第34話 揚羽の簪
三日後、検事から本家の当主夫妻の身柄を押さえたと知らされた。
茶碗だけで毒の種類までは決められなかった。薬種問屋の古い売上控えと、茶を運んだ元女中の証言が見つかったという。私は同じ女中を知っていた。盆になると、子どもの私へ水菓子をくれた人だった。
押収された本家の綴りの中からは、一枚の請け状が出た。
母の、最後の冥婚の紙だ。
依頼主の欄は、また聞きの家名。花婿の欄は、戒名だけ。そして行き先の欄には、帝都はずれの、峠下の神社。
志乃さんが調べてくれた。その神社は、母の消えた年の秋に無住になり、それきり捨てられている。
使い終えたあと、捨てられたのだ。
峠下の神社は、冬枯れの中にあった。
鳥居の朱は剥げ、参道は落ち葉の下、社の屋根には枯れ枝が積もっている。
先に検事の書記と警察が入り、社と裏手を確かめていた。残された物の位置を図に取り終えるまで、私は鳥居の外で待った。
母が普段の仕事に使った白無垢を抱えて来た。最後の晩には本家の装束を着せられ、これは家に残った。黄ばんで、畳皺がついている。着る気はなかった。ただ、置いていくことも、できなかった。
白無垢と、針箱。母のものは、ふたつしかない。ふたつとも、持ってきた。
鳥居の前で、立会人が足を止めた。
「ここから先は、俺は入らん」
「鷹尾様?」
「今日のここは、お前と母御の場所だ。軍靴で踏む場所じゃない。——鳥居の外で待つ。何かあれば、呼べ。声なら届く」
死者の側には入らない。生者の側で、待つ。
この人はいつも、境目の置き方だけは、間違えない。
境内は、しんとしていた。
拝殿の前に、燈明台が二基、倒れたまま朽ちている。階の下に、盃のかけら。緋毛氈の切れ端が、落ち葉の下から色だけ覗く。荒らされた跡さえ、ない。
あの日、ここで祝言の支度がされて、祝言は行われなかった。
支度の形のまま、時間だけが降り積もっていた。
書記が、拝殿の床下に隠されていた包みを見せてくれた。油紙にくるんだ祝言帳。うちの家業の、式次第と名を記す一冊だった。
開く。
花嫁の欄に、墨の字。
『宵坂 汐』
本家の筆だった。
花婿の欄は——空白だった。
戒名も、名前も、何もない。
私は、その白い欄を長いこと見ていた。書き損じの汚れさえない。初めから、埋める気のなかった白だ。
花婿のいない祝言帳が、この世にあるものか。
娶る死者は初めからおらず、祝言の道具だけで口封じを包んだ。母は花嫁の欄を埋めるために呼ばれた。
私は、倒れた燈明台を起こした。
一基目は、素直に立った。二基目は台座が欠けていて、平たい石を噛ませて、ようやくの始末。それでも、倒れたままにはしておけなかった。
階の下の盃のかけらは、七つあった。拾い集めて、階の上に、形だけ揃え直す。三つ組のどの盃の欠片かは、もう分からない。分からないなりに、欠けた口を内へ向けて伏せた。
祝言帳の埃を払い、花嫁の名の丁を開いて、供えた。
できるのは、それだけだ。
私の耳は、白無垢の祝言の夜、花婿になった死者の一言だけを聞く。
母は、私の花婿ではない。
母を花婿に見立ててみても、だめだった。幼い頃、一度だけ白布を被って試した。祖母に見つかり、抱き締められて、その腕の中でも何も聞こえなかった。
誰よりも聞きたい声だけが、この商売の、勘定の外にある。
境内に、風だけが通った。
ここで聞けるひと言は、ない。
分かっていて、私は長いこと、耳を澄ましていた。
参道を戻ると、鳥居の外の軍服は、来たときと同じ姿勢のまま立っていた。
私が鳥居をくぐるのを待って、立会人は軍帽を取り、荒れた社に向かって、深く、長く、頭を下げた。
入らないと決めた場所の外から、母に、弔いの礼を納めていた。
白無垢の包みを抱え直した私に、その人が手を差し出した。荷を持つ、という手だ。
「これは、私が」
「そうか」
手はすぐに引かれた。それから、口を開いた。
「志乃どのから、使いが来た」
声が、硬かった。
「霜会系の寺の合葬墓に、今朝、改葬の許可が下りた。人夫の手配は今日の昼からだ。古い無縁仏を、まとめて掘り上げて、移すそうだ」
「骨を、消す気ですね」
「半日、向こうが早い。——間に合わせる」
俥を飛ばした。
合葬墓は、寺の裏山の斜面にあった。
着いたとき、人夫たちはもう鍬を入れ始めていて、立会人が検事局の書付を掲げて、それを止めた。改葬の許可状と、押収品に係る保全の書付が、墓の前で睨み合った。
改葬を止める書付を読んだ人夫が、鍬を土から抜いた。私はそこで初めて、息を吐けた。
掘り上げは、官立ち会いのもとで行われた。
検めには、手順がある。一体ごとに番号の木札。骨は筵の上へ、副葬の品は小さな盆へ。係が読み上げ、書記が書付に写す。手順の丁寧さが、今日はありがたくて、恨めしかった。
筵の上に、名もない骨が、順に並んでいく。積年の、引き取り手のないことにされた人たち。
昼を過ぎた頃、係が小さな包みを検めて、手を止めた。
「……女物の、簪が」
銀の平打ちの、古い簪。
泥を拭うと、彫りが出た。
細い線の、揚羽の蝶。
私は、抱えてきた包みから針箱を出した。手が、震えていて、蓋を二度落とした。
蓋裏の蝶と、簪の蝶。
揚羽は同じだった。だが同じ蝶は、偽の妻たちの墓にもある。
これだけで母と呼べば、あの連中と同じになる。都合のいい印ひとつで、人の名前を決めることになる。
「汐の可能性があるお骨です」
係の人は、そう記録した。木札にはまだ、汐の名がなかった。
その日の夕刻まで、検めは続いた。
墓の古い改葬図と埋め戻した土の層を照らすと、その骨が納められたのは、母が消えた年の秋から冬にかけて。官の医師は、女、三十前後と見た。そして左の前腕には、一度折れて、少し曲がったまま癒えた跡があった。
使いを受けて来た祖母は、その骨を見ずに答えた。
「汐は十四の秋、柿の木から落ちて左腕を折ったよ。くっついてからも、重い行李を持つと肘が外へ逃げた」
最後の手掛かりは、簪の蝶より、裏の銘と左の羽先にある銀蝋の継ぎだった。祖母の箪笥に残る修繕札には、汐の名と同じ銘、それから『揚羽左翅欠ケ、銀蝋ニテ継グ』の一行があった。
埋葬の時期。齢。左腕の古傷。継ぎ直した簪。
四つが、別々のところから、一人の名へ集まった。
官の書記が木札の「女・番号二十七」を二本線で消し、その脇へ、宵坂汐、と書いた。
その名前を見たとき、膝の上で折っていた指が動かなくなった。
検算は終わったのに、私の算盤だけが動かなかった。
私は筵の際に膝をついて、泣いた。
戸籍の上で生き続けた人は、消えたあの日から、ずっとここにいた。峠下の神社から運ばれ、名前を剥がされ、無縁の骨の頭数に入れられていた。
商売の顔も、乾いた明るさも、どこにも残らなかった。六つの年から今日までの分が、いちどきに、全部あふれた。
祖母が隣へ膝をついた。手を合わせようとして、合わせられず、筵の端を掴んだ。
「汐。ここ、寒かったろう」
その声で、また涙が出た。
人垣の向こうに、上等な羽織が見えた。
氷坂統理。爵位局の審議官。焼け跡で米俵の受取を求めた男だった。
「その骨の照合は、どなたが」
書記へ訊く声がした。答えを待たず、簪の方へ首を伸ばした。
私は筵の前へ移り、骨が見えないように座った。
「役所を通してください」
書記が前へ出た。氷坂はしばらく私の背を見ていたが、やがて供と一緒に斜面を下りた。白菊を持つ男だけが取り残され、困って、花を持ったまま後を追った。
肩に、重みが降りた。
軍の外套だ。外套越しに、手が一度だけ、肩を押さえて、離れた。
「……ここからは、生者の仕事だ」
静かな声が言った。
「骨を、家に帰すぞ」
私は、簪を握って頷いた。
母さん。
帳面の上の十二人の夫は、ぜんぶ嘘だ。
あなたの祝言は、私が挙げ直す。花婿の欄の空白ごと、あなたを家に連れて帰る。
涙は、それで終いにした。
終いにして、立ち上がった。まだ、膝は震えていたけれど。




