじめた。機嫌の悪い職人の背中は、祖母で見慣れている。

「冥婚屋。見たら、しまえ。わしは何も見せとらん」

 背中のまま言われた。この爺様は、あの人の顔を知っている。知っていて、柏木さんより先に、引き伸ばしを私の前へ置いてくれたのだ。

 私はその一枚を伏せて、台へ戻した。

 戸の鈴が鳴った。刻限どおりだった。

「おや、奥様。藤宮のお嬢様まで」

 柏木さんが、目尻の皺を深くした。

 柏木さんは台の上の引き伸ばしを表に返して、覗きこんだ。

「よく撮れておりますな。前の端が、三つになったばかりのお梅で。熱があったのに、この日だけは起きると言ってきかなかった。可愛いものでしょう」

 子どもの名を言うときのこの人の声は、本当に優しい。そこが、いちばん困る。

「明日の追善では、奥様にまた、少佐殿の最期のお言葉をお話しいただけるそうで。——どこまで、お話しに」

「聞かなかったことを、聞いたと言ったところまでです」

 何も聞こえなかったのに、聞こえたと言った。そこまで全部、明日、自分の口で言う。暴かれるのを待つより先に言う。口が先に出て、決めたのはそのあとだった。

 紗雪さんの扇が、ぴたりと止まった。

 柏木さんは、声を立てずに笑った。

「それは、楽しみですな」

 油紙の包みを受け取り、帽子のつばに手を添えて、柏木さんは出ていった。爺様は振り向きもせず、戸だけを乱暴に閉めた。

「紗雪さん。明日の広間で、読経の前に、私の立つ席をいただけますか」

 紗雪さんは扇をぱちりと閉じて、また開いた。

「席次は母の係ですけれど、書くのは私ですの。読経の前ね。空けておいてよ」

 理由は、一つも訊かれなかった。代わりに扇の先が、私の胸元を差した。

「明日のあなた、きっと新聞に載りましてよ。私、いちばん前で見ていてよ」

 褒められて載る話では、たぶんない。


 夕方、店の帳場に志乃さんが来た。本家の従姉は、戸を閉めるより先に口を開いた。

「明日、分家は何をするつもりです。本家も追善に呼ばれています」

「お焼香の作法でしたら、手前どもの心得どおりに」

「作法を訊いているのではありません」

「お供物の手配も済んでおります。菓子は二段、水菓子は蜜柑を」

「銀子さん」

 名を呼ばれて、算盤から目を上げた。

 佐和さんを本家から寄越してくれたのも、この人だ。

「明日のことは、明日、お目にかけます」

 志乃さんは、口を結んだまま私を見ていた。従姉の目が、帳場の私を値踏みするのを、初めて見た。

「……本家の席は、喪主の右の三列目です。分家はその後ろ」

「承りました」

「寒いから、綿入れを着ていきなさい」

 ほどけたのは、その一言だけだった。

 戸が閉まってから、私は算盤を弾いた。何も足していないのに、珠を弾いた。

 店を閉めてから、簞笥の奥の綿入れを出して、衣桁に掛けておいた。


 夜、裏木戸から夫が来た。額の白い布に、雪が一片のっている。

「雪を連れてこないでください。畳が濡れます」

 手を伸ばして払うと、夫は黙って頭を下げた。少佐が、冥婚屋の土間で、私の背丈まで首を折っている。

「外は、まだ降っているか訊かんのか」

「訊かなくても、あなたの肩を見れば分かります」

「では、肩も払え」

 払ってやった。少佐殿は、それで満足したらしかった。

 明日の段取りは、短く済んだ。私は読経の前に立つ。夫は侯爵の手引きで、大広間の襖の奥に入る。

「私が何を申し上げても、出ていらっしゃらないでくださいね」

「黙って聞く。黙っていられなくなったら、先にお前を見る」

「私も、見ます」

 夫の指が、私の手の甲をなぞった。それで今夜の分は足りた、と思った。ところが、この人の話には続きがあった。

「それと、あの衣装係だ。もう家に入れるな」

「入れなければ、気づかれます」

「気づかれて困るのは向こうだ。敵の伝令を、毎朝炊事場まで通す部隊はない。追い返せば、向こうは手を変える。変えた手なら、こっちから見える」

「明日の朝、急に来なくていいと言えば、あの人はすぐ柏木さんのところへ走ります。何も知らない顔で帯を結んでもらうのが、いちばん静かです」

「静かなのと、無事なのは違う」

「違います。でも今は、静かなほうが要ります」

 夫は口を開いて、閉じた。私も次の言葉を探していた。どちらも引かないまま、表の戸が鳴った。

「夜分に恐れ入ります。喪のお召し物の合わせを、早めにと存じまして」

 佐和さんの声だった。

 夫が立ち、音を立てずに襖の陰へ入った。死人は身を隠すのがうまい。褒めている場合ではない。

 佐和さんは風呂敷を解いて、黒の紋付を私の肩に掛けた。樟脳の匂いがした。

「お袖、もう少しお下げくださいまし。花嫁さま、明日は、少佐様のお言葉をまた」

「はい」

 衿を合わせる指が、喉元へ回ってくる。冷たくも温かくもない、毎朝と同じ指だ。

「明日は、お焼香のあとで申し上げます」

 読経の前に立つことは、紗雪さんと夫しか知らない。

 佐和さんの手つきは、そのまま続いていた。私の声も、震えずに出た。笑みの形を、頬に置いたままにする。

 佐和さんの目が、一度だけ襖のほうへ行って、戻った。

「では、お焼香のあとに。お支度は、早めに伺います」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。