第36話 針箱の底
母の骨は、うちの墓に入った。
弔いは、祖母とふたりきりで済ませた。読経より線香より、祖母が墓前で言った一言が、いちばん経らしかった。
「遅くなったね、汐。……銀子は、いい耳の子に育ったよ」
それから私は、母の白無垢を繕い始めた。
いつか、あの人の祝言を挙げ直すためだ。花婿の欄が空白のままの祝言帳を、あのままにはしておかない。黄ばみは洗い張りで抜く。畳皺は当て布で伸ばす。虫の穴は、掛け接ぎで塞ぐ。
当て布は、母の残した端切れから取った。針を進めるたび、布の中で母の針目と私の針目が隣り合っていく。母が消えてから初めての、母娘の針仕事である。
針仕事の道具は、決まっている。母の針箱だ。
糸は、新しい糸にした。古い糸は、切れる。切れない糸で、母の白を今に繋いでいく。
夜なべの三日目、裾の古い当て布を外した。
母の針目の下から、小指の爪ほどの縫い札が出た。白糸で留めた布片に、褪せた墨が四文字だけ残っている。
『針箱ノ底』
母の白無垢を解く日まで、誰の目にも触れない場所だった。
針箱の道具を全部出す。箱を持ち上げたところで、指が止まった。
浅い。
外から見た箱の深さと、中の底までの深さが、合わない。
物差しを当てた。外寸と内寸、五分違う。
板の厚みでは、説明のつかない五分だ。
底板の縁を検めた。右の奥の角だけ、木目に沿って、細い爪の掛かりがある。
押して、引くと。
底板が、滑った。
二重底だった。
板の下の浅い隙間に、油紙の包みが、箱の寸法どおりに畳まれて、眠っていた。
開くまでのあいだ、自分の心の臓の音を、久しぶりに聞いた。
手紙だった。
宛名には、私の名があった。
『銀子へ』
母の字だ。祝言帳の他人の筆ではない。繕い物の値札に残っていた、あの右上がりの、母の字だ。
『銀子へ。
この手紙を読んでいるなら、私は帰らなかったのでしょう。先に、詫びます。
本家の蔵で、私の印影を貼った婚姻届を三通見ました。夫の欄は、どれも会ったことのない人でした。私の実印はたけ母さんの鍵の中です。祝言の契約へ捺した写しを、盗られたのです。
襖の向こうで、男が言いました。汐の名なら、あと十年は使える。娘は育ってからでよい、と。
お前の名が、もう数に入れられていると知りました。
だから私は、自分の名を持って行きます。あの者たちが私を幾つもの家へ使っているあいだは、お前を急いで要らない。正しい選び方だとは思いません。ただ、お前が自分の足で逃げられる年まで、歳月を買いたい。
たけ母さんには、このまま渡せません。本家は分家へ出入りする文も荷も検めています。近頃は、角の煙草屋に同じ男が立っています。あの人に秘密を持たせれば、顔に出てしまう。笑わないで。お前の祖母は、嘘だけは下手なのです。
お前はいま六つです。針箱だけに隠せば、明日にでも見つけてしまうでしょう。だから入口は、私の白無垢の裾へ縫いました。私が帰れば、自分で糸を外します。帰らなければ、お前が母の白をほどける手になった日にだけ、ここへ届きます。
見つけたら、私の真似をして独りで来てはいけません。この箱を官憲へ。もうひとつ、信じられる生きた人へ渡しなさい。
銀子。
生きて、恋をしなさい。
お前の耳は、死んだ人の未練を聞くでしょう。けれど、自分の未練まで増やすことはありません。好きな人の前で、死んだふりをしないで。
母より』
行灯の油が尽きるまで、私は手紙を読んだ。
指の腹が、油紙の折り目を、意味もなくなぞっては戻った。
何度目かで、涙で字が読めなくなり、それでも読めた。字を、頭ではなくて手が、もう覚えていたからだ。
涙は、手の甲で受けた。手紙に落とすわけには、いかなかった。
一度だけ、声に出して読んでみた。母の声は、もう思い出せない。思い出せないまま読んだのに、どの行も、母の声で聞こえた。手紙というのは、そういうものらしい。
どうして六つの私を、置いていった。帰ってこない母を嫌いになった夜も、忘れようとした朝も、そのためにあったのか。
手紙の端を握り、慌てて力を抜いた。母を叱る相手が、紙しかいない。
十九になった私なら、一緒に逃げる支度もできた。そんなことを考えても、母のいた朝へは帰れない。
しばらく泣いて、それから針箱を膝へ載せ直した。
白無垢の裾にあった四文字を思い出した。六つの私の指を、十三年先まで止めてしまった、小さな返し縫いだった。
手紙を畳むと、折り目が少しずれた。母の付けた線へ戻そうとして、指を止めた。
私が畳んだところへ、もう一本、線ができた。
夜が明けてから、祖母に手紙を見せた。
祖母は読み終えて、煙管に火を付けて、一服だけして消した。
「……汐らしい。段取りだけは、昔から良すぎる子だった」
言いながら、祖母は最後の一条を、指の腹でゆっくり撫でた。皺の指が、生きて、のところで一度止まり、恋をしなさい、のところで、もう一度止まった。
「……あたしへの指図も、書いてあるみたいだね」
それから私の顔をじっと見て、言った。
「で。読んだお前は、どうするんだい」
「箱ごと、官憲へ。母さんの指図です」
「そっちじゃないよ」
祖母は、湯呑みを寄越した。
「最後の一条のことを訊いてるんだ」
最後の指図だけが、湯呑みを空にしても胸へ残った。
……あの人は、いつも一番むずかしいことを、一番短く言う。
昼、鷹尾の屋敷に使いを出した。
立会人は、両手を出して、針箱と手紙を受けた。証拠品を受け取る手つきではなかった。位牌を受け取る手つきだった。
「検事局に運ぶ。写しを取って、箱は必ず返す」
「ええ。商売道具ですので」
「中身は、いずれ法廷で読み上げられる。他人の耳に触れるが——いいか」
「名前を使われたところは、読んでください。最後のところは、私に宛ててあるので……できれば、そこだけは」
「分かった。そこは検事に伝える」
私は、母の最後の一行をもう一度自分で読んだ。それから、箱を渡した。
その晩は、夢も見ずに眠った。
掟のない体で眠るのは、生まれて初めてだった。




