前金は、倍にしてお返しいたします
寄進者碑のいちばん上で、施の跳ねが石になっていた。
如月十日、昼。若葉寮の庭の梅は三分ほど咲いて、寒の戻りに花びらを縮めていた。白い布を引かれたばかりの碑の前で、紋付の客たちが拍手をしている。
夫は、私の半歩後ろに立っていた。
柏木が宵坂から帰った晩、私は甲斐さんに頼んで、文を一通出させた。宛先は、霜月に裏を取ってあった北の町の飯場。宵坂の請け状の書式で、一行だけ書いた。『手当の残り、如月十日、若葉寮にてお支払い』。差出人の欄は空けておいた。空いた欄は、読む人が勝手に埋める。
私は碑を見上げた。いちばん上に、名が一つだけ、ほかより大きく彫ってある。
『施主 柏木恒三郎』
本人が筆を執った字を、そのまま彫らせたのだろう。筆の止めが、刃物で削いだように長く伸びている。
庭の端では、洗いざらしの袷の子らが、花を抱えて並ばされていた。
私は懐から予約状を出し、碑の台の端に置いた。施主の欄が、石の字と同じ向きに並ぶように。
何も言わなかった。置いておけば、見る人は見る。
壇へ上がる柏木の目が、台の上を一度だけ撫でて、通り過ぎた。
門の脇には、黒い箱車が停まっていた。その陰に、外套の襟を立てた男が一人、門柱に手を掛けて立っている。
「来ております」
私は、門のほうを見ずに言った。
霜月に帝都から消えた運転手だった。門をくぐるとき、柏木はあの男から顔を背けて通った。
「手は、俺が取る。検事には話してある」
来賓の列の端で、各務さんが帽子を胸に当てていた。
「この寮で、春を待てなかった子らの名を、読み上げさせていただきます」
柏木は帳面を開かずに、空で名を呼んだ。一人ずつ、年と、亡くなった季節を添えて。奥方たちが、袖口を目に当てた。
「お松。三つ。十五年前の冬。粥が、一日一度に戻った年でした」
その名のところでだけ、柏木の声が低くなった。
名を空で言える人だ。そこは、本物なのだろう。
腕章の記者が、台の端の紙に屈みこんでいた。紙と石を、二度見比べた。
「……同じ字だ」
隣の来賓が覗き、その隣が覗いた。囁きが、列の後ろへ回っていく。
「定吉。十七。二十四年前のことです。この子の弔いは、私が出しました。寮の初めの子でしたからな」
紗雪さんが一歩前へ出て、古い綴りを頭の高さに掲げていた。
「施主、宵坂汐。自費、と書いてございましてよ」
客の列が、さざ波のように揺れた。
母の名が、寮の帳面の上に戻ってきた。
私は、掲げられた綴りの「汐」の字を、さんずいの一画目から目で追った。
「……古い帳面は、書き違いも多いものでしてな」
柏木の目が、台の端の紙へ戻った。今度は通り過ぎなかった。笑みが剥がれる前に、手を打った。
「さあ、千代松。こちらへ。花を」
列の中から、十ばかりの男の子が押し出された。袷の肩に、継ぎが二つ。
千代松は花を胸に抱いて、壇まで三歩で来た。そこで足を止め、門のほうへ首を伸ばした。
「あ、箱車のおじさん。五銭くれた人」
私の目は、門柱へ行った。
柱に掛けた左手に、手袋。その小指のところだけが、中身のない袋のように平たかった。
夫が歩きだしていた。
私は止めなかった。
夫は門まで行き、男の左手首を掴んで庭へ引き入れた。手袋を、一本ずつ指から抜いた。小指は、付け根から無い。隣の薬指が、一つ曲がったまま固まっていた。
「その指は、俺が折った」
夫の声は低かった。男の手首を離さなかった。
ずっと顔のなかった手に、昼の庭で、ようやく持ち主がついた。
男は夫の顔を見て、それから壇の上の柏木を見た。
「手当の残りを払うって文が来たから、来たんだ。北へ出したきり、ひと月で打ち切りやがって。霜月三日に借家へ茶箱を届けさせたのも、俺だ。豆腐屋の小僧に一銭やってな。書付は、衣装係の女に書かせたもんだ。叔母さんの名刺は、旦那様が懐から出して蓋に添えた」
寮の火鉢の脇で、柏木の指のあいだに消えた一枚だ。あの日、見間違いにしておいたものが、石の前で白く戻ってきた。
「二年前の祝言の夕方、河岸へ来た揚羽の箱馬車は」
私が訊くと、男は鼻で笑った。
「あれも俺が御した。寺の借り物の馬車に、旦那様が紋を描かせたんだ」
すずさんが二年かけて探した蝶は、借り物の扉の絵だった。今夜のうちに河岸へ届けよう。お代の三銭は、取らずにおく。
この箱車の旦那様は、庭に一人しかいない。
寄進者の端で、膝の落ちる音がした。丸甚の甚兵衛だった。両手を庭の土についていた。
「あっしは、借金を返したかっただけで」
来賓の列の端から、各務さんが立った。門の外の巡査を二人、手で呼んで、壇の下まで来る。
「柏木恒三郎さん。ご同行を。運転手は、もう全部話しました」
各務さんの耳が、紅梅より赤かった。
柏木は壇の上から、門と、甚兵衛と、巡査を順に見た。
「車を」
誰も動かなかった。
「甚兵衛。車を回しなさい」
甚兵衛は、土に手をついたまま顔を上げなかった。
巡査が壇へ上がり、柏木の左の腕を取った。柏木は、台の上の予約状に目を落とした。
「……寄進者の名は、上から読むものですよ」
私は台から予約状を取り、各務さんに渡した。
「施主の字は、石に彫ってございます」
私は帯の間から、白い紙の包みを出した。
二年前の初冬、夫の兄の冥婚の晩。弟として座敷にいたこの人が、初めて会った私の前に、相場の倍の代金を置いた。私は相場の分だけ数えて取り、残りを紙ごと押し返した。指先に当たった札の、冷たい角まで覚えている。
壇の下まで歩いた。包みを、柏木の右の手の前に差し出した。
「前金は、倍にしてお返しいたします。花婿様は、ご存命ですので」
中身は一円札十枚。神無月八日から、白い紙に包んだまま一度も開かなかった五枚に、五枚を足してある。
柏木の右手が、それを受け取った。寄進を受け取り慣れた手は、考えるより先に閉じるらしい。
受け取ってから、柏木は自分の指を見た。
その手が懐へ動いた。白い布の端が出かかったところで、二人目の巡査が右の腕を取った。
手巾が、梅の根元に落ちた。
柏木は、それを拾えなかった。包みだけを指に挟んで、門のほうへ連れられていった。
寮の子らの花束が、誰にも渡されずに、腕の中で揺れていた。
千代松だけが、花を胸に押しつけたまま、壇の下から動かなかった。顔から、血の気が引いている。
「おいら、寮、出される?」
霜月の末、寮を出されるのが怖くて口を閉じた子だ。あのとき、こじ開けなくてよかった。
答えたのは夫だった。千代松の前にしゃがんで、目の高さを合わせた。
「出されん。出すほうが、今、門から出ていった」
千代松は、門と夫の顔を何度も見比べた。それから、抱えていた花を、ぐいと夫の胸に押しつけた。
夫は、それを受け取った。陸軍少佐が、寮の子の花を捧げ銃のように胸の前に立てていた。
帰りは、川沿いを歩いた。
夫が市電の停留所を素通りしたので、私も付いていった。袖の中で、空になった帯の間がすうすうした。
もらった花は、夫の脇に抱えられたままだった。
「芋屋は、どこに出ている」
「この時分なら、橋の袂です」
「二本だ。俺が払う」
「今朝、口上を持っていかなかった」
「気づいておりました。帳面の欄が、一つ空いております」
「空けておいた。あの男が門を出るまでは、口上を言う場面ではない。それに、お前が包みを出すところを、この目で見たかった。木戸越しでは、手元まで見えん」
「長いですね」
「長くなる理由がある」
私は芋屋の声を探して、橋のほうへ耳を向けた。まだ聞こえなかった。
夫は足を止めた。川の上を、鳶が一羽、輪を描いていた。
夫の目が、私の顔でなく、袖から出た私の手に落ちた。
「……その手だ」
「何がです」
「最初の晩、お前は倍の金の半分を返してよこした」
袖の中で、指が勝手に縮んだ。
兄上様の冥婚の座敷で、この人は、私の手元を見ていたのだ。あの晩をどう見ていたのか、私は一度も訊いたことがなかった。訊いて、思っていたのと違う答えが来るのが、怖かったのかもしれない。
返事をしようとして、息だけが出た。
「……あの手を見て、置いて帰れなくなった」




