閲覧ですわ
夜明けの裏木戸の上に、雪兎が一匹載っていた。目は南天の実で、耳は南天の葉だ。
私は兎を盆に移して、台所の窓の外へ出した。溶けるのは、なるべく遅いほうがいい。
帯の刻限には、今朝も佐和さんが来た。この二日、佐和さんの顔を見るたびに、心の中で「はつさん」と呼びそうになる。
「重いのですね、骨というのは」
施療院の門の前で、夫の叔母様が骨壺を胸の高さに抱えていた。
喜助さんの骨だ。今日、家族へ返す。
使いの家扶どので足りる用だ。来たのは叔母様で、私が宵坂から抱いてきた壺を、門の前で取り上げた。
門の脇から、女が立ち上がった。喜助さんのおかみさんの、おとよさんだ。ひと月あまり、ここで亭主の骨を待っていた。
叔母様は、自分の手で壺を渡した。
「……おおきに。奥様に、重たいもん持たせてしもて。うちの人、自分の荷はいっつも人に持たせるんです」
おとよさんは泣かずに、壺を抱え直して頭を下げた。
「侯爵家の喪主として、粗相があってはなりませんでしょう。それだけでございますのよ」
壺を離した叔母様の指が、袖の中で握りこまれていた。
霜月の焼け跡で、私はこの人を、人前で疑った。
昼は、若葉寮の広間にいた。今日は寄進者の会だ。
「銀子さん、寮の子らの弔いを頼まれた方が、寄進者の顔を知らないでは済みませんことよ」
紗雪さんに、そう押し切られてきた。
上座で、柏木さんが立ち上がった。
「私どもが名を付けた子は、百と十二人になりました」
拍手が起こった。
「いちばん初めの子は、私が付けました。寄進より前、私が寮の薪割りを手伝っていた若い時分でしてな。三つの男の子が、赤ん坊の妹を抱いたまま、門に置いていかれた。兄の名は定吉。妹には、初めての子だから、初と付けました。あの泣き声は、今でも覚えておりますよ」
はつ。今朝も帯を結びに来た、佐和さんの本当の名だ。佐和さんには、定吉という兄がいたのだ。
百と十二人の名を覚えている人の前で、一人の名に顔色は変えられない。
「如月十日の顕彰式には、寄進三十年の碑が建つそうで」
「柏木様のお名は、むろんいちばん上に」
祝いの声が、耳の上を流れていった。
柏木さんは笑みのまま、紗雪さんの前で足を止めた。寮の帳面を検事局へ渡したのは、紗雪さんに頼まれた母君だ。
「藤宮様のお家には、長くお世話になりましたな。寮の世話役のお席も、今月かぎりということで」
柏木さんは、寄進者たちの顔を一人ずつ見渡した。子の名を確かめるときと同じ目だった。
「来年の碑には、藤宮様のお名は、二段目にお移りいただくことになりましょうな」
紗雪さんは扇を開き、一つ扇いだ。
「世話役の席なら、私が座りましてよ。いいえ、今日からですわ」
隅の子の一人が、ぱっと顔を上げた。
柏木さんは微笑んだまま、席へ戻っていった。負けた人の背中ではなかった。
夜、寮の書庫には、紗雪さんの手燭が一つきりだった。夫は寮へは入らない約束で、門の外にいる。
「何をしているんです!」
戸口で、寮母が手燭を突きつけてきた。紗雪さんは棚から目も離さない。
「泥棒ではなくてよ。閲覧ですわ」
寮母はしばらく紗雪さんの横顔を睨み、足音高く廊下へ戻っていった。
「何かおかしくって?」
「いいえ。その言い回し、一ついただいてもよろしいですか。うちの帳場でも使えそうです」
「差し上げてよ。お代は結構」
紗雪さんが、埃をかぶった寄進の綴りを抜き出した。古い寄付の記録だ。指が、ある頁を押さえる。
「一年半前に、これを見ましたの。……見直してまいりますと申し上げたきり、ずいぶん放っておいてしまって」
手燭が寄せられた。
『弔い一件 定吉 施主 宵坂汐(自費)』
目が、括弧の中で止まった。
自費。母は、銭を取らなかったのではない。自分の銭を出していた。
「取次ぎでは、ございませんでしたのね」
紗雪さんが、小さく言った。弔いを請け負っただけの冥婚屋として、宵坂の名が載っていると思っていたのだろう。私もだ。
妹を抱いたまま門に置かれた三つの子の冥婚を、二十の母が、自腹で挙げていた。
母の手の温みが、掌に来た。髪を梳いてくれた手だ。その手が弔った子の妹が、十四年前の秋、母の最後の日に付き添って、一人で帰ってきた。
佐和さんが母に針を習ったのは、兄の経帷子を縫う夜だったのかもしれない。分からないまま、綴りの端を握っていた。
紗雪さんは、別の棚から薄い帳面を引き出していた。寮の帳面を借りた人の名を控える、閲覧簿だ。
紗雪さんが、扇を閉じた。
紗雪さんの目が、一つの欄から動かない。そこに、許婚だった方の名があった。二年あまり前の春に、急に亡くなった方だ。日付は、亡くなるひと月前だった。
「あの方に寮の帳簿を見てくださいと頼んだのは、私ですの」
語尾は、いつもどおりだった。声だけが、糸のように細かった。
紗雪さんの膝が折れた。私は手燭ごと、その肩を抱えた。何も言わなかった。どんな慰めも、この人の頼んだことを軽くしてしまう。
そのとき、廊下から、つんと鼻を刺す匂いがした。
灯油だ。寺の二階で吸った、綴りの焼ける煙が、喉の奥に戻ってきた。
戸口に、頬に傷のある男が立っていた。缶を傾けて、棚の帳面へ油を撒いていく。床を伝った油が、私の足袋の先まで来た。
私の手には、火の点いた手燭がある。
吹き消した。
真っ暗になった。皿の上で、溶けた蝋がまだ熱く揺れているのが、手の重みで分かった。
闇の中で、燐寸を擦る音がした。一本目は、火にならずに折れた。
音のしたほうへ、手燭を振った。熱い蝋が、皿から闇へ飛んだ。
男が呻いた。燐寸の箱が、床に散らばる音がした。
腕の中で、紗雪さんが息を吸った。
「寮母さん! 閲覧ですわ。泥棒は、戸口の方!」
糸のようだった声が、廊下の端まで通った。差し上げた言い回しは、持ち主が使うのがいちばんよく効く。
あちこちの戸が開いた。寮母の手燭、下働きの提灯、半纏を引っかけた男衆。廊下に明かりが並んでいく。
男は缶を蹴り倒し、明かりの来ないほう、台所の勝手口へ駆けていった。戸板の鳴る音がして、それきりだった。
息が、ようやく胸の底まで下りた。
帳面は油に濡れたが、火は入らなかった。
軍靴の音が廊下を駆けてきたのは、そのあとだった。
提灯を提げた夫が、戸口で足を止めた。油の溜まりと、床に散った燐寸と、私の手燭の皿で白く固まった蝋を、順に見た。
「紗雪どの、怪我は」
「ございませんの」
「……入らない約束では、ございませんでしたか」
「紗雪どのの声が、門まで届いた。着いたら、片付いていた。破り損だ。処分は、明日の朝、お前が決めろ」
夫の提灯が、油に濡れた私の足袋を照らした。
紗雪さんは綴りを受け取り、懐へ差し入れた。
「これは、藤宮の母の名で、お借りしてまいりますの」
寮の門を出ると、雪は本降りになっていた。
「今から、柏木様のお屋敷へ参りますの。帳面に油を撒かせた方の顔を、見て差し上げなくては」
「まだです」
「いいえ、今夜でなくては。あの方の分も、寮の子らの分も、まとめて伺ってまいりますの」
「今夜行けば、柏木様は燐寸の話しかなさいません。手前どもが聞きたいのは、そちらではございません」
紗雪さんの扇が、雪の中で半分だけ開いて、閉じた。
私が聞きたいのは、母の最後の日だ。それを知っている人は、柏木さんの屋敷にはいない。毎朝、うちへ帯を結びに来る。
門の外で、肩に雪を積もらせた夫が、紗雪さんに自分の提灯を差し出した。手燭の火は、書庫で消えたままだ。
「あなた。決めました」
夫が、私の顔を見た。古賀さんの条件は、帰り道に話してある。夫の口が開きかけた。
その前に、私は言った。
「伊織様の御祝言の介添えは、佐和さんに頼みます」




