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第33話 蔵の鍵

 宵坂本家の儀式殿に、百の灯りが上がった。

 先代当主の御回忌を締めくくる、「やり直し冥婚」。三つ組の盃、伝来の装束、緞子の褥に据えられた形代人形。うちの家業の道具立てで、これより上のものを私は知らない。

 完璧な儀式だった。

 完璧すぎて、空っぽだった。

 私が着せられたのは、本家伝来の、重く古い白無垢だ。綿帽子は、いつもより深く被せられた。顔を隠したいのは死者ではなく、着せた側だろう。

 上座に、当主夫妻。左右に親族と出入りの筋。末席に、住職。やり直しの冥婚では、寺から過去帳を持参し、死者の丁を開いて供えるのが式次第だ。今夜も住職の膝の前に、古い一冊が置かれている。

 志乃さんは、灯りの届きにくい柱の際に座っていた。

 門の外には、今夜も、あの人が立っている。それから、検事局の若い検事と捕吏が控えている。

 住職は昨夜、検事へ過去帳を見せた。庭師の紙と茶碗、医者の書付。それらを持って、検事は蔵と儀式殿を検める令状を得ていた。

 それでも志乃さんが中から戸を開けるまでは、静かに待つ。蔵へ火を入れる隙を与えぬよう、表も裏も人が立っていた。

 私の袂には、焦げた紙の角がひとつ。帯の内には、懐剣がひとつ。

 花嫁の帯に、懐剣をひとつ。死者に殉じないための、うちの商売の作法だ。今夜ほど、この作法が頼もしい晩はない。

 三三九度。空吞みの盃。末期の水は、十四年遅れの水。

 耳を澄ます。

 来る。

 十四年、誰にも聞かれなかった声が。


『——家の罪は、家で拭え。』


 私は、ゆっくりと顔を上げた。

 綿帽子の内から、上座を見る。

 当主の顔は、よく見えなかった。百灯の大広間で、あの席にだけ、灯りが届いていない。灯りの数の問題ではない。届く灯りを、あの人は十四年、自分で消して回ったのだ。

「——最期のひと言を、お伝えいたします」

 私は、職分どおりに言った。声は、思ったよりよく通った。

「先代様は、こう仰せです。『家の罪は、家で拭え』」

 広間が、静かになった。

 隣同士で顔を見合わせる者がいた。上座のふたりと、柱の際の志乃さんだけは、誰にも訊かなかった。

「たわけたことを」

 当主の声は、灯りの届かない席から出た。

「死人の声など、法にも寺にも通らぬ世迷い言よ。座興は終いだ。下がれ」

「ええ。声だけなら、仰る通り」

 書記が控えの間から出て、封を解いた。私の膝の前へ置いた古い茶碗が、百灯の灯りに鈍く照った。

「ですが、声には昔から、連れがございます」

「それは」

 当主の声が、初めて掠れた。

「庭の椿の根元に埋まっておりました。十四年前の春先、奥の庭先で先代様が召された茶の、茶碗でございます。捨てよと仰せになったのは、どなたでしたか」

 当主夫妻の、どちらも動かなかった。動かないことが、返事だった。

 そのとき、末席で、住職が長い息を吐いた。

「……ご覧に入れたいものが、ある」

 持参の過去帳が、広間の真ん中で開かれた。先代の丁。戒名の脇の余白に、小さな墨の字があった。

『茶ヲ一口含ミ、舌ガ痺レタ、ト仰セラレ候』

「先代様は、担ぎ込まれた枕元で、確かにそう仰った。拙僧が、この手で書き留めた。十四年、余白に置いたままにした。家の大事と思うて、問うことをしなかった。それが拙僧の、十四年の罪じゃ」

 墨の色は、丁の他の字と同じだけ古びていた。住職は昨夜、その頁を検事の前でも開いている。今夜は、家の者の前で、自分の口から言い直したのだ。

 舌が、痺れた。

 三宅乙彦さんの白湯と、同じ訴えだ。附子なら舌を痺れさせ、脈を乱す。けれど茶碗の底に残ったものが何かは、官の検分が済むまで誰にも決められない。

「これでもまだ、声だけとお思いなら」

 私は最後の一枚、与作さんの覚え書きを、茶碗の隣に置いた。

「天道様の側の証人が、もうひとり。五十年お庭を守った方の、遺言でございます」

 広間が、割れた。

 親族の誰かが立ち、誰かが叫び、当主が何かを命じ、その命令に、初めて誰も動かなかった。

 動いたのは、柱の際の人だった。

「——蔵の、二番の棚」

 当主が「志乃」と呼んだ。志乃さんは父を見ず、蔵の鍵を畳へ置いた。

「印影の控え帳があります。分家の花嫁たちの判の写しと、生まれ年を集めた綴りが。門の外のお役人を、お呼びなさい。家の罪は、家で拭えと、先代様の仰せです」

 門が、開いた。

 呼ばれるまで入らなかった検事が、令状を掲げて入ってきた。住職の証言と与作さんの覚え書きを疎明に取った、蔵と儀式殿の捜索令状である。捕吏が二番の棚へ向かう。あとはもう、私の仕事ではなかった。


 押収の検めには、私も立ち会わされた。

 印影の控え帳は、志乃さんの言った通りの棚から出た。頁を繰った係の手が、ある行で止まった。それから、係は私を見た。

 宵坂銀子。

 私の印影が、そこに捺されていた。侯爵家との、最初の契約の晩に捺した、あの判だ。

 そして印影の脇に、小さく、勘定の書き込みがあった。

『一件』

「……一件」

 私はもう、どこかの家に嫁いでいるらしい。

 私の知らない私が、私の判を持って。

 背筋の凍る音の向こうで、係が別の綴りを読み上げていた。名義貸しの報酬の初出は、十四年前。若葉寮への寄進が止まった年と、ぴたりと同じ。与作さんの茶碗に、帳面が裏書きをした。


 当主夫妻は、証拠を動かさぬよう別間へ移され、夜明けに検事局へ同行した。まだ、毒殺の罪で縛ったのではない。

 検事が二人を別間へ移し、書記が蔵の綴りを運び出すあいだ、私は儀式殿の階へ腰を下ろした。百灯の何本かは燃え尽き、ろうの匂いだけが濃くなっていた。


「銀子さん」

 志乃さんが、隣に立った。

「あなたの帳面を、本家に見せてはだめと言ったこと。あれの意味を、言っていなかったわね」

「志乃さん」

「二十のとき、手代と言い交わした人がいたの。掟を出されて、終わった。人は店を移されて、私は残った。守ったのよ、私は、掟を」

 志乃さんは、燃え残る百灯を見たまま言った。

「あの人が移った店を、知っていたの。父に聞こえないように、誰かが教えてくれた。でも、行かなかった。……あなたのお母様の蝶も、見なかったことにしてきた」

 言葉は、そこで終わった。終わらせて、いいと思った。

「志乃さん。今度、うちへ茶を飲みに来てください」

「分家の縁側は、狭いでしょう」

「狭い分だけ、湯呑みが近くなります」

 志乃さんは、少し黙って、それから、私の襟元へ手を伸ばした。

 あの初冬の晩、伸びて、止まって、袖に戻った手が。

 今夜は、止まらなかった。

 半衿の折れを、直してくれた。

「……ええ。行くわ」

 衿を直した指に、蔵の鍵の赤い跡が残っていた。


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