求婚のない朝
今朝は、求婚がなかった。
夫はゆうべから楢崎家に詰めていて、裏木戸を叩く人がいない。却下と書くための帳面を、私は帳場で開いたまま、筆を持て余していた。
木戸の上には、霜が白く降りているだけだった。湯呑みを二つ出しかけて、一つを棚へ戻した。私は一人分の湯を沸かした。
日の出の前に、甲斐さんが紙切れを一枚届けに来た。角張った、夫の字だった。
『本日分の口上は、明朝の報告と共に申し上げる』
二冊目の帳面に、初めて「保留」と書いた。一冊目に一度書いて、消した二字だ。同じ二字を紙切れの裏にも書いて、甲斐さんに持たせた。
「少佐殿に、ほかにお言付けは」
「却下の欄は、空けてございます。そうお伝えください」
甲斐さんは真面目な顔で復唱し、紙切れを軍服の胸へしまって、霜の路地を駆けていった。
祖母が覗きこんで「保留かい」とだけ言い、煙管をくわえて奥へ引っ込んだ。
夜の楢崎家は、どの部屋の火鉢も小さかった。
今夜は、伊織様の冥婚だ。花嫁は私で、支度部屋には佐和さんと二人きりでいる。廊下の先の座敷では、夫がもう、襖の陰に座っている。祖母も一緒だ。
死人の婚姻届に母の名を書き続けてきたのが、この人の手だと、私はもう知っている。
佐和さんが、母の白無垢を私の肩に掛けた。衿を合わせる指は、今夜も迷わない。
「汐様は、よくお笑いになる方でございました」
背中から、ふいに話しかけられた。
「針を折っては笑い、糸を絡めては笑い。縫い目が曲がりますと、曲がったほうが着る方に似合うと仰って、そのまま綴じておしまいになります。大奥様に、ずいぶん叱られておいででございました」
笑いそうになった。母の曲がった縫い目なら、この白無垢の裾に一つ残っている。祖母の始末の糸が、その上を黙って押さえている。
「母は、髪を梳くときも笑っていました。笑いながら、いつも少し引っぱるんです」
「汐様は、櫛だけはお下手でございました。針の倍、お時間がかかりました」
「針は、上手でしたか」
「経帷子だけは、どなたにも負けませんでした。亡くなった方のお召し物だけは、一目も曲げずにお縫いになりました」
佐和さんの口の端が、ほんの少し動いた。この人が笑うのを、私は見たことがない。今のが、それだったのかもしれない。
知らない母が、背中から一枚ずつ渡されてくる。肩の力が、勝手に抜けていった。
「花嫁さま、お腕を」
両腕を浮かせると、佐和さんの手が胴を回った。
この人の結び目は、いつも指一本ぶん緩い。初めて帯を任せた日、わけを訊くと「お帰りの俥が、長うございますから」とだけ返ってきた。
「どうして、いつも少し緩めに結ぶんですか」
「顎を、少しお引きなさいまし。綿帽子が浮きます」
佐和さんは私の前へ回り、綿帽子の縁を整えた。目は、白い布の折り目だけを見ている。
十四年前の秋、母の乗った俥は帰ってこなかった。帰ってきたのは、付き添いの俥一台きりだ。その俥に乗っていた人の口から、あの日のことを聞いたことは一度もない。
私は顎を引いた。引いたまま、もう一度訊いた。
「どなたの帰り道ですか」
佐和さんの手が、止まった。
綿帽子の縁をつまんだまま、指が動かない。
当たった、と分かった。
それ以上は訊かなかった。
佐和さんは長いこと動かず、やがて、つまんでいた布をそっと離した。
「お時間でございます」
廊下を渡るあいだ、裾は佐和さんが持った。
座敷の襖の前で、私は足を止めた。閉じた襖の向こうから、低い声がした。
「保留は、受け取った」
花嫁は、座敷の外でも口をきかない。私は答えずに、綿帽子の中で唇を結んだ。結ばないと、緩んでしまいそうだった。
座敷の上座に、背のある木の椅子が置かれていた。
その座面に、位牌が立ててある。
位牌の前の燭台には、蝋燭が一本。宵坂で売っている、五銭で二本の品だった。ゆうべ裏木戸の行灯に継がれなかった、残りの一本だ。
売った品の使い道を、あの人はちゃんと守ったらしい。
花嫁の座は、椅子の隣だ。腰を下ろすとき、肘掛けに袖が触れた。
冷たかった。
木に溜まっていた冷えが、白無垢の絹を抜けて、腕の内側まで来た。
座敷の隅には、古賀さんが膝を揃えている。両の手は袴の上に置かれたまま、動かない。
佐和さんは介添えとして、私の背中に控えた。
古賀さんが銚子を傾けた。注ぐ口が一度だけ盃の縁に当たって、小さく鳴った。
盃を受けた。
口をつけ、位牌の前へ返す。
胸の奥に、声が来た。
『——はつ、と呼んでやってくれ』
低く、少し息の混じった声だった。病で胸の細くなった主が、家の者に用を言いつけるときの、静かな頼み方だった。
私は唇を結んだ。膝の上で、指が一度だけ握られた。
それから、深く息を吸った。
「施主様へ、御報告申し上げます」
「伊織様のお言葉は、『はつ、と呼んでやってくれ』でございました」
それから、私は振り向いた。
背中に控えていた人と、目が合った。
「はつさん」
はつさんの肩が、前へ出た。その音に、体のほうが先に応えていた。
袖口から、何かが滑った。
白い紙の包みが、青い畳の目の上に落ちている。
誰も、すぐには拾わなかった。
中身は分からない。ただ、介添えが花嫁の背中で袖に忍ばせておく品でないことだけは、分かった。
「生きておられたときも、そう言われました。この家の決まりで、私は最後まで、汐さんと呼びました」
古賀さんは座敷の隅から、はつさんの顔を見ずに言った。九か月、毎朝その呼び方で膳を運んできた声だった。膝の上の手が、袴を握っていた。
はつさんの唇が動いた。
「はつは——」
続きは、出てこなかった。
自分の口から出た音を、聞き慣れない品物のように確かめている顔だった。
私は動かなかった。包みは、私の膝から畳二枚ぶん向こうにある。腕を伸ばせば届く。伸ばさなかった。
襖が開いた。
夫が座敷へ入ってきた。軍靴を脱いだ足が、畳の目を踏んでいく。夫は包みの前で片膝をつき、指先でそれを拾い上げた。
四つに畳まれ、角が内へ折り込んである。夫の兄上の茶筒に残っていた包み紙と、同じ畳み方だった。
夫はしばらく、それを掌の上に載せていた。襖の陰で、祖母の煙管が、火鉢の縁で小さく鳴った。
「これは、誰の茶だ」
問いは、それ一つだった。
はつさんは答えなかった。
目が、座敷の隅の盆へ向いた。夜明けに夫が受けるはずだった茶の支度が、そこに整えてある。湯呑みが一つと、熱い湯を多めに入れた土瓶が一つ。
はつさんは、湯呑みから目を離さなかった。唇は閉じたままだった。
夫も、それ以上は訊かなかった。包みを懐へ入れ、はつさんと私のあいだに膝をついたまま、そこを離れない。
一度だけ、夫の目が私の顔をかすめた。怪我がないかを見る目だった。私は頷いた。
夫は懐の包みに手を置いたまま、もう片方の手を、私の袖のすぐ脇の畳についた。触れはしなかった。
庭の暗がりで、甲斐さんが砂利を踏む音がした。
私は肘掛けから袖を離した。冷えが、まだ腕に残っていた。
はつさんが、私のほうへ向き直った。畳に指をつき、深く頭を下げる。上げた顔は、支度部屋のどの顔とも違っていた。
「奥様。お母様の、最後の帯のことを、お話しいたします」




