第39話 私のための名前
桜の蕾がふくらむ頃、うちの囲炉裏端で最後の軍議が開かれた。
卓には紙の山。三宅乙彦さんの日付控え。本家の印影帳。母の手紙。口入れ屋の送金帳の写し。軍服の隣には、検事局の若い検事が座っている。
祖母は席を外していた。正しくは、襖一枚向こうで煙管を鳴らしていた。大事な話ほど、うちはこの陣形になる。
「氷坂は、絶えかけた家へ冥婚屋の女の名を差し込んだ」
検事が、押収帳の流れを指で追った。
臨終間際の妻を紙の上に作る。その未亡人名義で、霜会の息のかかった男を養子に入れる。自由財産、保険金、祭祀料、まだ支払われていない給付を、寺と口入れ屋と金主へ移す。手続きが済めば、同じ女を次の家へ嫁がせる。
家名を救う、という看板の裏で、絶家の財布と跡継ぎを選ぶ権利を買い占めていたのだ。霜会は一件ごとに口利き料を取り、残った財産の何割かを受けた。
「ここまでは追えました。ですが、爵位局の原綴りがなければ、氷坂本人の判へ届かない」
令状の申立ては、三度止められている。『華族の身分に係る審査中』。あの四文字が、城壁だった。
私は、印影帳の一行を開いた。
宵坂銀子——一件。
調べの届く範囲で、その「一件」の輪郭は出ていた。相手は霜会の管理下にある華族男子。所在は知れず、死亡の届けもない。紙の上では、いまも生きている。
私は一度も会っていない男の、妻になっている。
「三宅さんは、城壁に一つだけ戸口を残しました」
あの震える字の余白を、声に出して読む。
『新タニ婚姻届ノ出ヅレバ、身分照会ノ整理番号外ヘ出ヅ』
「拒否されたら、理由を紙で頂くんですね」
私が訊くと、検事は頷いた。
「局内の棚を教えろと言っても通らない。区役所が困る形にするんです。なぜ自分の窓口で婚姻を受けられないのか、五日以内に回答がなければ、今度は上の監察へ報告することになる」
「向こうが、それでも黙ったら」
「黙った記録を残します。必ず勝てるとまでは、言えません」
初めて、役人がそう言ってくれた。
「その前に、こちらの紙を揃えます」
検事は三通を出した。
私が先の婚姻へ同意も署名もしていないという宣誓書。実印は母の代から祖母が鍵を掛け、使った日と相手を手控えへ残してきた、その保管履歴。そして、印影と生年月日を盗んで届を作った者への告訴状。
未受理になる新しい届も、窓口で証拠として保全する手筈だという。
「宵坂さん。ここからは、あなたがご自分で決めてください。これはお名前を取り返す捜査です。検事にも、少佐にも、代わりに決める権利はありません」
若い検事は頭を下げ、席を立った。
襖の向こうで煙管が一つ鳴った。
祖母が出てきて、火鉢の脇へ小さな桐箱を置いた。母の代から使っている実印箱だ。鍵は祖母の帯に結ばれている。
「役人さんには保管履歴だけ見せた。判そのものは、まだ誰にも渡してないよ」
鍵を開け、朱の布に包んだ印を取り出す。祖母は暁人様を一度見たが、印は私の掌へ置いた。
「男に渡す判じゃない。お前が持って、お前が捺しな」
「お祖母ちゃんは、止めないの」
「止めて聞く娘なら、十九年も育てちゃいないさ」
軽い口で言い、祖母は私の指を印の上から握った。
「汐は、自分の名を使われる歳月を、お前のために買った。あの子の勘定が正しかったかは、あたしにも分からない。けどね。ここから先のお前の名を、誰に書かせるかは、お前が決められる」
皺の手が離れた。
「決めたら、呼びな。朱肉くらいは摺ってやる」
祖母は襖の向こうへ戻った。今度は、煙管を鳴らさなかった。
囲炉裏端に、私と暁人様だけが残った。
「危険はある」
あの人は、飾らずに言った。
「名を取り返そうとした女を、霜会は消してきた。届を出せば、向こうは動く」
「母のときと同じ手で」
「同じにはさせん。だが、俺が止めたのでは意味がない。——お前は、どうする」
白菊の晩、私は返書を焼いた。今夜、この人は新しい紙を前へ出し、私が取るまで待っている。
盗まれたのは、私の名前だ。
取り返すと決めるのも、私でなければならない。
「出します」
「そうか」
それだけ言って、暁人様は懐から真新しい用紙を出した。
夫の欄には、もう鷹尾暁人の名がある。分家の手続きも済み、侯爵家の許しを借りずに婚姻できる身になっていた。
「宵坂銀子。俺と、婚姻届を出してくれ」
命令の形をした声で、最後だけが、きちんと願いになっていた。
筆を取る。
妻の欄に、宵坂銀子。
襖を開けて祖母を呼んだ。
祖母は約束どおり朱肉を摺り、判の正面を私へ向けた。それ以上は手を出さない。暁人様も、向かいに座ったまま動かなかった。
実印へ朱肉を含ませた。盗み写された判を、初めて自分のために使う。紙へ押す短いあいだに、求婚帳簿の却下の列も、夜明けの茶も、片方の手袋も、肩を借りた雨も、全部が指の下を通った。
判を離す。私の名の下に、私の印がある。
「届は、戦のためでも」
紙を乾かしながら、私は言った。
「あなたを選ぶのは、私のためです。ですから返事は、式で申し上げます」
暁人様は一度、目を閉じた。開けたとき、笑っていた。
「そうか。……式の返事も、待つ」
「うちの帳面に、書き直しの例はございません」
翌朝、私たちは区役所の窓口へ並んだ。
宣誓書、実印の保管履歴、告訴状は、先に検事の手へ渡してある。
若い係員が婚姻届を受け取り、氏名を検め、綴りを繰った。
手が、一枚の上で止まる。
届と私の顔を、二度見比べた。
「宵坂銀子さんは、あなたご本人ですか」
「はい。生まれてこの方、私のほかに私はおりません」
係員は先の記録へ薄紙を挟み、上役を呼んだ。それから、規則を読み上げる声で言った。
「お受けできません。あなたは既に、婚姻中です」




