母の、最後の帯
「あの朝、分家へお迎えに上がったのは、はつでございます」
はつさんは畳に指をついたまま、顔だけを上げていた。
「本家の女中のなりで参りました。お切符は」
そこで、はつさんは駅の名を一つ口にした。
十四年、私はその音だけを持っていた。六つの朝、襖の陰で聞いた。母の手を引いていく女の声が、玄関でその名を言った。顔も、着物の色も残っていない。音だけが、あの朝のまま耳の底に沈んでいた。
同じ音だった。
私の後ろで、祖母の煙管が畳に落ちた。拾う音は、しなかった。
古賀さんが次の間から、各務さんを呼んできた。各務さんは夫から包みを受け取り、懐紙で封じた。
「附子でしょう。……検めが済むまでは、そう申し上げるだけにしておきますが」
各務さんは矢立の筆を舐め、どうぞ、と顎で促した。
はつさんは、各務さんを見なかった。私だけを見ていた。
「はつは、汐様を本家の座敷へお連れいたしました。その朝も、奥の座敷の襖の向こうに、お客様がおいででした。本家の旦那様は、お客様の言いつけどおりに俥を出しただけで、何もご存じありませんでした」
お客様が誰なのかを、はつさんは言わなかった。
「分家の玄関先で一度お直しして、本家の座敷で、お帯を締め直させていただきました。汐様は鏡の中で、はつの顔をご覧になって、こう仰いました」
「定吉さんの妹さん。針は、続けてる?」
「定吉は、はつの兄でございます。捨て子の兄妹で、兄は十七で亡くなりました。その弔いの夜に、汐様が経帷子の縫い方を見せてくださいました。はつは十四の年に、汐様から半年だけ針を教わりました。兄の名で覚えていてくださるとは、思っておりませんでした」
母を連れていった人を、母は覚えていた。
右の手が、膝の上で浮きかけた。浮いた手で、私は白無垢の袖を握った。母の仕立てた袖だった。握ったまま、黙って続きを待った。
「汐様は、銀の揚羽の簪をお挿しでございました」
あの簪だ。母の針箱から出して、私が自分の髪に挿した、あの簪だ。
「最後のひと締めのところで、汐様が仰いました」
「少し緩めてくださる?」
「長く俥に乗るからですかと、伺いました。そうではないと」
「帰りに、娘を負ぶうから」
六つの私は、もう歩けたはずだった。
畳が、少し傾いた。
はつさんは、目を伏せなかった。
「峠下のお社で、祝言帳をお開きしました。花嫁の欄には、もう本家の筆で汐様のお名前が入っておりました。花婿の欄は、白いままでございました。汐様は筆をお取りになって、白い欄の上でしばらく止めて、何もお書きにならずに、筆をお置きになりました」
母は、誰の名の上で筆を止めたのだろう。
「そのあとで、はつがお湯をお渡しいたしました。中身は、存じておりました」
各務さんが、筆を紙から上げた。穂先の墨が一滴、袴の膝に落ちた。
夫は、はつさんから目を離さなかった。膝の上に置いた手が、いつのまにか拳になっていた。その拳は、最後まで膝から上がらなかった。
「それから十四年、はつは、どなたの帯も、少しだけ緩く結んでまいりました」
はつさんは、そこで息を継いだ。
「霜月三日の夕方、花嫁さまのお湯呑みに蓋をして、お白湯をお勧めいたしました。包みは、袂にございました」
「……汐様の娘さまのお湯呑みにだけは、はつの手が、動きませんでした」
「今夜の包みは、少佐様の明けのお茶に、と言いつかってまいりました。熱いお湯で割られても足りるように、と」
言いつけた者の名だけが、そこから抜けていた。
はつさんは膝の向きを変え、私の後ろへ頭を下げた。
「大奥様のお帯も、はつが結び直しました。お肩の痛む日に。お昼寝のあいだに鍵の紐をほどいて、桐箱の判を捺し、元のとおりに結んでおきました」
「錠の傷は、侯爵家の侍女の方のお見えになった日に、はつが簪でこじって付けておきました」
祖母は襖の脇に立っていた。
身に覚えのない離縁届が届いた秋、祖母は店先で胸を張った。
「帯は結ばせたさ。鍵の紐は、あたしが結んだ」
あのとき少しも引かなかった顎が、今、ゆっくりと胸のほうへ落ちていった。
「……帯を、結ばせたんだよ、あたしは」
誰に言ったのでもない声だった。
煙管を拾おうともしないその手を、私は見ていられなかった。目を逸らした先で、はつさんが懐から紙の束を出していた。
薄い帳面が、綴じ糸で十いくつも束ねてある。表紙の端が、どれも手の脂で黒い。はつさんはそれを両手に載せ、各務さんの前へ押し出した。
「帳面に書いたのは、はつのしたことだけでございます」
各務さんが受け取ると、束の上の一冊がひとりでに開いた。
細い字の並ぶ頁に、知っている名が一つあった。紗雪さんの許婚だった方の名だ。二年あまり前の春、急に亡くなった方だった。
各務さんは帳面を閉じ、膝の上に揃えた。
「では、続けて伺います。二年前の初冬、鷹尾直継様の」
「そこまでだ、検事」
夫の声だった。私とはつさんのあいだに膝をついたまま、夫は各務さんを見ていた。
「兄の話は、俺が聞く。予審の席でだ」
各務さんは筆を止め、少し考えてから矢立に戻した。
「……判事の前で初めて口にさせたほうが、調書より重い。おそらくは」
楢崎家の門をくぐったところで、膝が抜けた。
石畳に手をつく前に、夫が私の前へ回り、背を向けてしゃがんだ。
「負ぶされ」
「歩けます」
「知っている」
夫は、それきり動かない。
私は、その背に体を預けた。
祖母が古賀さんから提灯を借りて、迎えると言ったとおりに、夫の横に並んだ。夜明け前の町には、まだ誰も出ていない。角の豆腐屋だけが、雨戸を一枚開けていた。軒も、どぶ板も、路地の桶の縁も、みんな霜で白かった。
白い道の上で、温かいのは夫の背中だけだった。
夫の肩越しに、提灯の灯が揺れている。その灯の向こうの祖母の横顔へ、私は声を投げた。
「お祖母ちゃん」
自分の声が、ずいぶん高く聞こえた。
「母さん、帰るつもりだった」
答えは、なかった。
「負ぶってくれるって。母さん、言ったんだって」
提灯が、大きく一つ揺れた。
「……緩めてもらったのかい。そうかい」
祖母が、提灯の柄を握り直した。鼻が一度、短く鳴った。霜を踏む下駄の音が、二つ三つ乱れた。
泣いているのは祖母のほうだった。私の目は、まだ乾いていた。乾いたまま、夫の背中で、その下駄の音を聞いていた。祖母が泣くのを、私は生まれて初めて聞いた。
夫の首筋に、私の吐いた息がかかった。
夫は歩みを緩めなかった。速めもしなかった。祖母の下駄が揃い直すまで、同じ速さで霜を踏んでいく。
川の匂いがしてきたころ、私は夫の肩に顎を載せたまま、もう一つ訊いた。
「お祖母ちゃん。母さんの祝言帳の、花婿の欄は」
「あれはね、さく——」
祖母の口が、そこで閉じた。
続きは来なかった。祖母は、前だけを見て歩いていた。
宵坂の暖簾は、まだ下ろしたままだった。店の前で、夫は私を負ったまま背を弾ませて、ずり落ちかけた私を抱え直した。
祖母は提灯を吹き消して土間に置くと、私の顔も夫の顔も見ずに言った。
「腹が減ったね。芋でも焼くかい」
返事を待たずに、台所へ立っていった。竈の前にしゃがむ背中が、ずいぶん小さかった。言いかけた名を、薪と一緒に焚きつけてしまうような手つきだった。
夫は私を帳場の框に下ろし、着替えに父の家へ戻った。
一刻ほどして、裏木戸が鳴った。軍服だった。襟の徽章まで、きちんと留めてある。夜通し襖の陰に座っていた人とは思えない背筋で、木戸の向こうに立っていた。
私は框から立って、木戸の内側まで歩いた。今度は、足がついてきた。
「お茶を、淹れます」
「刻限だ。戻ったら飲む」
夫は、胸の高さの板に手を掛けた。口上の代わりに、短く言った。
「約束を違える。一度だけだ。報告は、祝言から一年の朝に延ばす」
「なぜです」
「今日は予審だ。帰らん目のある朝に言えば、また遺言になる」
卯月四日の朝だ。雪が解けるより、まだ先になる。帳面の「保留」は、もうしばらく保留のままになる。
「帳面は、開けて待っております」
「却下か」
「まだ、決めておりません」
夫の目が、一度だけ私の髪のあたりを見て、それからまっすぐ戻ってきた。
「予審へ行ってくる。兄の話は、帰ってからする」




