第32話 椿の根元
祖母の手が、白無垢の袖を折っていた。
「本家から、だってね」
「ええ。お抱えの庭師の与作さんが亡くなったそうです。七十四。師走の朝、庭隅の小屋で、眠るように。……その冥婚を、うちに」
「五十年もお庭を預かった人だろう。なんだって分家に回すんだい」
「五十年勤めの奉公人を、弔いなしでは外聞が悪い。かといって本家の姉様がたが、庭師の祝言に白無垢を着るのも外聞が悪い。呼び戻しに応じない小娘なら、奉公人の弔いに文句もあるまい、という寸法でしょう」
「体のいい厄介払いだね」
「結構ですよ」
厄介な仕事は、うちの看板だ。それに、本家の敷居を正面から跨げる仕事でもある。
「気をつけて行きな」
祖母はそれだけ言った。それだけの言い方に、全部入っていた。風呂敷の結び目だけ、いつもより固く結んであった。
与作さんは五十年、本家の庭に鋏を入れ続けた人だ。
その庭は、冬でも手入れが行き届いていた。
砂利に掃き目。松に雪吊り。五十年ぶんの鋏の癖が、庭のすみずみで静かに息をしている。
祝言は、庭隅の小屋の前で挙げさせられた。母屋には上げない、という差配である。渡り廊下の遠くを、志乃さんが一度だけ横切って、こちらを見て、何も言わずに消えた。
小屋の前に、椿の木があった。
庭の隅には不釣り合いな、堂々とした古木だ。固い蕾が、数えきれないほど付いている。与作さんが手ずから植えて、五十年育てた木だと、出入りの植木屋が教えてくれた。
花の時分になると、爺さんは落ちた椿を誰より早く、竹箒で掃いてしまったという。もったいないと言うと、笑って答えた。首の落ちた花を、お屋敷の目に触れさせるもんじゃねえ——。
「妙なんですよ。本家の庭に椿なんて」
植木屋は声を落とした。
「椿は、花が首から落ちるでしょう。お武家の流れの家は嫌うんです。ここの御当主も嫌ってなさる。何度も伐れと言われて、そのたび与作の爺さん、庭の隅ならお目に触れませんからって、頭を下げて守ってた」
嫌われると知っていて、植えた。
伐れと言われ続けて、守った。
五十年、庭の隅で。
三三九度。末期の水。
耳を澄ます。
『——椿は、首から落ちると知っていて咲く』
……ご自分の木の、自慢だろうか。
いや。この商売で聞く一言に、ただの自慢はない。
首から落ちると、知っていて咲く。
落ちる覚悟の話だ。それも、花の首の話をしながら、たぶん、人の首の話をしている。
祝言明け、小屋を検めた。鋏、砥石、襤褸。綺麗に貧しい小屋で、紙の類は一枚もない。
字の苦手な人だったと、植木屋は言った。
小屋の棚には、置き場所を示す絵が刻まれていた。鋏、鉢、鍬。字を書くより先に、手で場所を覚える人だったのだろう。
私は、椿の根元に膝をついた。
根方の土だけ、踏み固められている。五十年、毎朝そこに立った足の跡かと思ったが、それにしては、掘り返しの癖がひとところだけ違う。
植木屋に、そこから一歩も動かないでくださいと頼んだ。私は根元へ小枝を四本立て、掘り返しの範囲を糸で囲い、門の外で待つ暁人様へ、検事局へ知らせてほしいと伝えてもらった。門番は、通行人へ伝言を頼まれたと思っていた。
日が傾く前に、若い検事と書記が来た。与作さんの小屋の持ち物を遺族へ引き渡す立会いを名目に入ったが、紙と茶碗が出た時点で、本家の女中が慌てて母屋へ走った。位置を図へ取り、立会人の名を記し、土を一寸ずつ上げる。
一尺半の深さから、油紙の包みが出た。書記が番号札を置いてから開く。中に茶筒。さらに布で幾重にも巻かれた茶碗が、ひとつ。
古い、上手の茶碗だ。欠けひとつない。
底に、茶の跡が枯れて貼りついていた。
布の間から、紙が一枚。平仮名の多い、鑿で彫ったような字だった。
『十四ねんまえ、はるさき。おくのにわさきにて、せんだいさま、ちゃをめされ、たおれる。おくがた、だんなさま、ちゃわんをすてよとおおせ。すてず、ここにうめる。てんとうさまはみている。 与作』
紙も墨も、十四年物ではなかった。死期を悟った人が、埋めた品を一度掘り出して、日付から書き直したのだ。言えないまま死ぬ気は、なかったということだ。
十四年前。
先代当主が、奥の庭先で、茶を飲んで倒れた。
茶碗を捨てよと命じたのは、今の当主夫妻。
庭師は捨てなかった。天道様の側に付いて、五十年育てた椿の根に証拠を預け、その真上で花を咲かせ続けた。
覚え書きの末尾で、「与作」の二字だけが大きかった。五十年仕えた家の名ではなく、爺様が自分の名を書いていた。
書記が包みを閉じると、私は椿の土を見た。根を傷めないように掘った跡だった。
門の外に、立会人が立っていた。
本家の敷居は、軍服には跨がせられない。跨がせれば向こうが構える。だからこの人は、夕方からずっと、門の外の辻にいた。肩に、霜が下りていた。
「立会料の付けようのない立会いですね」
「門の外は、席のうちに入らん。ただの通行人だ」
通行人の肩の霜を払う理屈が見つからなかったので、代わりに屋台の夜鳴き蕎麦を、私の払いで一杯付けた。
「相伴には及ばん」
「ええ。これは施しです。行き倒れ予防の」
通行人は何か言いかけ、言い返す前に、湯気に負けて箸を割った。
この貸し借りの帳尻は、もう自分でもよく分からない。
茶筒と覚え書きの話をすると、立会人は箸を止めた。
「十四年前。……孤児院の寄進が止まった年だ」
「ええ。先代が死んで、代替わりした年。うちの本家が、慈善をやめて、別の商いを始めた年です」
茶碗の底の枯れた茶。十四年も土の下にあったものから、何が拾えるかは分からない。中身が分かっても、誰が淹れ、誰が飲ませたかまでは茶碗に書いていない。
与作さんの覚え書きと、捨てろという命令。それだけでは、まだ人を縛れない。
「身柄を押さえるには、まだ早い」
「ええ。それに——」
言いかけたところへ、分家から使いが走ってきた。祖母からの文だ。
開いて、読んで、私はしばらく黙った。
「どうした」
「……本家が、先代の『やり直し冥婚』を執り行うそうです。御回忌の締めくくりだと。儀式殿で、百灯を上げて。体裁の限りを尽くして」
回忌の膳が何度巡っても、あの家の弔いは終わらないらしい。
そして、花嫁は。
「花嫁は、分家の銀子に命じる、と」
殺した側が、殺した相手の祝言を張る。
その席に、私は花嫁として呼ばれた。
——向こうから、検めの席を開いてくれるらしい。




