第40話 長屋の灯が消える
受理されなかった婚姻届は、窓口で証拠袋に入った。
係員は先の婚姻記録へ薄紙を挟み、照会状を作った。区役所の印、日付、宛先は爵位局。重複登録を防ぐ規則の名と、五日の回答期限。なぜ受理できないのか、先行する届の整理番号を付して答えよ、とある。
私の宣誓書と告訴状は、同じ朝、検事局で受け付けられた。祖母の実印保管帳には、あの判を使った日が一件ずつ残っている。最初の鷹尾家との冥婚契約の日からも、使うたびに祖母の鍵箱へ戻している。無断で持ち出された日はない。
それでも、私が署名した覚えのない婚姻届が先にある。
紙は、もう喧嘩を始めていた。
その翌晩、私は長屋の冥婚へ出た。
雨の日に子どもが駆けてきた、小さな依頼である。
路地の奥の九尺二間。祭壇には若い男の位牌。婆さまが畳へ手をつき、孫をどうか送ってやってくださいと、二度、同じ節で泣いた。
私は支度をしながら、三つをもう一度検めた。
竈の戸を引き間違えた婆さま。水桶の場所を知らない家主。差配は、空き家七軒をまとめて口入れ屋へ貸したと答えた。
今夜は表の隣室へ捕吏が二人、裏へ一人、屋根に一人。盃を二度置いたら、戸口へ寄る。懐剣の鞘を三度鳴らせば、直ちに入る。私は自分でも確かめてから、白無垢を着た。
位牌の前へ座ると、隣の壁から短く爪を鳴らす音が返った。そこに人がいる。
位牌の墨は、木より新しい。死んだという孫の名は、乾いて間もない。
「婆さま。祝言の前に、ひとつだけ」
「なんでしょう、花嫁さま」
「お孫さんは、どちらの手で箸を持ちました」
婆さまの泣き節が止まった。
「……右で」
「先ほどは左手で筆を持つ子だったと、お話しでしたね」
嘘である。そんな話は聞いていない。
婆さまは、しまったという顔をした。悲しみではなく、台詞を忘れた役者の顔だった。
私は盃を置いた。
こと、と一度。ひと呼吸を置いて、もう一度。
検算が合わないときは、盃を二度。出がけに検事の捕吏と決めた合図だ。
行灯が消えた。
暗がりで、雨戸の軋む音がした。私は立たなかった。帯の懐剣へ手を掛け、白無垢の膝を崩さぬまま、声だけを戸口へ向けた。
「表と裏に、お役人がいます。いま出れば、まだ戸を壊さずに済みますよ」
返事の代わりに、男の足が畳を踏んだ。
「恨むなら、掟を破った手前を恨みな。冥婚屋の女が生者に惚れ、届まで出した。だから死ぬんだ」
幼い頃から聞かされてきた掟が、こんな男の口から出た。
天の声ではない。酒と葱の匂いがする、雇われ仕事の声だった。
「ずいぶん安い声ですね」
懐剣の鞘を、畳へ三度打ちつけた。
雨戸と表戸が同時に開き、提灯の光が流れ込んだ。検事局の捕吏が二人、路地裏から一人。男が袖へ触れる前に腕を取り、畳へ伏せた。もう一人は天井裏から降りかけたところを、屋根で待っていた捕吏に引きずり出された。
暁人様は最後に敷居を跨いだ。私の姿を頭から足まで検め、それから男たちへ目を移した。
「怪我は」
「袖に皺が寄りました。仕立て代へ付けておきます」
「高く付けろ」
婆さま役が、その場で泣き崩れた。今度の泣き方には台本がなかった。
口入れ屋から銭を貰った。空き家と位牌を渡された。使いの子も駄賃で雇った。灯りが消えたら銀子を荷車へ運び、峠道で「掟死」に見せろと言われた。
白菊の寺で手配された人夫、合葬墓の改葬人足と、同じ口入れ屋だった。
「お名前は」
婆さま役が顔を上げた。
「台本の役名ではなく、あなたのお名前です」
「……おかね、と」
おかねさんは、洗い場を追われ、借りの形にこの役を引き受けたという。皺は本物だった。水仕事で曲がった指も本物だ。ただ、この長屋の竈に慣れていなかった。
私は写し帳の空いたところへ、名と口入れ屋の名を書いた。捕吏が腕を取るとき、おかねさんは自分で立った。戸口で一度、誰もいない路地を見た。
「昔からの掟だと、聞かされただけだ」
伏せられた男が、畳へ頬をつけたまま言った。
私は白無垢の袖を直し、男の顔を見た。覚えておくためだ。私は人の顔を忘れない。
「掟は、人の手でできている」
口にすると、喉がひどく乾いていた。
「なら、その手は、証言もできます。誰から銭を受け、誰へ返事をしたか。官の帳面で、順に話してください」
使いの子は翌朝、パン屋の裏で見つかった。口入れ屋に文を読んでもらい、道順を覚えさせられたと話した。捕吏が帰してよいと言ったので、私は飴をひとつ渡した。
「婆ちゃん、帰ってくる?」
あの女と初めて会ったわけではなかった。私が答えられずにいると、子どもは飴を袖へしまい、道の端を歩いていった。
五日目、爵位局から区役所へ返答が来た。
先行する婚姻届の整理番号、保管棚、局印。氷坂の決裁印まで、規則どおりに揃った返答だった。向こうは、いつもの一枚を返したつもりだったのだろう。
返答に添えられた婚姻届の抄しを、本家の印影控帳と照らす。添付印影が、最初の契約で採られた私の実印と一致した。先行届に添えられた口入れ屋の受取番号は、長屋の男たちへ銭を払った店の送金帳へ繋がった。
さらに送金帳の末尾には、爵位局から口入れ屋へ払われた「身分整理費」の月別合計があった。銀子一件の整理番号と同じ数字が、支払欄の端に小さく振られている。城の判、盗まれた印、襲撃の駄賃が、一つの番号で縫い合わされた。
偽造した婚姻届を本物として使い、戸籍原簿へ事実でない記載をさせ、その記載で財産を移した疑い。
検事は、条文を並べる代わりに、四つの紙を令状申立てへ綴じた。
区役所の照会と爵位局の返答。本家の印影帳。私の宣誓と実印保管履歴。口入れ屋の送金帳。
今度の令状は、門前で凍らなかった。
検事局の廊下で、書記たちが木箱と写しを運んでいた。紙が、城へ向かって走っている。
その帰り道、暁人様が足を止めた。
「客として、最後の依頼をしたい」
「ご用命は」
夕暮れの路上で、この人は軍帽を取り、深く頭を下げた。
「一件目のやり直しだ。——兄の祝言を、もう一度頼む」




