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第30話 返書を焼く『俺が娶りたいのは、お前だ』

 ◆◆◆

 俺が娶りたいのは、お前だ。

 ◆◆◆


 三日目の晩、立会人は約束どおり、裏を取って戻ってきた。

 縁側ではなく、囲炉裏端に通した。十一月の夜は、もう縁側の話ではない。火鉢と、鉄瓶と、湯呑みがふたつ。うちで一番あたたかい席が、うちで一番冷たい話の席になった。

「寺の裏は、思ったより深い」

 報告の声で、立会人は続けた。声はいつも通りのまま、中身だけが底なしになっていく。

「檀家総代は霜会系の家。住職の代替わりには爵位局の口利き。寺男は去年から総入れ替え。それと、これが本命だ。明後日の晩、寺の裏手に人夫が三人、手配されている。口入れ屋の控えには『荷運び』とある」

「荷運び」

「祝言の晩に、寺から運び出す荷だ。何の荷かは、言わせるな」

 言わせなかった。

 白無垢を着て入って、荷になって出る。それがあの依頼状の、勘定の全部だった。

 母のときも、こうだったのだろう。どこかの闇に入っていった白無垢と、出ていった『荷』。母のときの筋書きが、いま目の前で、同じ手つきで書かれようとしている。

 囲炉裏の火が、鉄瓶の底で小さく爆ぜた。湯呑みの茶は、ふたつとも、手が付かないまま冷めていく。

「では、なおのことです」

 私は、畳に手をついた。

「行かせてください」

「話を聞いていたか」

「聞いた上で申し上げています。向こうは私を、生きて帰さないつもりで呼んでいる。つまり向こうの段取りの中に、私の入れる場所が確かにある。入ってしまえば、寺の中が見える。母の消え方が見える。兄君の真相に、指が届く」

「銀子」

「私の値打ちは」

 声が、一段だけ裏返った。

「私の値打ちは、それしかないんですから」

 言ってしまってから、囲炉裏の火の鳴る音だけが残った。

 商売の口が、よく回った。止めようとして、止まらなかった。

 死人の花嫁。死者の声を聞く耳。この耳があるから侯爵家の依頼が来た。この耳があるから、この人は毎晩、冷える廊下に座ってきた。耳を取ったら、あとに残るのは、分家の貧乏な小娘だけだ。

 そんなことは、とうの昔に知っている。

 知っていて、痛くないわけではない。痛みの帳面を客に見せないのが、商いの作法というだけだ。

 沈黙のあいだ、頭の中には嫌な数ばかりが並んだ。この人が二年、廊下の冷えに座り続けた元手。それを取り返せる口がいま初めて開いて、通れるのは私しかいない。どこから数え直しても、答えは同じ所で止まった。

 立会人は、懐から二枚の紙を出した。

 一枚は、依頼状を検事局へ預けた受取証。原本は紙寸、透かし、筆跡、付着物まで検分され、証拠番号を付けて封じられている。

 もう一枚は、返書の下書きだった。『鷹尾直継様と同じ掛』という先方の口上を冒頭に写し、指定の夜に伺うこと、花嫁の実印を持参することまで、あとは私の署名と判を待つ形で整えてある。

 この一枚を出せば、罠の口が開く。

 立会人は、その返書を——火鉢の火に落とした。

「……っ、何を」

 腰が浮いた。手を伸ばしかけて、伸ばした先で、紙の端が橙に立ち上がった。返書の字が波を打って、めくれて、黒くなっていく。直継様の名前を写したところに火が回るのを、彼は瞬きもせずに見ていた。

「兄の真相と引き換えにお前を失うなら」

 静かな声だった。囲炉裏の火より、静かだった。

「俺は一生、謎のままでいい」

「……何を、仰って」

「ひと言が聞けなくても構わん。耳が聞こえなくなっても構わん。俺が娶りたいのは、冥婚屋の耳ではない」

 燃え落ちる紙の明かりが、その人の顔を下から照らした。

「宵坂銀子。——お前だ」

 息が、できなかった。

 紙の最後の角が火に食われて、灰の形のまま崩れるまで、私はそれを見ていた。見ていることしか、できなかった。囲炉裏の間が、妙に明るい。紙一枚の火は、こんなにも部屋を明るくするものか。

 商売の口上が、一句も出てこなかった。断りの型も、却下の筆も、十二の年から仕込んできた道具が全部、あの紙と一緒に、火鉢の中で灰になっていた。

 この人はいま、証拠は残して、私が罠へ入る道だけを焼いた。

 二年、冷える廊下に座り続けた宿願を、私ひとりの目方と引き換えに、二秒で。

「それからな、銀子」

 彼は火箸を取って、灰を均しながら、いつもの声に戻って言った。

「お前の値打ちを、お前が決めるな。値打ちというのは、相場だ。相場は、買い手と売り手の席で決まる。……決めたいなら、俺との相場交渉の席にしろ」

「……交渉の席、というのは」

「祝言の席だ」

 即答だった。即答のくせに、それ以上は何も言わず、彼は立ち上がった。

「返事は要らん。今日のは求婚ではない。訂正だ——お前の値打ちの、な」

 一礼して、夜の中へ帰っていく。軍靴の音が遠くなる。

 引き際は、いつも通り。いつも通りでないのは、こちらの息の方だった。


 別の返事は、寺へ出さないことにした。出せば、紙も筆跡も向こうの綴りに載る。黙殺だけが、こちらの返事だ。

 火鉢の始末をしていて、灰の際に、燃え残りを見つけた。

 返書の隅。焦げの縁取りの内側に、『花嫁の』の三文字だけが、焼け残っていた。

 拾い上げかけて、やめた。

 代わりに、灰を薄く掛けておいた。火の始末のためだ。そういうことにしておく。

 障子の陰から、祖母が出てきた。今夜も、聞いていたらしい。

「焼いたのかい。あの男が、自分の手で」

「ええ」

「そうかい」

 祖母は火鉢の灰を検分して、焦げの匂いを確かめるように、鼻をひとつ鳴らした。

「兄弟の謎より、お前のほうが高くついたってことだ。……いい客だね、ありゃあ」

 いい客、があの人の最上級であることを、私は知っている。

 文机の隅には、片方だけの革手袋。備考の欄を埋めたきり、返す見込みの立たない預かり物だ。

 その晩、求婚帳簿は、開いたまま一字も書けなかった。

 却下、の二文字が。

 初めて、筆から出てこなかった。


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