第31話 直せなかった日付『直せなかった日付を、順に読め』
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『直せなかった日付を、順に読め』
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「西の連隊区の、恩給係の官吏が死んだ」
囲炉裏端に座るなり、立会人は言った。外套も、脱いでいない。この人が段取りを飛ばすのは、報せの方が段取りより速いときだけだ。
「……筆跡の震えていた、あの」
「三宅乙彦。二十六。先月、帝都の本課へ栄転になっていた。下宿で夜中に倒れて、それきりだ。医者の書付は、心臓麻痺」
心臓麻痺。
この二年あまりで、私たちはこの四文字の読み方を覚えてしまった。
「会いに行く段取りを、組んでいた」
立会人は、手帳を閉じたまま言った。
「人を挟んで、三日後に席を持つはずだった。段取りの方が、一日遅かった」
こちらが一歩進むたび、向こうは一人消している。
誰も言わなかった。鉄瓶の湯気だけが、細く立って、揺れていた。
冥婚の依頼人は、西から出てきた姉様。
三宅八重さん、三十。弟の下宿を引き払いに上って、荷物の少なさに泣いて、それから、うちの噂を聞いたという。
「弟は、嫁も取らずに、お役所の紙とにらめっこばかりの子で。……最後にひとつ、祝言を」
弟さんの話を聞かせてもらった。几帳面。生真面目。酒は飲まない。甘い物だけ少し。月給日には決まって最中を四つ買い、二つは自分、二つは文に包んで西の姉へ送る。甘い物の帳尻まで、姉弟で折半にする人だった。それから、死ぬ半月前の手紙の妙な一行。
『近頃、白湯の味が変わった。舌が痺れる。疲れだろうか』
白湯の味は、変わらない。
変わったのは、白湯に入っていたものの方だ。
「附子だ」と、立会人が言った。「軍医に当たりを取ってある。附子の毒は脈を乱して心の臓を止める。医者の書付には、心臓麻痺と載る。漢方の薬種問屋を通れば、手に入る毒だ」
毒の名前が、初めて座敷に置かれた。
置かれてみれば、聞き覚えのある死に方が数珠繋ぎになった。紗雪さんの婚約者。直継様。そして、この官吏。
網は、同じ毒で人を消している。
祝言は、引き払う前の下宿で挙げた。
四畳半に、文机がひとつ。官給の書物が、角を揃えて積んである。部屋まで、あの字と同じ顔をしていた。
八重さんが、最中の包みを位牌に供えた。四つ入りである。二つは弟の分、二つは、もう送り主のいない、姉の分だ。
供え終えて、八重さんは包みの結び目を二度直した。直すところの、もう何もない結び目を。
三三九度。末期の水。
耳を澄ます。
『——直せなかった日付を、順に読め』
日付。
やっぱり、あなたか。
迎え火の家の三日。配達夫の家の三日。あの狂った日付の列の、向こう端にいた人が、この人だった。
夜明けを待たず、文机を検めさせてもらった。
引き出し。行李。書物の山。それらしい手控えは出てこない。
最後に、官給の恩給便覧を手に取った。誰も開かない、一番退屈な顔の本だ。
綴じを見て、手が止まった。
綴じ穴が、ひとつ多い。
市電の車庫で覚えた読み方だ。綴じ直した紙は、穴で分かる。
紐を解くと、便覧の丁の間から、別紙の綴りが出てきた。細かい字の、日付の一覧。左の列に公報の日付、右の列に本当の日付。三日、三日、五日、三日。ずらした日付が、ずらした本人の手で、全部控えてあった。
声に出して、読んでみる。公報、七月十三日。実際、七月十六日。仏壇店の武志さんの、あの三日だ。公報、二月九日。実際、二月十二日。お鶴さんの勇作さんの、あの三日だ。
指を折って数えてきた狂いが、一枚の紙の上に、きちんと横に並んでいた。
なぜ、どれも手前へずらしてあるのか。
隠し場所に選ばれた便覧の丁が、そのまま答えだった。恩給も弔慰の給付も、締めの日を境に月が変わる。死んだ日を締めの手前へ引けば、その月の給金も加算も、紙の上では「払わずに済んだ金」になる。浮いた金は、遺族の膳には載らない。
命じられて書き換えた日付の、正しい方を、この人は捨てずに持っていた。
直せなかった日付を、順に読め。
役所の帳面は、もう直せない。直せなかった自分の弱さごと、正しい日付をここに遺す。順に読めば、金の落ち先が読める。網の形が読める——几帳面な字は、遺言状の字ではなく、引き継ぎの字だった。
この人は最期まで、係だったのだ。
継ぐ者への引き継ぎではない。狂いを正せる誰かへの、宛名のない引き継ぎだ。
そして綴りの末尾、余白に、こうあった。
『偽装ノ届ハ爵位局預リノ綴リニ留メ置カルル由。新タニ婚姻届ノ出ヅレバ、身分照会ノ整理番号外ヘ出ヅ』
「……鷹尾様。これは」
「偽の届は、爵位局の綴りに囲い込まれている。だが新しい婚姻届が出れば、役所の窓口から身分照会が走る。返答には、向こうが隠している届の整理番号を付けねばならん」
立会人は、その一行を三度読んだ。
「壁の内側の仕組みを、内側の人間が書き残した。これは、砲の設計図だ」
どこへ向ける砲かは、そのときの私には、まだ見えていなかった。
見えていたのは、震える字で正しい日付を書き続けた、二十六の係の背中だけだ。
夜明けの茶は、うちの囲炉裏端で頂いた。姉様を宿へ送り、綴りの写しを取り、それが済むと、外はもう白かった。
「三宅の綴りは、俺が預かる。仇の取り方は、紙で考える」
「ええ」
「それと」
立会人は、湯呑みを置いた。
「返事を急かす気はない。だが、席の日取りだけ訊いておく。——相場交渉の席は、いつ開く」
いつもなら、型が出る。求婚は承っておりません。却下です。十二の年から仕込まれた、あの口上が。
出てこなかった。
火鉢の灰を、火箸で少し寄せる。灰の下から、焦げた紙の角が覗く。『花嫁の』の三文字が、まだそこにいる。
「……今は、まだ」
自分の声が、他人の声みたいに聞こえた。
立会人は、何も言わなかった。湯呑みを取り、一口飲んで、それから窓の外の白みを、ずいぶん長いこと眺めていた。目元だけが、笑っていたと思う。
帰り際、彼が土間で靴を履くあいだに、私は火箸の先で、焦げた紙の角を拾った。
袂に、落とす。
火の始末だ。そういうことに、しておく。
袂の底で、焦げた紙の角が小さく鳴った。
帳面には、まだ付けないでおく。




