耳の値段
箱車の運転席には、男が一人座っていた。私はその顔を見なかった。店の暖簾の灯だけを見て、角を曲がった。
夫が、私の手から風呂敷を取った。中で器が二つ、小さく触れ合った。
「表は任せる。俺は裏から回る」
「お客様には、さっきの葉の残りをお出ししましょうか」
「やめておけ。舌が縮んで、取引どころではなくなる」
「手前どもには、有利でございますね」
「……一理ある」
夫は風呂敷を胸の前に抱え直してから、もう一言足した。
「終わったら、お前の淹れたのを一杯くれ。薄いのを。まだ口が苦い」
風呂敷の角を指で一度確かめてから、路地の暗がりへ曲がっていった。器を割らないように歩く軍服の背中は、骨董を運ぶ番頭みたいに慎重だった。
店へ入ると、祖母が帳場の奥で帯を結んでいた。
痛む右の肩を下げたまま、左手一本で結び目を引いている。後ろへ回りかけた私の手を、祖母は肘で払った。
「触るんじゃないよ。自分の帯くらい、自分で結ぶさ」
結び終えると、祖母は帯に下げた鍵の紐を一度ほどき、固く結び直した。指で二度引いて、ほどけないのを確かめる。それから煙管を取り、襖の向こうへ入っていった。
「通しな。あたしは聞いてるだけだよ」
入れ替わりに、裏木戸から夫が上がってきた。帳場の脇に膝を揃えて座り、風呂敷を解かないまま膝の前に置く。
「隠れないんですか」
「隠れる理由がない。俺はもう死人ではないからな。口は出さん。帳場はお前の持ち場だ」
「では、お茶の番も手前どもで」
「俺のぶんは、あとでいい。薄いのを、と言ったはずだ」
私は茶の間の簞笥の二段目から予約状の封と、寄進の受け札を一枚出して、帯の間に挟んだ。それから表へ出て、運転席ではなく、後ろの窓を二つ叩いた。
柏木さんの指は、座布団に膝を折るより先に、もう腹の前で組まれていた。
「取引に参りました、奥様」
柏木さんの目が、帳場の脇の夫に一度止まり、浅い会釈を置いてから、襖へゆっくり渡った。夫は会釈を返さなかった。
「お祖母様は、お休みで」
「奥で聞いております。口は挟まないと申しまして」
「それは結構。聞いていただくほうが、話が早い」
六十を過ぎた人の、よく手入れされた目鼻だった。目尻の皺まで、寄進会の日と同じ深さに揃えてある。
茶を出した。柏木さんは湯呑みを両手で包み、一口だけ含んで盆に戻した。
「はつは、私どもの名を一度も口にしなかったそうですな。帳面にも、あの子が自分でしたことしか書いていない。律儀な子です。昔から」
昔から、と言った。私は聞かなかったふりで、急須の蓋を直した。
「寮の行く末と、十二の家への償いは、私どもが持ちましょう。寄進とは別に、私の懐から。その代わり、奥様に一つだけ言っていただきたい。はつが口を開いたのは、死者の声が聞こえると言い張る花嫁に乗せられたからだと。楢崎の伊織様のお言葉も、奥様がお作りになったものだと」
柏木さんは、組んだ指をほどかなかった。
「それから、寮で亡くなった子らの弔いを、奥様のお耳でお願いしたい。あの子らにも、言い残しはあったでしょう。ねえ」
十二の家に、寮の子の弔いが何人分か。腹の中で算盤を弾いてみると、うちの店が三年は遊んで暮らせる額になった。安くはない。
それに、この人は施主の欄の話を一度もしていない。寄進の話をしに来た人が、名の話だけを抜かしている。
「承ります前に、伺います。その償いのお代は、施主の欄に、どなたのお名前でお書きになりますか」
「もちろん、私どもの名で」
「奥様は、名を惜しむ男だとお笑いになる。結構です。三十年前、寮の粥は一日二度でした。それを三度にしたのが、私どもの最初の寄進です」
「炊いた粥は、椀で数えて二十万を超えます。数えております。寮を出た子は四百と十二人。一人残らず、名を言えます」
一椀一銭としても、二千円。
「十五年前の冬、寄進が細って、粥が一日一度に戻ったことがありましてな。三つの女の子が、春を待たずに死にました。その子の名を、私は今でも毎朝、自分の粥の前に唱えます」
柏木さんは、そこで一度だけ目を伏せた。
「……私どもも、あの門に置かれた口でしてな。椀一杯の重さは、腹で知っております」
組んだ指が、膝の上で組み直された。
「死んだ男の名で入った金は、死んだ男にはもう要らない。それで何人の子が冬を越したか。奥様、数えてごらんなさい。善行の帳尻とは、そういうものでしょう」
長い口上だった。言っていることの半分は、たぶん本当だ。
私は急須を傾けて、柏木さんの湯呑みに二杯目を足した。柏木さんは小さく頭を下げ、口はつけなかった。
二杯目の茶代も、取引のほうへ付けておこう。
二十万の椀。母は、そのうちの何椀ぶんだったのだろう。
「では、勘定を一つ。その二十万のうち、母の名と、あの欠けた揚羽の紋で集めたお金は、何椀ぶんでございましたか」
「粥に、名も紋も書いてございませんでな」
柏木さんは目尻の皺を深くした。
それから、思い出したように声を落とした。
「名といえば、霜月九日の夜のことは、私どもも存じております。位牌の花婿様は、湯を沸かしておけ、と仰ったそうですな」
盆の上で、器が少し鳴った。鳴らしたのは、私の指だった。
柏木さんは、その音が聞こえなかった顔のまま、先を続けた。
「河岸で何かを捜していた者たちも、奥様のお言葉で諦めたと聞きました。……聞いた相手が、悪うございましたな」
「よくご存じで」
「商いは、聞くのが半分ですからな。奥様と同じで」
柏木さんは、湯呑みの縁を人差し指でゆっくりなぞった。
あの作り物のひと言が、川を捜す手を止めていた。夫が今、帳場の脇に座っているのは、そのせいでもあったのだ。
そして、あの夜そのひと言を真っ先に聞きに来たはつさんが、嘘を嘘のまま先へ通していた。
私は、喉まで来たものを呑みこんだ。
「ですから、取引です」
柏木さんは、冷めかけた湯呑みに指を添えた。
「奥様の耳なら、あと三十年は使える。——そう、思いませんか」
「汐の名なら、あと十年は使える。娘は育ってからでよい。母が襖越しに聞いて、書き残した声です」
柏木の手巾が、宙で止まった。
湯呑みに触れた指を、拭きかけたところだった。白い布の端が、指の腹に掛かったまま動かない。
目尻の皺が元の形へ戻るまでに、瞬き一つぶんかかった。
「証拠は、声と、女の帳面だけですな」
「いいえ。柏木様のお字がございます」
私は帯の間から紙を二枚出し、畳の上に置いた。予約状は「施主」の欄だけが見えるように折り返し、その隣に、寄進会の日にこの人が目の前で書いた受け札を並べた。
二つの「施」の止めが、同じ長さで跳ねていた。
私は何も言わなかった。柏木も、紙に目を落としたまま、手巾をゆっくり懐へ戻した。
柏木が立った。茶には、もう触れなかった。
帳場の脇で、夫は最後まで膝を崩さなかった。言ったとおり、一言も挟まなかった。襖の向こうで、祖母の煙管が一つ、火鉢の縁を叩いた。
柏木は土間へ下りた。草履をつっかけ、暖簾を片手で分けたところで、振り向いた。
来たときと同じ笑みが、もう顔に貼り直してあった。
「顕彰式は、予定どおりに。碑のいちばん上に、名が刻まれる日ですから」




