花嫁の耳
「死者の声を聞くと称し、しかも一度は作った女の耳です」
弁護人は、証人の席の私を手のひらで示した。
「霜月九日の夜、この証人は夫の位牌の前で何も聞こえぬまま、聞こえたふりをして言葉をこしらえた。師走に、本人がそう明かしております。予約状の話も、はつの帳面の話も、出どころはこの女の耳だ。そんな耳ひとつで、寄進三十年の人を公判へ送るのですか」
弥生の下旬の予審廷は、高い窓に春の雨が当たっていた。
傍聴の席の二列目に、夫がいる。
目が合った。二冊目の求婚帳簿の却下は、今朝で百を超えている。却下された客にしては、ずいぶん前の席を取ったものだ。
その三つ隣で、紗雪さんが閉じた扇を両手で握りしめている。
この言い分が通れば、被告人の席の柏木は、今日のうちに門を出ていく。
「証人に問う」
予審判事は、書類から顔を上げた。
「死者の言葉を、作ったことがありますか」
「はい」
迷いは、喉のどこにも引っかからなかった。
判事も弁護人も、次の言葉を待った。言い訳を一つでも足せば、そこへ指を差しこまれる。
私はそれ以上、何も足さなかった。
書記が、押収の品から紙を一枚出して、私の手に載せた。
夫の命日を三十日先に予約してきた、あの予約状だ。私は判事の机の前まで進み、紙を置いて、いちばん下の一行に人差し指を当てた。
宵坂の書式に、こんな行はない。最初に読んだ朝から、魚の小骨のように喉に残っていた一行だった。
判事が、紙を引き寄せた。
「花婿のひと言は、施主へ口頭にて御報告のこと」
読み終えて、判事は私を見た。
「この一行は、何か」
「宵坂の書式にない一行でございます。施主様が、花嫁の耳に前金を払った行です」
判事は黙って、紙を弁護人のほうへ向けた。
弁護人の口が、開いたまま閉じた。
被告人の席で、柏木は右の手の指を、膝の上でこすっていた。拭くための手巾は、今日は懐にない。
「では、伺いましょう。『はつ、と呼んでやってくれ』でしたか。楢崎の伊織某のひと言とやらも、作り事でしょう。ほかに聞いた者はいない」
傍聴の席で、椅子の脚が鳴った。
古賀さんが、立っていた。濡れた外套の裾から、床に雫が落ちている。廷吏が制するより先に、判事を見ていた。
「旦那様は、生きておられたときも、そう仰いました」
古賀さんは座った。
胸が詰まった。主の言葉をもう一度言うためだけに、この人は雨の中を来たのだ。
次に腰掛けへ座ったのは、叔母様だった。
扇を閉じて膝に置き、背筋だけは侯爵家の奥方のまま、判事を見た。先に口を開いたのは弁護人だった。
「奥方様。被告人は、鷹尾家の難儀に何度も骨を折ってくださった方ですな」
味方を一人、席に呼んだ声だった。
「ええ。ご親切な方でございますこと。届のことも、骨のことも、わたくしがお願いする前に、何もかも……」
叔母様の声が、そこで止まった。
「離縁の受理を急がせたのは、わたくしです。甥の骨だと言われたものを、その日のうちに焼かせたのも。あの方に、そうするのが家のためだと言われて、言われるままに」
弁護人が、腰を浮かせた。
「恥ずかしいことを、しました」
叔母様は、柏木のほうを一度も見なかった。見ないことに、扇を握る指の白さを全部使っていた。
はつさんは、廷吏に付き添われて入ってきた。
帯の結び目が、背の真ん中から右へずれている。本家の支度部屋で、私の帯を一度も曲げずに結んだ手だ。自分の背中には、届かなかったらしい。
判事が帳面を示した。十四年分、はつさん自身のしたことだけを書いた束だ。開かれた頁に、私の離縁届の証人の欄にあった男の名が二つ見えた。
「これは、証人が自分の手で書いたものか」
弁護人が、机の綴りを閉じた。若葉寮の寄進者名簿だった。寮の冬の粥が誰の懐から出ているかを、思い出させる音だった。
傍聴の席の後ろの端で、櫛目の固い髪の女が、はつさんの横顔を見つめていた。どこかで見た髪だ。思い出す前に、はつさんが顔を上げた。
柏木を見た。
「はい」
夕方、雨は細くなっていた。
予審判事は立ったまま、主文を読んだ。
「被告人柏木恒三郎を、公判に付す」
はつさん、甚兵衛、運転手、帰雲寺の住職も、同じく付された。書庫に油を撒いた頬傷の男も、木賃宿で挙げられて、その列にいた。
柏木は主文を聞き終えても、膝の上で指をこすり続けていた。
傍聴の席で、紗雪さんの扇がようやく開いた。開いたまま、動かなかった。
席を立つとき、その紗雪さんに袖を引かれた。
「銀子さん。私の頼んだことは、あの方を殺しましたの?」
「紗雪さんの欄に付いているのは、帳簿を見てください、の一行だけです。あの方の命は、別の方の欄に付いております。その欄を、今、判事様が締めました」
紗雪さんは一度だけ瞬きをした。一粒が、扇の骨を伝って落ちた。
「……ずいぶん、そっけないお慰めですこと。でも、信じられましてよ」
廊下は、濡れた傘の匂いがした。
廷吏に付き添われて出てきたはつさんの前に、さっきの櫛目の固い髪の女が立ち塞がった。
顔を見て、ようやく思い出した。能見のくら様だった。
くら様の手から、兄の遺言状の写しが、はつさんの胸の前へ差し出されていた。看病した女に金五十円。
くら様が指で叩いた名の欄に、硬い字で「はつ」とある。墨の色が、まだ新しい。
「兄はいつも、肝心な欄を空けたまま寄越すんです。埋めるのは、いつもわたくし。遺言まで、そうでした」
「五十円は寮へ送ります。手続きは済ませました」
はつさんは写しを受け取り、深く頭を下げた。
顔を上げたときには、もう廷吏のほうへ歩きだしていた。
「宵坂さん」
各務さんが、廊下を追ってきた。
「公判では、勝ちます」
言ってから、各務さんは自分の口に驚いたような顔をした。
「……今のは、耳を見ていただいて構いません」
見てしまった。耳が、今日は障子紙みたいに白い。
「必ず、とは言えませんが、と付け忘れました」
「付けずにおいてください。そのほうが、ずっと値が張ります」
夫は、廊下の柱のそばで待っていた。濡れた傘を二本、片手に提げている。一本は、朝、私が控えの間に置き忘れたほうだ。
私の顔を見るなり、夫は傘の柄を握ったまま、指を一本折った。
「数えておられたんですか」
「俺の帳面だからな」
百回より多く断られた人が、その帳面を自分の持ち物みたいに言う。私は、断りの文句を一つ、言いそびれた。夫は黙って、私の傘を私の手に握らせた。柄が、夫の手の分だけ温かかった。
書記が、風呂敷の包みを一つ持ってきた。
「前の件の押収品のうち、今度の公判に要らないものです。各務検事から、今日のうちにお返しするようにと」
包みをほどくと、峠下のお社で見つかった、冥婚の名を書く祝言帳が出てきた。
開いた。花嫁の欄に、本家の筆で「宵坂 汐」。
その隣の欄を、私は長いあいだ見ていた。母が筆を下ろしかけて、下ろさずに置いた所だ。廊下の灯が、紙の目を一本ずつ浮かせている。
書けなかったのか、書かなかったのか。帳面は教えてくれない。分かるのは、十四年前のこの頁で、母の祝言が途中のまま止まっていることだけだ。
花婿の欄には、まだ、誰の名もない。




