卑怯者
兄が死んだ朝、俺は演習地の天幕で、湯で割った薄い茶を飲んでいた。その朝について俺が持っている事実は、それだけだ。陸軍少佐の報告としては、短すぎる。
睦月二十八日、昼。予審廷の告訴人の席は、窓のない壁際にあった。
背中が、まだ温かかった。夜明けまで妻を負ぶっていた背だ。軍服の下で、その温みだけが引かずに残っている。
「告訴人は、兄の茶を見ましたか」
予審判事は、書類から目を上げずに訊いた。
「見ておりません。演習地におりました」
いちばん弱いところを、最初に突かれた。見ていない者の訴えは、遺族の思い込みと区別がつかない。
だが、そこにいた者の名なら、手元にある。
俺は古い帳面を一冊、判事の机へ置いた。口入れ屋が、どの女をどの家へ通わせたかを書きつけた帳面だ。
「兄が死ぬまでのひと月、屋敷に通っていた女がおります。昨夜まで、佐和と名乗っていた女です。兄の柩を開けて、検めていただきたい」
判事が帳面をめくり、一つの行で指を止めた。
通い先は「鷹尾」。女の名は「佐和」。日付は兄の命日のひと月前から始まり、命日の翌日で切れている。
判事は、そこから先をめくらなかった。
検事の席から各務が立ち、紐で束ねた薄い帳面を判事の机へ運んだ。昨夜、はつが自分の手で差し出した束だ。各務は口入れ帳の隣にそれを揃え、何も言わずに席へ戻った。
壁の時計が、二度鳴るほどの間があった。
「容れる。本件は、佐和ことはつの予審に併せて調べる」
膝の上で、拳が開いていた。いつ開いたのかは覚えていない。
廊下の突き当たりで、一つ肩から息を抜いた。抜いたところへ、階段の陰から甲斐が出てきた。
「少佐殿。結果を、伺ってもよろしくありますか。宵坂の大奥様より、聞いてこいと仰せつかっております。奥様からは、仰せつかっておりません。ですが、奥様は帳場で、同じ頁を三度めくっておられました」
「容れられた。お前から報告しろ」
「自分が、でありますか」
「俺が行けば、求婚の口上と取られる」
はつの予審は、六日後の如月三日に開かれた。
その朝の求婚には、葉茶屋の包みを抱えて裏木戸へ行った。兄が贔屓にしていた店の、いちばん濃く出る葉だ。木戸の板の上に載せると、妻は包みを見て、それから俺の顔を見た。
「付け届けは、お受けできません」
「付け届けではない。今日、兄の墓へ持っていく。先に見せただけだ」
「求婚の口上に、墓参りの品を並べる方は初めてです」
帳面には、却下と書かれた。包みは返ってこなかった。
昼、予審廷で、俺は兄の遺族として、証人の席に座った。
訊きたいことは山ほどあった。誰に言われて混ぜたのかは、とりわけ。だが、証人の席から問いは出せない。俺にできるのは、座って聞くことだけだ。
はつは、廷の真ん中の腰掛けにいた。縞の着物に、帯は自分で結んだらしい。指一本ぶん、緩かった。こちらは見なかった。俺がどの席にいるかは、入ってきたときに分かっているはずだ。
判事が、今度は一つだけ訊いた。
「鷹尾直継の茶について、述べなさい」
はつは膝の上で両手を重ね、まっすぐ判事を見た。
「はつは、口入れ屋の通いで、ひと月、鷹尾のお屋敷に上がっておりました。お茶筒の葉に、混ぜました」
「直継様は、御自分でお茶をお淹れになりました。いつも、ひどくお濃く。もったいないから飲め、と、女中にまでお勧めになりました。はつにも、お勧めになりました」
知っている。あの手は、湯呑みの縁を鷲掴みにして突き出してくる。断っても、引っ込まない。
「はつは、お断りいたしました。直継様はお笑いになって、御自分でお飲みになりました。それから、仰いました」
「弟は、これを湯で割って飲む。卑怯者だ」
「そこで、もう一度お笑いになって、湯呑みをお置きになりました」
「あいつは、長生きする」
はつの声は、そこで終わった。
はつの口から出たのに、兄の声で聞こえた。人に茶を押しつけるときの、決めつけて譲らない声だ。
腹の底で、何かが割れた。
割れたところから、音が出た。喉の奥で一度、短く。
止めようとして、止まらなかった。
二度目は、もっと大きかった。肩が揺れた。手で口を押さえても、指の間から漏れた。
当たっている。俺は湯で割って、霜月の夜に二口目で湯呑みを置いて、まだ生きている。
兄の葬式では、泣かなかった。泣くような死に方を、兄はしなかったからだ。病死と二字で書かれた紙の前で、俺はただ頭を下げただけだった。
その俺が、予審廷で笑っている。腹が痛い。息が足りない。目は乾いている。
「証人。控えなさい」
判事の声が飛んだ。
「……失礼、いたしました」
言い終える前に、また一つ漏れた。
はつが、目を伏せた。膝の上の手は、重ねたまま動かなかった。
侯爵家の墓所は、寺の裏の坂を上った先にある。兄の墓は、母の墓の隣だ。
日の傾くころに着くと、妻が先に来ていた。墓前の石畳に風呂敷を広げ、土瓶を二つと、湯呑みを二つ並べている。
「一つは、お湯です」
妻はそう言って、もう一つの土瓶に、朝の葉を入れた。どう見ても、多い。
「葉が、多くないか」
「伺ったとおりに淹れております。半分は無駄にしておりますから、お代は倍いただきます」
線香は、兄の墓の前と、隣の母の墓の前に一本ずつ立っていた。
「お隣様にも、ご挨拶を済ませておきました。黙ってお邪魔するのは、商いの作法に外れますので」
梅の枝に、硬い蕾がついていた。寒が戻って、坂の上の風は冬と変わらない。妻は袖で土瓶を覆いながら、二つの湯呑みに注いだ。
黒かった。底が見えない。
俺は自分の分を取り、もう一つの土瓶には手を伸ばさなかった。
「今日は、薄めん」
飲んだ。
舌の根が縮んだ。苦さが、喉を下りる前に鼻へ抜けた。胸の奥で何かがつかえ、咳が二つ、三つと続けて出た。
「……濃い」
声がかすれた。
妻が、俺の背に手を当てかけて、触れる前に止めた。それから、その手を自分の膝へ戻した。
咳の終わりに、また少し笑いが混じった。昼の笑いとは違った。むせた喉の、間抜けな音だった。
こんなものを、あの人は毎朝、人に押しつけていたのか。もったいない、飲め、と言って。押しつけられた側の舌を、俺は今日まで知らなかった。
妻が、湯の土瓶を両手で持って、黙ってこちらへ差し出した。
俺は手を出さなかった。
代わりに、濃いままのもう一杯を取り、墓石の前に置いた。それから空いた自分の器を、妻のほうへ出した。
「二杯目は、薄めてくれ」
耳が熱かった。坂の風のせいにした。
妻は返事をせずに、土瓶を傾けた。湯を先に注ぎ、茶はあとから、ほんの少しだけ足した。色の浅い一杯が、手の中で揺れていた。
「薄すぎたら、仰ってください」
「構わん。これが、俺の規定量だ」
「そんな規定、どの典範に載っているんです」
「今、定めた」
「では、明朝の帳面に書き添えておきます。却下の欄の、隣に」
妻の口の端が、少し動いた。
墓石の前の濃い一杯は、底を見せないまま、湯気だけを細くしていった。
帰り道、坂を下りながら、俺は妻に兄の話をした。
妻は相づちを打たなかった。その代わり、風呂敷の中で器が二つ、ときどき触れ合って鳴った。
市電を降りて路地へ入るころには、日が落ちていた。
宵坂の暖簾の灯が、角の向こうに見えた。その灯を、黒塗りの屋根が半分塞いでいる。妻が風呂敷を持ち直し、俺が半歩前へ出た。
はつの帳面にも口にも、最後まで出てこなかった名が一つある。柏木。
店の前に、その男の箱車が停まっていた。




