前夜
妻の衿を、兄を殺した手が直していた。
俺は宵坂の店先の框に腰を掛け、半分開いた襖の隙間から、それを見ている。
睦月二十六日、昼。すずが、あの女が柏木の屋敷の勝手口から包みを抱えて出てきた、と駆けこんでから六日になる。その袖に何が入っているのか、俺はまだ一度も見ていない。見ていないものは、押さえようがない。
今朝の求婚は、口上の前に却下された。木戸を開けたのは祖母どので、「明日が明日だよ、婿どの。今日の分は、明後日まとめて聞いてやる」と言って、そのまま閉めた。
昼に出直すと、祖母どのは帳場から煙管の先で框を指した。
「離縁届の済んだ男は、客だよ。客なら店先までは入れてやる。何か買いな」
蝋燭を二本買った。五銭玉を出したが、釣りは来なかった。祖母どのは五銭玉を銭箱へ落として、「冥婚屋で蝋燭を買う客は、たいがい泣いてるもんだがね」とぼやいた。
奥の支度部屋では、明日の白無垢が衣桁から下ろされていた。妻はそれを肩に掛けられ、両腕を少し浮かせて立っている。衣装係の佐和が背中へ回り、衿を合わせた。
佐和の指が、妻の首筋のすぐ脇を通った。
懐の中で、右手が紙を握った。兄の茶筒に残っていた包み紙だ。今日だけは、文箱の底から出して持ってきた。折り込んだ角が、掌に食い込む。
框から支度部屋の敷居まで、六歩。相手は女一人で、手には針しかない。今なら押さえられる。
押さえれば、明日の夜は来ない。楢崎家の座敷で、衣装係が死者の前に座ることもない。妻の母御の最後の日を知っている口は、留置場で閉じる。誰が兄の茶に入れたのかは、証のないまま残る。
右手は、懐から出さなかった。
「客の分だよ」
祖母どのが、框の脇に湯呑みを置いていった。
湯気の立つ茶だった。色が浅い。客に出す宵坂の茶は、いつも浅い。
兄の茶は、黒かった。湯呑みを縁から鷲掴みにして、濃すぎる一杯をこちらへ突き出す手だった。もったいない、飲め。俺が湯で割ると、卑怯者、と言った。
浅い茶を一口含んで、置いた。
衣装係が支度部屋から出てきた。土間の手前で膝をつき、頭を下げる。手の中で、糸巻きに白い糸を巻き取っていた。
「明けのお茶のお支度は、こちらで整えさせていただきます。少佐様のお好みを、伺いに参りました」
霜月三日の晩、俺は湯で割った茶の二口目で舌が痺れ、湯呑みを膳の端へ押しやった。結いかけの櫛を置いて立ったのは、この女だった。俺が湯で割って飲むところを、この女は同じ座敷で見ている。
承知の上で、言った。
「湯を付けてくれ。俺は、薄めて飲む」
糸巻きは回り続けていた。
「では、お湯は、熱いのを多めに」
背中の汗が、一度に冷えた。
顔には出さなかった。軍で最初に覚えさせられるのは、撃たれたときに声を出さないことだ。
「それでいい」
「承りましてございます」
衣装係は糸の端を歯で切り、糸巻きを袂へ入れて立った。暖簾をくぐり、雪の残る路地を角のほうへ歩いていく。一度も振り返らなかった。
角に立っていた甲斐が、顔だけをそちらへ向けた。
俺は框から立たずに、その背中が見えなくなるまで見送った。
懐の紙は、皺が寄っていた。
支度部屋の襖が開いて、妻が出てきた。白無垢は衣桁へ戻され、普段の縞の袷に、まだ待ち針が一本残っている。
「聞こえておりました」
妻は框の前に立ったまま、座らなかった。
「あの人に、ご自分のお茶を、餌にお出しになりましたね」
「俺の分だ。どう使おうと、俺の勘定だ」
「葉は、うちの台所から出ます。お代は、うちの勘定です」
「なら、払う」
「そういう話をしているのでは、ございません」
妻は待ち針を衿から抜いて、指の間に挟んだ。俺が何か言う前に、帳場の奥から祖母どのが口を挟んだ。
「客と揉めるんじゃないよ、銀子。蝋燭二本分しか払っちゃいないんだから」
妻は口を結び、待ち針を衿へ刺し直して、支度部屋へ戻った。襖は、今度は閉まった。
夜、裏木戸の上に、雪明かりが薄く溜まっていた。
木戸は胸の高さで、俺は外に、妻は内にいる。祖母どのの許しは店先までで、この木戸から先へは入れない。吐く息が、板の上で二つ混ざって消えた。
軒の掛け行灯が、ちりちりと音を立てて細った。蝋燭が尽きかけている。昼に買った二本のうち一本を懐から出し、燃えさしから火を移して継いだ。
「お客様に、うちの明かりの番をさせるわけにはまいりません」
「売った品の使い道までは、店は口を出せん」
妻は、継いだ火を見上げた。
「五銭で二本です。残りの一本は、明日の座敷の分に取っておいてください」
「そのつもりで買った」
縁側の雨戸が一枚だけ開いていて、奥で煙管の火が赤く点っていた。
「伊織様が何を仰っても」
妻は板の縁に指を掛けて、言った。
「私、あの人に言ってやりたくなるかもしれません。母を返せ、とは言いません。憎んでいた、と」
「言いたくなったら言え」
「花嫁は、座敷で口をききません。作法です」
「なら、襖の陰で俺が聞いている」
「襖の陰の立会人も、口はききません」
「きかん。聞くだけだ。座敷で呑みこんだ分は、夜明けに俺の茶の横へ置いていけ。湯で割って飲む」
「憎い、を薄めて飲むんですか」
「薄めれば、二人で飲める量になる」
妻の指が、板の縁を二度、軽く叩いた。三度目は叩かずに、そのまま止まった。
「あなた」
「何だ」
「口づけて、ほしいです」
「ここでか」
訊き返すのが、一拍早すぎた。
縁側のほうで、祖母どのが咳をした。一つだけ、やけに通る咳だった。
「祖母は、風邪です」
「今朝は、ひいていなかった」
「では、今ひきました」
妻が、木戸の上へ顔を寄せた。
俺は一拍遅れて、板の上に残った一寸を詰めた。
板越しに、唇が触れた。冷えた唇で、息だけが温かかった。
縁側で、二つ目の咳がした。途中から、笑い声に崩れていた。
俺は半歩下がり、継いだばかりの行灯の火を、用もないのに見上げた。
「……撤収する」
「まだ、帰らないでください」
妻が、板の縁へ身を寄せた。
「今夜、言ってください」
「何をだ」
「言い残しです。あるのでしょう。明日の夜、私が戻らなかったら」
妻はそこで、口を閉じた。その先を言わずに、俺の顔を見ていた。
喉まで来た。
来たものの形は、分かっていた。毎朝の口上に包んで差し出しながら、一度も中身を出さずにきたものだ。
呑みこんだ。
「今夜言えば、遺言だ。……生きている者の遺書は、承らんのだろう」
妻は答えなかった。
妻の指が、板の縁を握っていた。
雪が一片、妻の前髪に落ちて、溶けた。
「……朝に、報告する」
妻の目が、わずかに動いた。
「いつの朝です」
「お前が戻った朝だ。この木戸で、口上の前に言う」
「却下するかもしれませんよ」
「却下されたら、翌朝もう一度報告する」
妻は息を一つ吐いて、板から指を離した。
「承りました。……明日の支度がございますので、失礼いたします」
妻は背を向け、雪を踏んで母屋のほうへ歩きだす。小さな足跡が、雪明かりの中に一つずつ残っていった。
行け、と言うつもりだった。明日の段取りを、命令の形で一つ渡して終えるつもりだった。
口から出たのは、そのどちらでもなかった。
「……頼む。無事に戻れ」




