第37話 最後の私信
文箱を開けると、封の裂けた端が見えた。
一年余り前、そこで手を止めた。今夜は小刀を置き、指で残りを開いた。
昼、父に呼ばれた。
座敷には家扶と、見合い写真が三枚。父は兄の死後、いつも俺を上座の近くへ座らせる。兄がいた場所だった。
「分家を願います」
父は写真から目を上げた。
「お前まで家を出るのか」
「家督は叔父上のご子息へ。家扶とも相談しました」
「相談した相手の話をしているのではない」
父の手が、畳の上で膝へ戻った。以前なら扇子が飛んできた場面だった。
「直継はもういない」
「知っています」
「知っていて、お前も出るのか」
家扶が顔を伏せた。
分家すれば、侯爵家のものを自由に使えなくなる。銀子の縁側へ軍服一着で行けると思っていたが、俺は俥も使いも、父の銭で動かしていた。
「官の仕事と、私事の費用を分けます。家からの支出は、これまでの分も返します」
「そういう話なら、金を出すと言っている。相手の家へ使いをやれば」
「使いは、出さないでください」
強い声になった。父の目が細くなる。
「私が話します。断られるなら、私が聞きます」
長い間、外の砂利を掃く音だけが聞こえた。
父は写真を一枚ずつ伏せた。
「家を出るなら、母の墓くらい自分で参れ。手代に花を持たせて済ますな」
「はい」
立ち上がった背に、家扶が小さく咳払いをした。
「お父上にも、ときどき、お顔を」
父は窓を向いたまま、何も言わなかった。
兄の手紙を広げた。
『暁人。
そちらは冷えるだろう。靴下を送る。母上が生きていれば、色が気に入らぬと言ったと思うが、これしかなかった。
父上とまた喧嘩したそうだな。帰ったら俺からも言う。ただしお前の側に立つとは限らん。椅子を蹴ったというところは、どう考えてもお前が悪い。
あの朝、顎紐を直してやったのを覚えているか。お前は手が震えていた。嬉しかったのだろう。俺には見えた。あの服を選んだことを、父上へ詫びる必要はない。
春に戻れたら、母上の墓へ行こう。今度は途中で茶を飲める店も探しておく。俺が淹れるよりはうまいはずだ。
母上の墓に、春の花を。
直継』
靴下は、もう踵が薄くなっている。
俺は封を開けず、包みの物だけ使っていた。
事件のことは、何も書いていなかった。
机の端を押さえた。靴下の包みを、もう一度捜したくなった。
夜明け前、花屋の戸を叩いた。
寝巻きの上に羽織を着た婆さんが、水仙を五本選んだ。まだ固い蕾が一本混じっている。
「咲いていないのがある」
「明日のぶんだよ」
婆さんは紐を結んだ。それ以上の説明はなかった。
墓地の土が、靴底で硬く鳴った。
母の墓へ三本。兄の墓へ二本。水を替え、枯れた葉を拾う。手代へ任せてきた仕事は、思ったより指が冷えた。
「読みました」
墓石へ報告した。
「遅くなりました。怖くて、開けられなかった」
口へ出すと、それだけだった。演習も捜査も、封を切らなかった理由にはならない。
俺は兄の最後の朝を知らない。どんな顔で、妻を捜せという一言を残したのか。銀子に二度聞いても、返ってくる声は同じだろう。
分かるのは、自分が生きているうちに、伝えられることだけだ。
「娶りたい人がいます。まだ、はいとは言ってもらえていません」
水仙の一本が傾いた。立て直す。
「最初の晩に、俺が娶ると言いました。よく殴られずに済んだと思います」
笑う者はいなかった。それが一番、堪えた。
銀子を守ろうとして、行き先を俺が決めかけた。あの女は返書を自分で火へ落とし、別の手を探せと言った。
別の手は、ある。
三宅の控えによれば、身分照会の決裁番号を局外へ出させる道がひとつ残っている。普通に原本を見せろと言えば、氷坂は審査中で止める。だが既存の籍と新しい婚姻届が衝突すれば、区役所は拒否の根拠を書面で受け取らねばならない。その返答に、局の印と原綴りの番号が付く。
銀子の名を盗んだ届が、そこにある。
使うかどうかを決める前に、あの女へ話さねばならない。これは捜査だからと、返事をもらったことにはできない。
屋敷へ戻り、兄の手紙を文箱へ入れた。
自分の婚姻届は、そこへ重ねず、机に出したままにした。
夫の欄へ名前を書く。鷹尾暁人。
その先は、空けておいた。




