同じ写真を持つ男
引き伸ばした写真の窓の奥に、額に白い布を巻いた夫がいた。
若葉寮の冬の記念の一枚だった。寄進者が毎年、寮の子を門の前に並べて撮らせるものだという。前に子どもたち、後ろに世話役の婦人たち。その頭越しに離れの窓があって、硝子の向こうに、あの人の顔が白く浮いている。
私は外套の前を掻き合わせた。今朝、衿を直してくれたのは佐和さんだ。いつもの刻限に来て、祖母の帯を結び、私の衿の歪みを整えて帰っていった。母の名を何年も書いてきた指だと知っていて、私は顔を作るので精いっぱいだった。
「柏木様が、大きく焼かせましたのよ。明日の追善に、新聞屋まで呼んでありましてよ」
扇の陰で、藤宮紗雪さんが言った。昼前に店へ来るなり私を俥へ押しこんだ伯爵令嬢は、受け取りの刻限まで写真屋から聞き出してきたらしい。
そのくせ、店先の見本の写真の前は、扇で顔を隠して通り過ぎた。
「許婚が亡くなった春から、私、写真には写らないことにしてますの」
明日は夫の月命日だ。
「窓のとこだけ、でかく焼けと言いおった」
写真屋の爺様が、作業台の端を叩いた。昔、一枚の取り合いで仲間を亡くしたという偏屈な人で、私が入るなり、黙って奥から引き伸ばしを出してきた。
「子どもが四十いて、わしが一人ずつ目に光を入れた。それを全部切って、窓だけ寄越せと言う。注文は昨日だ。撮ったのは、霜月の二十五日だがな」
二十五日なら、あの人はもう離れにいた。撮ったときには、誰も窓など見ていなかったはずだ。それを昨日になって、窓のところだけ大きくしろと言ってきた。
そこに誰が立っているか、分かって注文したのだ。
敵は、あの人の居場所をもう知っている。
「おまけに、焼き増しの代まで値切りおった」
爺様は仏頂面のまま、柏木さんの分の一枚を油紙に包んだ。
「焼き増しの代は、もうもらっちまった。……乾板は、わしの棚にある」
乾板は、焼く元になる硝子の板だ。柏木さんとの勘定はもう済んでいて、元の板はこの店に残っている。同じ一枚は、いつでも焼ける。要るなら言え、と言われたのだと、少し遅れて分かった。
爺様はそれきり背を向けて、薬品の瓶を並べ替えはじめた。機嫌の悪い職人の背中は、祖母で見慣れている。
「冥婚屋。見たら、しまえ。わしは何も見せとらん」
背中のまま言われた。この爺様は、あの人の顔を知っている。知っていて、柏木さんより先に、引き伸ばしを私の前へ置いてくれたのだ。
私はその一枚を伏せて、台へ戻した。
戸の鈴が鳴った。刻限どおりだった。
「おや、奥様。藤宮のお嬢様まで」
柏木さんが、目尻の皺を深くした。
柏木さんは台の上の引き伸ばしを表に返して、覗きこんだ。
「よく撮れておりますな。前の端が、三つになったばかりのお梅で。熱があったのに、この日だけは起きると言ってきかなかった。可愛いものでしょう」
子どもの名を言うときのこの人の声は、本当に優しい。そこが、いちばん困る。
「明日の追善では、奥様にまた、少佐殿の最期のお言葉をお話しいただけるそうで。——どこまで、お話しに」
「聞かなかったことを、聞いたと言ったところまでです」
何も聞こえなかったのに、聞こえたと言った。そこまで全部、明日、自分の口で言う。暴かれるのを待つより先に言う。口が先に出て、決めたのはそのあとだった。
紗雪さんの扇が、ぴたりと止まった。
柏木さんは、声を立てずに笑った。
「それは、楽しみですな」
油紙の包みを受け取り、帽子のつばに手を添えて、柏木さんは出ていった。爺様は振り向きもせず、戸だけを乱暴に閉めた。
「紗雪さん。明日の広間で、読経の前に、私の立つ席をいただけますか」
紗雪さんは扇をぱちりと閉じて、また開いた。
「席次は母の係ですけれど、書くのは私ですの。読経の前ね。空けておいてよ」
理由は、一つも訊かれなかった。代わりに扇の先が、私の胸元を差した。
「明日のあなた、きっと新聞に載りましてよ。私、いちばん前で見ていてよ」
褒められて載る話では、たぶんない。
夕方、店の帳場に志乃さんが来た。本家の従姉は、戸を閉めるより先に口を開いた。
「明日、分家は何をするつもりです。本家も追善に呼ばれています」
「お焼香の作法でしたら、手前どもの心得どおりに」
「作法を訊いているのではありません」
「お供物の手配も済んでおります。菓子は二段、水菓子は蜜柑を」
「銀子さん」
名を呼ばれて、算盤から目を上げた。
佐和さんを本家から寄越してくれたのも、この人だ。
「明日のことは、明日、お目にかけます」
志乃さんは、口を結んだまま私を見ていた。従姉の目が、帳場の私を値踏みするのを、初めて見た。
「……本家の席は、喪主の右の三列目です。分家はその後ろ」
「承りました」
「寒いから、綿入れを着ていきなさい」
ほどけたのは、その一言だけだった。
戸が閉まってから、私は算盤を弾いた。何も足していないのに、珠を弾いた。
店を閉めてから、簞笥の奥の綿入れを出して、衣桁に掛けておいた。
夜、裏木戸から夫が来た。額の白い布に、雪が一片のっている。
「雪を連れてこないでください。畳が濡れます」
手を伸ばして払うと、夫は黙って頭を下げた。少佐が、冥婚屋の土間で、私の背丈まで首を折っている。
「外は、まだ降っているか訊かんのか」
「訊かなくても、あなたの肩を見れば分かります」
「では、肩も払え」
払ってやった。少佐殿は、それで満足したらしかった。
明日の段取りは、短く済んだ。私は読経の前に立つ。夫は侯爵の手引きで、大広間の襖の奥に入る。
「私が何を申し上げても、出ていらっしゃらないでくださいね」
「黙って聞く。黙っていられなくなったら、先にお前を見る」
「私も、見ます」
夫の指が、私の手の甲をなぞった。それで今夜の分は足りた、と思った。ところが、この人の話には続きがあった。
「それと、あの衣装係だ。もう家に入れるな」
「入れなければ、気づかれます」
「気づかれて困るのは向こうだ。敵の伝令を、毎朝炊事場まで通す部隊はない。追い返せば、向こうは手を変える。変えた手なら、こっちから見える」
「明日の朝、急に来なくていいと言えば、あの人はすぐ柏木さんのところへ走ります。何も知らない顔で帯を結んでもらうのが、いちばん静かです」
「静かなのと、無事なのは違う」
「違います。でも今は、静かなほうが要ります」
夫は口を開いて、閉じた。私も次の言葉を探していた。どちらも引かないまま、表の戸が鳴った。
「夜分に恐れ入ります。喪のお召し物の合わせを、早めにと存じまして」
佐和さんの声だった。
夫が立ち、音を立てずに襖の陰へ入った。死人は身を隠すのがうまい。褒めている場合ではない。
佐和さんは風呂敷を解いて、黒の紋付を私の肩に掛けた。樟脳の匂いがした。
「お袖、もう少しお下げくださいまし。花嫁さま、明日は、少佐様のお言葉をまた」
「はい」
衿を合わせる指が、喉元へ回ってくる。冷たくも温かくもない、毎朝と同じ指だ。
「明日は、お焼香のあとで申し上げます」
読経の前に立つことは、紗雪さんと夫しか知らない。
佐和さんの手つきは、そのまま続いていた。私の声も、震えずに出た。笑みの形を、頬に置いたままにする。
佐和さんの目が、一度だけ襖のほうへ行って、戻った。
「では、お焼香のあとに。お支度は、早めに伺います」




