夜はお前の商いだ
「あの衣装係と二人きりの支度部屋に、妻を入れるのか」
帳場の框に腰も掛けずに、夫はそう言った。
年が明けた。明けても、この人の問いは、師走の雪の門で私が言い切ったところから一歩も動いていない。
今朝の付け届けは桶の幅に割った井戸の氷で、却下を書くより先に、奥から祖母が「水なら受理するよ」と台所の甕へ放りこんでしまった。
「支度部屋に殿方は入れません。うちの決まりです」
「なら、決まりを変えろ」
「変えません」
それだけ返した。夫の顎が硬くなる。
土間の隅で、若い検事の各務さんが帽子を膝に載せていた。帳場の喧嘩に口を挟む筋合いはない。
ないはずの人が、咳払いを一つした。
「少佐。帳面と署名をいくら積んでも、兄上の茶は出てきません。あの人が毒を手にしたところを押さえなければ。……必ず、とは言えませんが」
「その場に、妻を置けと言うのか」
夫が各務さんへ向き直った。その隙に、私は帳場から一歩前へ出た。
「柏木さんは、寺と同じように、あの人ごと切るつもりです。罠でも、使ってきます」
夫の目が、私へ戻ってくる。
「どうせ使われるなら、場はこちらで決めます。花嫁に綿帽子を被せて座敷へ出すのは、手前どもの毎晩の商いでございます。震える花嫁は帯が決まりません。私の帯は、もう決まっております」
「銀子」
奥の襖が、すっと開いた。
祖母が煙管を持って立っていた。痛むほうの肩が、少し下がっている。
「座りな」
私は座った。夫まで、つられて膝を折りかけた。
祖母は框に腰を下ろし、煙管の雁首を火鉢の縁で一度だけ叩いた。
「言ってなかったね。汐を乗せてった俥には、鈴が付いてたんだよ。あたしは店の前で、黙って見送った。いまだに、朝の豆腐屋の鈴で振り向くんだ」
灰が、火鉢の中へ落ちた。
「だから今度は、黙って見送らないで、口で言ってやる。行っといで。帰りは、あたしが提灯を持って迎えてやる」
祖母は、火鉢の灰ばかり見て、私を見なかった。
帯は決まっている。綿帽子の被り方も、盃の傾け方も知っている。知っているのに、膝の上で指が勝手に重なり合って、一本も離れない。
その指を、祖母の煙管の先が一本ずつ叩いた。
「その手、離してから言いな」
ほどいた。爪の跡が、前掛けの上の手の甲に白く残った。
顔を上げると、夫がいた。
「……怖いです」
言ってしまった。
一拍が長い。帳場の柱時計が、一つ鳴るより長い気がした。
渡してしまった、と思った。店先で、紙の上の他人に。頬が熱い。熱いのに、肩のあたりが軽くて、そのことがまた恥ずかしかった。
「夜はお前の商いだ。立会人を付けろ。俺だ」
夫は、それ以上の手配を並べなかった。
「支度部屋には入らん。座敷の襖の陰に座って、夜明けの茶を受ける。それだけだ」
うちの作法は曲げない。言い分も引かない。
祖母は煙管をくわえ直し、「朝っぱらから、店先でやることかね」とぼやいて、奥へ戻っていった。
私は予約帳を開いた。
睦月の頁をめくり、二十七日の欄に、筆を下ろす。
『楢崎伊織様 御祝言 夜』
各務さんが、帽子のつばを指で一度なぞった。
昼、楢崎家の門は、半分だけ開いていた。
夫は路地の角に置いてきた。約束を破りに来るのに、軍服の連れは要らない。
「古賀様。先日のお約束を、一つ違えに参りました」
家令の古賀さんは、開いているほうの扉に手を掛けたまま、私の顔を見た。
「伊織様の御祝言の介添えは、本家の衣装係にいたします」
扉が、私の鼻先で半寸ほど閉まった。
「お約束が、違います」
「承知で参りました。あの人を、伊織様の前に座らせるためです。そのためだけに、お宅の敷居をまたがせます」
古賀さんは、長いこと黙っていた。
飛び石の上で、溶けかけた雪が光っている。軒から雫の落ちる音が、三つ数えられた。四つ目で、古賀さんが口を開いた。
「その衣装係の名を、伺っても」
「佐和と申します」
「……佐和、と」
古賀さんの唇が、声を出さずに、もう一度動いた。初めて聞く名を覚える口ではなかった。
「旦那様の前に座らせるためなら、お入れします。私も、座敷におります」
古賀さんは閉じかけた扉から手を離した。それから、閉じていたほうの扉の閂を外し、押し開けた。門が、両側とも開いた。
「二十七日は、こちらも開けておきます。お俥が、つかえませんように」
私は深く頭を下げて、門をくぐらずに引き返した。
路地の角で、夫が腕を組んで待っていた。
「通ったか」
「門が、倍に開きました」
夫の眉が、少しだけ上がった。
翌朝、帯の刻限に、佐和さんが裏口から入ってきた。
「大奥様は」
「このところ、自分で結ぶと申しまして」
奥の襖は閉まったままだった。向こうで衣擦れが始まっては止まり、止まっては始まる。痛む肩で帯を回す音だ。
「左様でございますか」
佐和さんはそれ以上訊かず、上がり框に包みを解いた。私の半衿の付け替えを、ついでに持ってきてくれたのだという。針が、すぐに動きはじめた。
私は火鉢の脇で、湯呑みを両手に持っていた。
「睦月二十七日の夜、楢崎伊織様の冥婚を勤めます。その介添えを、佐和さんにお願いしたいのです。支度から、夜明けまで」
針は止まらなかった。
一目、二目と、白い衿の縁を細かく進んでいく。佐和さんは顔も上げずに言った。
「楢崎様のお式なら、支度部屋は、花嫁さまと二人きりにしてくださいまし」
承知も、お断りも、その前になかった。条件だけが、先に来た。
私は湯呑みを持ち直した。中の白湯が、縁まで平らなままでいるのを確かめてから、口を開く。
「支度部屋は、二人きりにいたします。座敷の立会人は、あの人が務めます。夜明けのお茶も、あの人が受けます」
「少佐様が」
「はい。夜明けまで、襖の陰に座っております」
佐和さんは最後の一目を留めて、糸を歯で切った。半衿を畳み、私の膝の前に置く。
「承りましてございます」
深く頭を下げて、佐和さんは裏口から出ていった。
襖の向こうの衣擦れが、ようやく止んだ。
私は湯呑みの白湯を飲み干した。ぬるかった。
それから毎朝、佐和さんは来て、袖口のほつれを一つ二つ繕って帰った。
幾日か、何も起きなかった。
睦月二十日の夕方、店先の芋屋の声を、別の声が踏み潰した。
「銀子さん!」
すずさんだった。洗い張りの板を小脇に抱えたまま、息を切らして暖簾をくぐってくる。
年明けから、すずさんは柏木さんの屋敷の敷布を、相場の半値で請けている。二年前、祝言の日の周吾さんを乗せていった揚羽の箱馬車が、あの屋敷の厩に入っていないか。それを自分の目で確かめたくて取った仕事だ。
「水、一杯もらうよ。走ってきたんだってば」
甕の柄杓を渡すと、すずさんは一息に飲んで、手の甲で口を拭った。いつもの喧嘩腰が、顔のどこにもなかった。
「今日も敷布を取りに行ったついでに、厩の裏を覗いてたんだよ。箱馬車は、やっぱりなかった。そしたらだよ」
すずさんは柄杓を甕に放りこんで、帳場へ身を乗り出した。
「先に言っとくけど、この話、三銭じゃ売らないからね」
私は黙って、帳場の下から銭箱を出し、蓋を開けて見せた。
「帯の女がさ、柏木の屋敷の勝手口から、包み抱えて出てきたよ。三銭賭けてもいい、ありゃ薬包みだ」




