九か月だけの家
宵坂と名乗ったとたん、門の老人は、開けかけた片側の戸を半分のところで押さえた。
楢崎家は、最後まで本家の申し出を断り通してきた一軒だ。
ここの主はもう亡く、家は絶えている。佐和さんが九か月住み込んでいた家だと、十八日の夜、志乃さんの口から聞いた。
だから今日は、本家の使いとしてではなく、花嫁として自分で頼みに来た。
夫は今、兵二人と並んで、私の三歩後ろにいる。
「この家の家令の、古賀です。旦那様が亡くなられてから、門は私が預かっています」
白髪の老人は、戸の端に手を掛けたまま言った。主のいない家を、一人で閉め続けてきた手だった。
「汐さんの、お身内ですか」
息が、一拍止まった。
見知らぬ家の門口で、母の名のほうが先に私を待っていた。
「汐は、私の母です。十四年前に亡くなりました」
古賀さんの唇が、十四年、と動いた。勘定の合わない顔だった。
「あなたのお母様の名が、この家を九か月だましました。お帰りください」
戸が、こちらへ寄ってくる。
私は門の前で手を揃え、頭を下げた。
「母の名でこの家になされたことは、娘の私がお詫びいたします。名の始末は、名の主の身内がつけるものでございます」
客を帰す口上なら、十二の年から祖母に仕込まれた。詫びの口上は、誰にも教わっていない。
頭は上げなかった。踏み石の脇で、溶け残った雪が泥をかぶっている。それだけを見ていた。
戸の軋む音が、途中で途切れた。
長いこと、誰も口を開かなかった。
「……お入りください。あれが誰だったのか、私は知りたい」
戸が開ききった。古賀さんの目が、私の肩越しに後ろへ行く。
「軍服の方は、門の外でお待ちください」
「承知した」
夫は一歩下がり、門柱の正面で踵を揃えた。顎が引かれ、両の手が軍袴の縫い目に貼りつく。兵の二人も慌てて同じ形になった。三人並ぶと、絶えた家の門前に、急に衛兵所が建ったようだった。
通りかかった豆腐屋が、天秤棒ごと道の向こう側へ大回りしていった。うちの路地でこれをやられたら、朝の豆腐を買い損ねる。
「何刻かかるか、分かりませんよ」
「お前が出てくるまで崩さん」
「では、そのままでいてください。出てきたとき、すぐに見つけられるように」
夫の顎が、ほんの少しだけ下がりかけて、また引かれた。
座敷は、火鉢に炭が入っていても冷えていた。人の住まなくなった家の冷えは、炭では埋まらない。
古賀さんは茶を一つ出したきり、何も話さなかった。旦那様はどんな方でしたか、と訊けば「静かな方でした」。お好きなものは、と訊けば「庭です」。お加減はいつから、と訊けば「亡くなった年の、春からです」。それ以上は一言も足さない。
私が黙ると、古賀さんは立って、納戸から畳んだ白いものを持ってきた。
木綿の寝衣だった。洗いざらして、衿の糸が光っている。
右の脇の縫い目がほどかれ、代わりに紐が二本、上と下に付けてあった。腕の上がらない病人を、寝かせたまま着替えさせるための直しだ。
「その女が直したものです」
古賀さんは寝衣から目を逸らして、付け足した。
「……捨てる手間を、惜しんだだけです」
紐の付け根に、指を当てた。
一針目で止め、二針目を半目だけ戻して、もう一度止めてある。なぞると、指の腹にだけ小さな段が分かった。
霜月九日の夜、夫の冥婚の支度部屋で、佐和さんが母の白無垢の裾に入れてくれた一針と、同じ止め方だった。母に針を習った人の、母の止め方だ。
私は紐を放さなかった。放したら、何かを片付けてしまう気がした。
古賀さんは、私の指先から目を離さなかった。
古賀さんが、膝を正した。
「宵坂様。旦那様の冥婚を、お願いします。払いは私がします。本家のお金は受けません」
「承ります。お代は相場どおり、二円五十銭でございます」
「……旦那様のひと月の薬代より、安い」
古賀さんは懐から財布を出し、畳の上に一円札を二枚と五十銭玉を一つ並べた。札の皺を、一枚ずつ掌で伸ばしてから。
「条件が一つあります。本家の衣装係は、この家の敷居を一歩もまたがせません」
紐の上で、指が動かなくなった。
「本家のお使いが来るたび、後ろに衣装の包みを抱えて、あの女が立っていました。あの女が付いてくるかぎり、本家の払いは、門の外でお返ししました」
最後の一軒になったわけは、それで足りた。
「お受けいたします。当日の着付けは、私が自分でいたします」
白無垢を一人で着るのは骨が折れる。骨が折れるのは、こちらの勝手だ。
古賀さんは頷いた。
「門の外の方は、どなたです」
「紙の上では、他人でございます。毎朝、うちの木戸へ求婚に来る他人です」
古賀さんは、しばらく私の顔を見ていた。
「……それで、返事は」
「今朝の分は、却下いたしました」
古賀さんは何も言わず、障子の向こうの門の外へ、一度だけ目をやった。
玄関を出ると、古賀さんは門へは向かわず、私を庭へ回らせた。
植え込みの日陰に、雪がまだ白く残っていた。飛び石が、奥の平たい大きな石まで続いている。
その手前に、背のある木の椅子が一脚あった。背の上から、藍の布がきちんと掛けてある。
古賀さんは椅子の前で振り向き、懐から薄い帳面を出した。表に、墨で「楢崎伊織」とある。
「旦那様の日記です。最後の冬のところだけ、お見せします」
開いて渡された頁は、字が終わりに近づくほど大きく、斜めになっていた。
『庭の石まで歩いた。途中で座った。はつが怒った』
『夜明けに目を覚ましたら、はつが隣で眠っていた。針が床に落ちていたので拾った。起こさなかった』
『明日、晴れたら庭へ出る』
その先の頁は、白かった。
帳面から顔を上げると、目の前に、布を掛けた椅子があった。
針が床に落ちていた。寝衣の紐を付けたのと、同じ人の針だろう。
「この家の奥様は、汐ではなく、はつという方だったのですね」
「違います。あれは」
古賀さんは言いかけて、口を閉じた。日記を持っていた手が、袴の脇まで下りた。
「……そう呼んだのは、旦那様お一人です」
はつ。本家の衣装部屋で、佐和と呼ばれている人の名だ。
古賀さんは椅子の背の布を、皺も寄っていないのに、指で一度だけ直した。
「出るおつもりでした。この椅子を磨かせて、背へ布まで掛けさせて」
何か言おうとした。
椿の枝から雪が一つ落ちて、藍の布に、そこだけ濃い色が滲んだ。
門まで、古賀さんは何も言わずに送ってくれた。
門柱の正面に、夫が来たときと同じ形で立っていた。顎の角度まで、少しも変わっていない。兵の二人は、鼻の頭が赤かった。
探すまでもなかった。
夫の目が私の顔を一度だけ確かめて、何も訊かずに前へ戻った。
「お待たせいたしました」
「待っていない。立っていただけだ」
兵の一人が洟をすすり、もう一人が肘で小突いた。夫は踵を解くと、手袋を片方外して、私の右手に押しつけた。紐を握っていた指が、まだ冷えていたらしい。
「装備の貸与だ。返却は明朝、木戸でいい」
古賀さんは、敷居の内側に残っていた。
「宵坂様。一つだけ」
私は振り返った。古賀さんは、門の外の軍服ではなく、庭のほうを見ていた。
「あの女は、旦那様の冥婚を頼みに来ました。……断りました」




