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待ったは、一回まで

 盤の角が一つ、欠けていた。

 削れた跡ではない。畳に叩きつけて割った欠け方だ。

 三日前の夜、表通りの香の問屋の娘、芙美さんが、兄の弔いを頼みに来た。新聞で私の嘘を読んだうえで来た客だ。

 ゆうべはその問屋の奥座敷で、兄さんの冥婚を勤めた。綿帽子をかぶったまま夜明けを待ち、床の間の将棋盤を眺めていたとき、胸の奥に、若い男の兄貴ぶった声が落ちてきた。


『——待ったは、一回までだ』


 ひと言をそのまま伝えると、芙美さんの眉が吊り上がった。

「自分は何度も戻すくせに」

 芙美さんは盤を裏返した。墨で一字、「修」とある。

「この角、私が欠かしたんです。兄が待ったばっかりするから、盤ごと投げて。口をきかないうちに、風邪をこじらせて」

 泣かなかった。盤を表に返し、ぱちぱちと駒を並べはじめた。

「最後の一局、覚えてるんですけど。銀子さん、兄の座に座ってください。指すのは私が言うとおりに」

「駒の進み方しか存じませんが」

「兄も大して知りませんでした」

 兄の座に座った。駒をつまむ前に、手を一度、盤の縁に置く。修さんはそうやって、考えるふりをしたのだそうだ。

 芙美さんの言うとおりに歩を進め、銀を上げる。

「そこ。待った、って言いました」

 駒を戻す。芙美さんの指が一本立つ。

「そこも。兄はいつも、ちょっと待て、今のは手が滑った、って」

 二本目は桂馬で、三本目は飛車だった。指が立つたびに、芙美さんの口がへの字に曲がっていく。

「兄はそこで、腕を組むんです。それから障子のほうを見て、今日は冷えるな、って」

 言われたとおりに腕を組み、障子を見た。

「今日は、冷えますね」

「それ。それです。それで私が火鉢を足しに立つと、その隙に駒が一つ動いてるんです」

 冥婚一晩の代金に、将棋の稽古はついていない。ついていないが、断る理由もなかった。

 四度目に私が角を戻したところで、芙美さんの肩が震えた。

 噴き出していた。

「一回までって、どの口が言うんですか。もう四回目」

 腹を抱えて笑いながら、目は少しも和らいでいない。

「私、まだ腹が立っているんですけど」

「承知しております」

 芙美さんは、盤の欠けた角を撫でた。直す気は、ないらしい。

「叔母が、帯問屋をやってるんですけど。宵坂さんの名前、言っておきます。腹は立ったままで言いますから」

 お礼より、よほど効く。


 夕方、宵坂へ戻ると、裏木戸の上に柚子が一つ載っていた。

 留守の木戸に向かって、今朝も夫が求婚していったらしい。二冊目の帳面に、『師走十八日 柚子付き 留守につき却下』と書く。

 祖母の帯は、いつもどおり佐和さんが結んで帰っていた。

 表の戸が開いて、志乃さんが入ってきた。風呂敷包みを抱えている。私は帳場から先に言った。

「十五日のお答えを、まだいただいておりません」

 志乃さんの口元が、きゅっと締まった。今日の志乃さんは、何も言わずに私を見ている。

「持ってきたのよ、その答えを」

 志乃さんは草履を脱ぐのももどかしそうに上がり、帳場の私の前に膝をついた。

 包みが、卓に置かれた。どさりと重い音がした。

「丸甚より前に、河岸で口入れをしていた店の古い番頭よ。どの女を、どこの家へ、いつから通わせたか。それを書いた本物の帳面を、身を守るために隠し持っていたの。その番頭を口説くのに、夜の丸甚へ三晩通ったわ」

 包みを押さえる志乃さんの指先が、赤くかじかんでいた。丸甚からここまで、俥も拾わずに歩いてきたらしい。

 結び目が解かれ、古い帳面の背が覗いた。志乃さんは、それを開かなかった。

「私が十の年よ。本家の座敷で、汐叔母様の帯を結んだ人がいたの。その人が二台目の俥に乗るのを、縁側から見てた。優しい手だと思ったから、この夏、捜して雇ったのよ」

 志乃さんの声が、一段高くなった。

「あなたに疑われているあいだ、私は私の衣装係を疑っていたのよ」

 言い返す言葉が、一つもなかった。

 志乃さんは懐から、細長い控えを出した。本家の帳場の、払いの控えだという。指で押さえた一行を、奥から出てきた祖母が受け取った。

 汐の最後の日。俥代、行き二人分。帰り、付き添い一人分。

「帰りの分を、先に払ってるのかい」

 祖母は控えを持ったまま、しばらく動かなかった。

「……汐の分は」

 誰も答えなかった。母を迎えに来たあの人は、帰りの俥に一人で乗って戻ったのだ。

 私は、控えの端を握る祖母の手を見ていた。爪が白い。

「十二家は、続けます。親族の文なんか、知らないわ。やめるなんて、だめ」

 志乃さんの頬が赤い。怒っているのか、別のものなのか、私には見分けがつかなかった。

「番頭さんに、三晩」

「お酒は飲めないのに、飲んだわ」

「私に、褒めてほしいのですか」

「はい。銀子さんには」


 夜、志乃さんを引き留めて、三人で遅い夕餉にした。

 志乃さんは箸を取る前に、祖母の沢庵を三切れ、自分の小皿へ移した。

「番頭さんのところ、塩辛い肴ばかりだったの。口直しよ」

 祖母は黙って、鉢ごと志乃さんの前へ押しやった。それから、沢庵の減り具合を見て言った。

「三晩も河岸で飲んだんなら、橋向こうの筆屋で水の一杯ももらってくりゃよかったのさ」

 志乃さんは、沢庵を噛む音だけで返事をした。

 橋向こうの筆屋には、四年前に本家を出された手代がいる。祖母はそれを承知で言っているのだ。

「……橋は、渡っていません」

 祖母は、それきり土瓶を取って、番茶を注いでくれた。湯気の色が濃い。霜月三日の夕方、佐和さんは母もそうだったと言って、私の湯呑みを掌で塞ぎ、白湯に替えさせたのだった。

「お祖母ちゃん。母さん、お勤めの前は白湯だった?」

「汐は、お勤めの前は濃い番茶だったよ」

 祖母は自分の帯の結び目に触れた。今朝そこを結んでいった手を、確かめるように。

 あの白湯は、誰の夕方だったのだろう。手の中の番茶だけが、まだ熱かった。


 裏木戸に、提灯が二つ来た。

 一つは夫で、もう一つは家扶どのが提げていた。若様に夜道を一人で歩かせはしない、と言い張って、父の家から付いてきたらしい。

 上がり框で、夫が私の指先に目を留めた。駒の墨が、爪の脇に薄く残っていた。

「指したのか」

「待ったを、四回いたしました」

「俺なら、一回で止める」

「存じております。あなたは、待ったをなさらない方でしょう」

 夫は返事をしないまま、私の指の墨を親指で一度だけ拭った。

 座敷で、志乃さんがもう一度、夕方の話をした。番頭の言うには、その衣装係は十二家の一軒に、九か月住み込んでいたこともあるという。衣装係の名が出たとたん、家扶どのが懐かしそうに顔を上げた。

「佐和さん。……ああ、あのお茶の方。直継様のお書斎へ、毎朝お盆を。月命日の広間でお見かけして、お変わりなく、懐かしゅうございました」

 座敷が、音ごと凍った。

 家扶どのは、自分の口から出たものの意味に遅れて気づいた。皺の中から、色が引いていく。

「あの冬……爺は、旦那様の枕元を離れられず。お台所を通いの女に任せましたのは、爺でございます」

 隣で、夫の顔からも血の気が引くのが分かった。

 志乃さんが帳面を開いた。一つの欄を指で押さえたまま、夫の前へ滑らせる。読み上げはしなかった。

 通い先の欄に、「鷹尾」の二字。夫の実家だ。夫の目がそこで止まった。日付は、兄上の亡くなるひと月前から始まっていた。

「あの冬、俺は爺に訊かなかった」

 夫は帳面を閉じた。

 拳が、座敷の柱を打った。

 鈍い音がして、床の間の花入れが小さく鳴った。

 夫は柱に拳をつけたまま、低く言った。

「……兄の茶を、毎朝運んでいた女だ」

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