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月命日

 生きている夫の月命日は、よく晴れた。

 鷹尾侯爵邸の大広間は、障子越しの冬の光で白かった。正面に夫の位牌と、黒い縁の遺影。線香の煙がまっすぐ立ち、まだ何も始まっていないのに、新聞屋の鉛筆が紙を擦っている。

 お焼香のあとで申し上げます、と言ったのは、佐和さんにだけだ。

 その佐和さんは、介添えとして私の一歩後ろに控えている。今朝も刻限どおりに来て、黒の紋付の衿を合わせてくれた。

 私の目は、三つだけ拾った。

 一つは、親族の席の叔母様。閉じた扇を膝に置き、指一本で端を押さえている。読経、焼香、それから冥婚の花嫁に故人のひと言を改めて語らせる。今日の段取りは、あの扇の上で組まれた。

 二つ目は、焼香の列の端にいるお稲さん。新聞で追善を知ってきたのだろう。膝の上に、切り抜きが一枚のっている。

 三つ目は、焼香の台の脇。写真師が三脚を据え、その後ろに灰色の外套の男が立っている。親族でも、寮の人でもない。見覚えのない顔だった。

 柏木さんは、寄進者の席の一列目にいた。目が合うと、ゆっくり会釈をした。


 菩提寺のご住職が、経机の前で座り直した。袈裟の擦れる音で、あたりが静まる。

 正座の脚が、自分のものでないように細かく揺れていた。紋付の上から手で押さえても、止まらない。

 止まらないまま、立った。

「お経の前に、少しだけお時間をいただきます。宵坂の銀子でございます」

 ご住職が、数珠を持ったまま私を見上げた。叔母様の扇の端が、少し浮いた。

「霜月九日の夜、手前どもは鷹尾少佐の冥婚を務めました。最期のひと言として新聞に載せていただいたのは、『湯を、沸かしておけ』という言葉です」

 鉛筆の音が速くなる。

「先日のひと言は、私が作りました。あの夜、何も来ませんでした」

 広間が、割れた。

 息を呑む音。誰かの「まあ」。後ろの席で腰を浮かせる音。

 焼香の台の脇で、灰色の外套の男が、写真師の肩へ手を伸ばし、その手を外套の脇へ戻した。写真師は三脚を抱え、向きを変えようとしている。

 焼香は、まだなのに。

 柏木さんは、穏やかな顔のままだった。昨日、写真屋で私の口から聞いたのだから、驚かないのは当たり前だ。

 お稲さんが、立ち上がっていた。切り抜きを両手で持ち、紙の端が震えている。

「あの風鈴、まだ軒に吊るしてあるんです。鳴らないのに、毎朝見るんです」

 そこで息を継いで、お稲さんは顔を上げた。

「叔父の風鈴も、作ったんですか」

 刺さったのは、問いの中身ではなかった。この人にそれを訊かせているのが、私だということだった。

「いいえ。あれは、叔父様のお言葉です」

 声は揺れなかった。あの夜、私は一字も違えずに叔父様の言葉を渡した。それだけは、どこの誰の前でも言い切れる。

 お稲さんはしばらく立っていて、それから座り直した。切り抜きを畳み、もう私のほうを見なかった。

 柏木さんが、ゆっくり腰を上げた。手には、油紙をほどいた引き伸ばしがある。若葉寮の冬の一枚の、離れの窓のところだけを大きくしたものだ。

「奥様が正直にお話しくださって、私どもも胸が痛みます。ならば、こちらも申し上げねばなりますまい。——奥様は、ご主人の生きておいでなのをご存じで」

「はい。この弔いは、承れません。夫を、死者には渡しません」

 音が、一つ残らず消えた。

 香炉に、線香の灰が落ちた。


 奥の襖の向こうで、畳を踏む音がした。

 襖が、両側へ開いた。

 夫が立っていた。額の白い布はもうない。頬は削げていたが、髭はきれいにあたってある。

 夫は口を開く前に、私を見た。私も見た。

「鷹尾暁人、ただいま戻った」

 叔母様の膝から、扇が落ちた。

 閉じたまま、畳の上で一度だけ跳ねて、止まった。

 上座で、侯爵が目を閉じたまま言った。

「……遅い」

 夫は侯爵に一礼すると、柏木さんへ向き直った。ほかの誰も、もう見ていなかった。

「その写真を、誰に撮らせた。俺がどこにいたか、あんたは知っていたわけだ」

 柏木さんの手の中で、引き伸ばしの窓がこちらを向いていた。撮られたのは霜月の二十五日。死んだと信じている男の顔を、わざわざ大きく焼かせる人はいない。

 記者の何人かが、引き伸ばしと夫の顔を見比べはじめた。

 柏木さんは、写真を静かに裏返した。

「寮の子らが、おばけの兵隊さんと騒いでおりましたので。少佐がご無事で何よりです」

 笑みは、少しも崩れなかった。会釈を一つして席へ戻り、後ろへ写真を回す。受け取ったのは、あの灰色の外套の男だった。柏木さんの手の者だったのだ。

 記者の一人が、親族席の端の若い男に向き直った。

「検事は、ご存じでしたか」

「存じませんでした」

 各務さんの耳が、真っ赤だった。

 どこかで誰かが噴き出し、それが後ろの席へ伝わって、くすくす笑いになった。ご住職まで、数珠の手で口元を隠している。

 その笑いの中を、家扶どのがにじり出た。夫の前で背を伸ばし、目を据える。

「暁人様。お弔いのあいだ、爺は三日泣きました。泣いた分は、叱って取り返させていただきます」

「承知した」

「一日目。風邪ひとつ召さぬ方が、なにゆえ死んだことになど。二日目。お父上様に、あのような背中をさせて。三日目は」

 家扶どのは、一度息を継ぎ直した。

「……若様。若様は、お痩せになって」

 叱る声が、そこから先へ続かなかった。家扶どのは一度唇を噛み、目を乾いたまま、頭を下げた。

「三日目の分は、お食事を召し上がってからにいたします」


 人が引いたのは、昼を回ってからだった。記者は表へ走り、親族は奥の座敷へ移り、あとには線香の匂いだけが残った。

 私は広間の端の柱のそばに座っていた。膝はもう震えていない。震えないように、ずっと力を入れていたからだ。

 家扶どのが、湯呑みを一つ持ってきてくれた。

「若奥様」

「手前どもは、お家に大変な恥をおかけしました」

 家扶どのは、首を横に振った。

「作られたお言葉だと伺っても、爺は、少しも驚きませんでした。あの方らしいと、思っておりました」

 私は湯呑みを両手で包み、立ちのぼる湯気だけを見ていた。

 足音がして、佐和さんが介添えの位置へ戻ってきた。今朝と同じ、私の一歩後ろに座る。

 今になって、私はその顔を見た。

 広間が割れたときも、襖が開いたときも、目の端にはずっとこの人の黒い肩があった。肩も、重ねた手も、一度も動かなかった。今の顔も、今朝衿を合わせてくれたときと、少しも変わらない。

 死んだはずの人が襖から出てきても、眉ひとつ動かさなかった人がいる。そのことを、胸のいちばん奥の引き出しにしまった。

 広間の入口に、志乃さんが立っていた。本家の席から、ずっと見ていたのだろう。私と、奥の襖とを、順に見た。

 何も聞かされていなかった、と、その目が言っていた。

 昨日、帳場でこの人に答えなかったのは、私だ。言われたとおり、綿入れは着てきた。そんなことしか浮かばなかった。

 志乃さんは何も言わずに背を向けた。廊下へ遠ざかっていく背中を、私は呼び止められなかった。

 扇を拾う音がした。

 叔母様が、自分で畳からそれを拾い上げていた。閉じたまま手の内に収め、私に目を向ける。

「生きておいでなら、なおのこと。離縁は、受理されておりますのよ」

 そうだった。紙の上で、私はもうあの人の妻ではない。

 奥の襖が、また開いた。夫がこちらへ歩いてくる。叔母様の前で足を止め、扇ではなく、私を見た。

「なら、求婚からやり直す」

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