第42話 はじめのひと言
祝言、というものがある。
生きた者と生きた者が、盃を交わして夫婦になる。ただ、それだけの儀式である。
ただそれだけのことが、私の家業には、どの冥婚より遠かった。
銀子の婚姻は無効、と書かれた決定書が届いた。
氷坂たちの公判とは別に、私の身分を戻す手続きが先に終わったのだ。窓口の係員は書付を二度読み、私に頭を下げた。
今日は、もう待たなくてよかった。
婚姻届は、三日前に出し直した。
今度の窓口は、決定書と私の顔を念入りに見比べ、それから受理の判を捺した。判の音は一度きりだった。その一度が、こんなに贅沢だとは知らなかった。
届の戸主の欄には、祖母の判がある。
捺すとき、祖母は一度だけ手を止めて、仏壇の方を見た。
「……汐。見てるかい」
それから何でもない顔に戻って、朱肉も拭かずに言った。
「持参金は、大した額じゃないよ」
「相場で結構です」
と、婿どのが言った。
「相場ねえ。うちの相場は、高いよ。……銀子、いい商いをしな」
祖母は嫁入りの朝にも、私の足袋の爪先を確かめた。少し擦れている。履き替えておいで、と言う声がいつもと同じで、私は急いで頷いた。
式は、うちの座敷で挙げた。
床の間に高砂の軸。連れ添うて共に白髪まで。この絵をようやく、本来の向きで掛ける日が来た。銚子の雄蝶雌蝶は、私が折った。折り目は少し甘い。仏壇屋の母様の蝶を思い出しながら折ったら、どうしても、甘くなった。
私が纏うのは、母の白無垢だ。
黄ばみは洗い張りで抜いた。畳皺は当て布で伸ばした。虫の穴は、掛け接ぎで塞いだ。母の仕立てに、私の繕い、祖母の始末。三代の針で直した白である。生地の芯のところに、まだ薄く、樟脳と線香の匂いがする。今日だけは、それがいちばんの薫物だ。
母のためのもう一度の祝言を、どう挙げればいいか、長く決められなかった。祖母に、まずお前が着なと言われた。着たいのかと訊かれ、着たいと答えた。母に代わって何かを果たすより先に、私がこの白を選んだ。
介添えには、志乃さんが立ってくれた。
「動かないでください」
硬質な敬語のまま、志乃さんは私の半衿を直した。一件目の晩、伸びかけて止まった手が、今日は迷いなく襟元へ来て、綺麗に折り目を揃えて、離れた。
「……綺麗よ、銀子さん」
最後のひと言だけ、敬語が解けていた。
棘は、もうどこにもなかった。
列席は、狭い座敷に精いっぱい。侯爵様は「見合い写真を三枚とも突き返された」と苦い顔のまま、それでも上座に座ってくださった。家扶どのは新調の紋付で、敷居のところからずっと目頭を押さえている。
紗雪さんは——紅だった。
誂え下ろしの、紅の春着。庭の椿が歩いてきたのかと、誰もが振り返る紅だ。付き添いの、口うるさそうな眼鏡の紳士が、その紅を眩しそうに見ていた。
「言われた通りにしましてよ」
紗雪さんは、天井の方に向かって、小さくそう言った。天井のもっと上の誰かに、届いた頃だと思う。
写真は、組合の偏屈な爺様が撮りに来てくれた。祝言写真は四十年ぶりだと言いつつ、機材は隅々まで磨き上げてある。
「言った通りになったな」
と、紋付の婿どのが小声で言う。写真館の朝の、あの約束のことだ。
「動くなとは、言わないお約束ですよ」
ヲリオン軒から届いた福神漬を、配膳の者がつまみ食いして祖母に叱られた。電気館の招待券は、祝儀袋に二枚入っていた。土間では桜町の白犬が、首へ結ばれた煮干しの包みを取ろうとして、ぐるぐる回っている。
宵の口、座敷の蝋燭に火が入った。
一件目の晩、燃え尽きた蝋燭へ黙って火を継いだ人が、今夜は私の隣で、同じ色の焔を見ている。
三三九度。
大中小の三つ重ね。今日の盃には、末期の水がない。死者の分の空吞みもない。生きた口がふたつ、順に、九度。
一巡目の盃に口をつけたとき、どこかで洟をすする音がした。家扶どのだろう。急かす者は、いない。九度の盃を、一度ずつ、惜しみながら進めた。
二の盃を受け渡すとき。
盃の縁を支える指と、差し出す指が——盃越しに、初めて重なった。
掌の古い傷のそばへ、その指が触れた。かつて晒しを巻いてくれたときと、同じ場所だった。今夜は、もう怪我をしていない。私は指を引かなかった。
熱いのは盃の酒か、指の側か。確かめずにおくものが、また一つ増えた。
盃を納めると、媒酌を引き受けた家扶どのが、涙声を咳払いで直した。
「このご縁、お二人の御意志に相違ございませんか」
一年半、答えられなかった問いだった。
私は畳に手をつき、まっすぐ暁人様を見た。
「はい」
小さい頃、式の口上だけは何度も練習した。これは、一度も声に出したことがなかった。
暁人様も、同じ二文字を返した。
「はい」
声が重なったところで、ようやく商売の口上を出す。
「宵坂銀子、生涯一件限りの大口、承ります」
顔を上げる。まっすぐに、その目を見る。
「代金は——あなたの一生。分割払いは、認めません」
簡潔と断定の婿どのは、すぐに答えた。
「承知した。夜はお前の商いだ。夜明けは、俺と分けろ」
膝へ置いた手が震えた。笑われるかと思ったら、隣の手も同じだった。
座敷が笑った。祖母が煙管の代わりに扇子で膝を打ち、家扶どのがとうとう声を出して泣いた。
嫁入り道具のいちばん上には、求婚帳簿を載せてある。
どの頁も却下の字で埋まって、最後の頁だけが白い。白い頁には、今日の日付だけ入れてある。続きは、一生かけてつければいい。
宴のさなか、私は綿帽子の内で耳を澄ました。
癖だった。白無垢を着た夜には、ひと言を聞き損ねないように、いつも息を詰めていた。
何も来ない。
祖母が笑った。紗雪さんが誰かを呼び、土間の犬がくしゃみをした。隣では、暁人様が酒の盃を畳へ置いた。
「どうした」
声が近い。
私は綿帽子の端を少し持ち上げた。
「明日の朝、お茶は私が淹れます」
「濃くするなよ」
「薄めるお湯も、用意します」
暁人様が笑った。あの兄君の話をした朝と、同じ目だった。
もう一度何か言ってほしくて、私はそっと、その袖を引いた。
(完)
『冥婚の身代わり花嫁』を最後までお読みいただき、ありがとうございます。
銀子と暁人の結婚後を描く続編を、別の作品として連載しています。
『予約どおりに死んだはずの旦那様が、毎朝うちの木戸へ求婚に来ます』
今度届くのは、生きている夫の冥婚の予約状。夫の死に五円を張られた銀子は、夫の命に十円を張り返します。
続編の第1話はこちらです。
https://ncode.syosetu.com/n5490mv/1/
全40話、毎日20時更新。ハッピーエンドまでお届けします。




