第38話 肩、借ります
検事局から、針箱が返ってきた。
写しは取り終え、証拠の番号札も付いて、箱は布に包まれて私の胸にある。母の遺言は、いまや官の綴りの一部で、同時に、ただのうちの商売道具だ。受け取りの帰り道を、私たちは並んで歩いていた。
「重かったか」
「箱が、ですか」
「番号札がだ」
妙な訊き方をする人だと思ったが、答えは持っていた。
「軽くなりました。母の指図を、ひとつ果たしましたので」
「そうか」
三月の堀端は、柳が芽の色をしていた。帝都の春は、水際から来る。俥も市電もある往来を、私たちはわざわざ歩いていた。どちらが言い出したのでもない。近頃、この人との道は、歩くことになっている。
その帰り道で、空が抜けた。
春先の、氷雨まじりのにわか雨だ。傘はない。
「走るな。濡れた石畳で花嫁に転ばれては敵わん」
立会人は表通りを見渡し、店じまいした瀬戸物屋の軒下に私を入れた。庇は狭く、雨は斜めで、二人並ぶと肩が触れる寸法しかない。
触れる寸前で、彼は半歩引いた。
代わりに軍の外套を脱いで、私の肩から掛けた。
「あなたが濡れます」
「軍の外套は雨具だ。中身は装備品だ。装備品は濡れても文句を言わん」
「言っています、いま」
「言っていない。報告をしている」
屁理屈の応酬は、うちの夜明けの茶と同じ調子だった。場所が違うだけで、妙に近い。雨音が庇を叩いて、往来から人が消えて、世界がこの軒下の二畳ぶんだけになった。
雨は本降りになった。庇の先から雨垂れが簾を作り、往来の景色を細く刻む。刻まれた景色の中を、番傘がひとつ走って行った。
「春の雨は、匂いが違うな」
「土の匂いです。眠っていたものが起きる匂い」
「商売柄の講釈か」
「商売柄なら、線香の匂いの講釈をいたします」
講釈の代わりに、しばらく二人で雨垂れを見ていた。見ているだけで間の持つ相手というのは、得難いものである。
外套は、重かった。
重くて、あたたかくて、雨と煙草と革の匂いがした。
「本家の沙汰、進んでいるそうですね」
「ああ。志乃どのが家を締めている。あれは当主の器だ」
「母の祝言も、挙げ直します。白無垢の繕いも、もうじき終わります」
「そうか」
「ええ。それで——」
言いながら、私は自分の口が次に何を言うのか、半分しか分かっていなかった。
「次に、私が白無垢を着る日は」
雨音の中で、隣の気配が、静かにこちらを向いた。
急かさない。問い返さない。この人はいつも通り、断る自由の側を開けて、ただ待っている。
この人にも、待てなかった晩がある。私にも、言えないまま返した朝がある。今夜まで全部を数えると、雨が上がってしまう。
私は、半歩の隙間を、自分から詰めた。
外套越しに、肩に、こめかみを預ける。
「……肩、借ります」
軍人の息が、一拍、止まったのが分かった。
「利子は、つけないでください」
間があった。雨音が三つ、庇を打った。
「——利子どころか」
いつもの簡潔で、いつもより少しだけ掠れた声が、頭の上で言った。
「元本ごと寄越せ」
「交渉の席で、承ります」
「……ほう」
肩の上で、笑いを噛み殺す気配がした。噛み殺し損ねた分が、少しだけ、息に漏れた。
それきり、どちらも黙った。
肩は、動かなかった。石垣みたいに、動かないでいてくれた。
庇の雨音の下、布越しに、心の臓の音がひとつ聞こえる。私のか、この人のか、検算はしない。近頃、しない検算ばかりが増えていく。
この人は近頃、求婚を口にしない。
そのせいで、私の方が次の言葉を待っている。ずるい、と思いかけて、胸の中だけで取り消した。待たせたのは、私だった。
肩から顔を離す。離す前より、相手の目を見るのが難しかった。
「それで、次に白無垢を着る日は——」
言いかけた続きへ、息を吸った、そのときだった。
「花嫁さん! 死人の花嫁さん!」
雨の往来を、子どもが一人、裸足で駆けてきた。長屋の使いらしい。濡れた手に、皺だらけの文を握っている。
「祖母ちゃんが、祖母ちゃんが呼んでる! 兄ちゃんの祝言を頼むって! お足は少ししかないけど、って!」
軒下の二畳が、往来に戻った。
私は外套の内から手を出して、文を受け取った。拙い字で、長屋の名と、亡くなった孫息子の齢と、精一杯の口上が書いてある。
受け取るとき、子どもの袖から乾いた泥の塊が落ちた。雨はまだ降っている。どこかで付けてから、軒下にいたのだろうか。
「どこの路地から?」
子どもは文を指した。口で言おうとして、やめた。
「……承ります、とお伝えして。日取りは追って伺いますと」
子どもが駆け戻っていく。雨は、いつの間にか上がりかけていた。
「小さな依頼だな」
「小さな依頼は、うちの本業です。侯爵家のほうが、たまの大口ですので」
外套を返して、私たちは歩き出した。その足で長屋を訪ね、日取りを決めた。婆さまは何度も畳に頭をつけ、位牌に私を引き合わせ、死んだ孫の齢と人柄を語った。
婆さまは煮炊きの火を起こそうとして、竈の戸を逆へ引いた。古い家では建付けの悪いこともある。けれど、水桶の場所を尋ねると、先に入口を見た。
帰り際、路地の戸口を数えた。七軒。どの戸にも箒がなく、灰を捨てた跡もない。
「夕餉は、皆さん外で?」
婆さまは頷き、今度は頷くのが早すぎた。
路地を出てから、暁人様へ袖を引いた。肩を借りたときとは、別の用で。
「明日、ここを調べてください。私も、差配を訊いてきます」
言いかけた続きは、言わずに仕舞った。
袂の底の、あの焦げた紙の角の、隣に。
続きの言葉には、ちゃんと着る物の支度がある。口で言うより先に、あの届の紙の上で言うのが、うちの流儀に合っている——そんな気が、し始めていた。
気の早い話だが、白無垢のあてなら、もう決めてある。いま家の衣桁に掛かっている、あの白だ。三代の針で直しながら、私はたぶん最初から、そのつもりで繕っていた。
曲がり角から一度、路地を見た。子どもが婆さまと反対の方角へ帰っていくところだった。
雨上がりの往来は、石畳が光って、どこもかしこも、洗い立ての顔をしていた。




