芋は受理します
「宵坂銀子。本日の求婚、一件。芋付きだ」
師走十日の夜明け、宵坂の裏木戸の外で、夫が新聞紙の包みを差し出していた。包みの口から、湯気が一筋立っている。どこの窯を起こしてきたのだろう。
けれど離縁届は受理されたままで、この人の戸籍に、もう私の名はない。
「芋は受理します。求婚は却下でございます。既婚者ですので」
「相手は誰だ」
「お客様のお名前は、帳面の外では申し上げない決まりでございます」
夫の後ろで、小さく鼻の鳴る音がした。
兵が二人、裏木戸の両脇に直立していた。銃を立て、目だけが前を向いている。右の若いほうの肩が、細かく揺れていた。
その前へ、甲斐さんが一歩出た。踵を鳴らして敬礼する。
「御報告いたします。本日をもって、幽霊は取り消しであります。以後、少佐殿とお呼びいたします」
右の兵の肩が、とうとう大きく跳ねた。左の兵が、横目でそれを睨んだ。
「甲斐。声が大きい。近所が起きる」
「は。以後、小声で取り消します」
台所の格子窓が、からりと開いた。
「朝っぱらから芋の匂いで起こされたよ。新聞じゃ、うちの孫は死人花嫁の大嘘つきだとさ」
祖母が、煙管をくわえたまま顔を出していた。
夫が先に頭を下げた。祖母は煙を一つ吐いた。
「婿どの。紙の上じゃ他人の男を、泊めるほどうちは広くないよ」
「泊まりません。届けに来ただけです」
夫はそれだけ言って、私に向き直った。
「婚姻届を出し直せば、あの離縁を認めたことになる。認めん。紙が戻るまで毎朝来る。お前は毎朝、帳面につけておけ」
断られる前提で、命令だけは立派だ。
「それと。兄上の件の調べは、睦月二十八日に開き直す」
縁の下から、猫の伍長がのそりと出てきた。伍長は夫の長靴の前を素通りし、甲斐さんの脛に頭をこすりつけた。
「……命令違反だ」
「伍長は、死人の顔は覚えないそうですよ」
私は懐から、手拭いの包みを出した。
「お返しします。お預かりしていたものです」
夫は包みを解き、蓋を開けた。針は零時二十分で止まっている。
「拾ったのは、甲斐か」
「……は。焼け跡で、自分が」
甲斐さんは、敬礼の手を下ろしたまま答えた。
夫はそれを見たまま、竜頭に指をかけなかった。蓋を閉じて、そのまま軍服の内へ入れた。
止まった時刻ごと持って歩くつもりなのだ、と思った。なぜかは、訊かずにおいた。
包みの底には、封がもう一通あった。裏に霜月八日とだけある、切っていない封だ。
「こちらも、お返しします。生きている方の遺書は、承っておりませんので」
夫は裏の日付を親指で一度なぞり、時計と同じ内隠しへ黙って重ねた。
「芋は冷める前に食え。却下は冷めてからでいい」
芋の包みは、手袋越しにまだ熱かった。木戸を閉めるまで、包みは持ち替えなかった。
家に入ると、嫁入り道具のいちばん上に、一冊目の求婚帳簿があった。
最後の頁は、開かなかった。開かないのが逃げだということくらい、自分で分かっている。
帳場の引き出しから新しい帳面を出し、表に墨で書いた。
『求婚帳簿、二冊目』
一行目には、『師走十日 芋付き 却下』。
筆を置いてから、芋を半分に割った。黄色いところが光っていた。
朝餉のあと、佐和さんが来た。
月命日の広間で、襖から死んだはずの人が出てきても、顔色ひとつ変えなかった。今朝の顔も、あのときと同じ顔だった。
「大奥様、お手を少し」
祖母は痛む肩をかばいながら、両腕を浮かせた。
「すまないね、毎朝。今朝なんざ、婿どのが芋を持ってきてさ。兵隊を二人もくっつけて、木戸の前で求婚だよ。孫に断られてやんの」
祖母は楽しそうに笑った。その口を、両手で塞ぎたかった。夫が朝ごとにどこへ来るのか、何人連れているのか。祖母は笑い話のつもりで、全部渡してしまう。
私は笑って、二人分のお茶を淹れた。
佐和さんの腕が、祖母の腰へ回る。帯が一巡りし、二巡りする。そのあいだ、私は自分の湯呑みの中の茶柱から、目を上げなかった。上げたら、顔に出る。
祖母は何も知らない。知らせないと決めたのは、私だ。
十五日の夕方、芋代の壺を振ると、底で銅貨が一枚だけ鳴った。
新聞が出てから、戸を開けた客は一人もいない。柏木さんが寮の子二人の弔いを入れていった二十日の一行も、使いが来て『年明け、寮の顕彰式の後へ日延べ』と書き換えていった。取り消しの三本の線の下に、日延べの線がもう一本増えた。予約帳の師走の頁で、墨の入っていない行はもうない。
表の戸が開いた。志乃さんだった。
「本家の親族から、分家に宛てた文です。十二家のやり直しは、当面見合わせます」
文には伯父たちの名が並び、最後に志乃さんの印があった。志乃さんの指が、その印の上の折り目を二度なぞった。
「本家の払いで続けると、決めてくださったのは志乃さんです」
「決めたのも、本家です。止めるのも、本家です」
志乃さんの声は、帳面を読み上げるように平らだった。
「本家の門の前にも、三日、新聞屋が立っています。親族は、宵坂の名でこれ以上は出歩くなと」
「十二の家には、何とお伝えすれば」
「本家から伝えます。分家は、何もしなくてよろしい」
何もしなくていい、と言われるのが、いちばんこたえた。
口の中が乾いた。乾いたまま、言葉が出た。
「夜の丸甚で、何をなさっていたんですか」
志乃さんの顔から、すっと色が引いた。
答えは、来なかった。志乃さんは文を帳場の上に置き、一度だけ私を見て、戸を閉めて出ていった。
戸が閉まった音で、自分が何をしたか分かった。訊き方を一つ間違えただけで、あの人は帰る場所をなくした。
帳場に、文が残っていた。
喉の奥から、声が出た。
泣き声は、自分の耳にも子どもの声に聞こえた。帳場に突っ伏すと、算盤が肘で鳴った。
「なんで……なんで毎朝、うちの人を断らなきゃいけないの。やだ。もう、やだよ」
誰に言ったのでもなかった。声を上げて泣いたのは、母が帰らなかった年から数えても、これが初めてだった。
夜、裏木戸の外に、提灯が一つ止まった。
夫が、木戸に背を向けて立っていた。兵の二人は、路地の角まで下がっている。見回りの順路に、うちの木戸が入っているはずがない。
「見回りだ」
「お勤め、ご苦労さまでございます」
夫は振り向かなかった。私の息がふつうの長さに戻るまで、背中だけをそこに置いていた。それから、提灯ごと路地の角へ歩いていった。
台所に戻ると、祖母が火鉢の前で、濡らした手拭いを絞っていた。
「目に当てな」
受け取ると、祖母は煙管の灰を落として、ぽつりと言った。
「あんたの父親もね、泣き方の下手な男だった」
手拭いを目に当てるのも忘れて、祖母の横顔を見た。
「お父さんが、泣いたの? いつ」
「その話は、その目の腫れが引いてからだよ。腫れた目で聞く話じゃない」
祖母はそれきり、火箸で灰をならしはじめた。
店の表で、戸が鳴った。叩くというより、拳で殴る音だった。
手拭いを置いて戸を開けると、襟巻に顎まで埋めた若い娘が立っていた。夜風に混じって、線香とは違う、甘い香の匂いがした。
「芙美です。表通りの、香の問屋の」
娘は、怒った目のまま、店の中を見回した。
「新聞は読みました。読んだうえで、兄のを頼みに来たんですけど」




