第30話 返書を焼く『俺が娶りたいのは、お前だ』
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俺が娶りたいのは、お前だ。
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三日目の晩、立会人は約束どおり、裏を取って戻ってきた。
縁側ではなく、囲炉裏端に通した。十一月の夜は、もう縁側の話ではない。火鉢と、鉄瓶と、湯呑みがふたつ。うちで一番あたたかい席が、うちで一番冷たい話の席になった。
「寺の裏は、思ったより深い」
報告の声で、立会人は続けた。声はいつも通りのまま、中身だけが底なしになっていく。
「檀家総代は霜会系の家。住職の代替わりには爵位局の口利き。寺男は去年から総入れ替え。それと、これが本命だ。明後日の晩、寺の裏手に人夫が三人、手配されている。口入れ屋の控えには『荷運び』とある」
「荷運び」
「祝言の晩に、寺から運び出す荷だ。何の荷かは、言わせるな」
言わせなかった。
白無垢を着て入って、荷になって出る。それがあの依頼状の、勘定の全部だった。
母のときも、こうだったのだろう。どこかの闇に入っていった白無垢と、出ていった『荷』。母のときの筋書きが、いま目の前で、同じ手つきで書かれようとしている。
囲炉裏の火が、鉄瓶の底で小さく爆ぜた。湯呑みの茶は、ふたつとも、手が付かないまま冷めていく。
「では、なおのことです」
私は、畳に手をついた。
「行かせてください」
「話を聞いていたか」
「聞いた上で申し上げています。向こうは私を、生きて帰さないつもりで呼んでいる。つまり向こうの段取りの中に、私の入れる場所が確かにある。入ってしまえば、寺の中が見える。母の消え方が見える。兄君の真相に、指が届く」
「銀子」
「私の値打ちは」
声が、一段だけ裏返った。
「私の値打ちは、それしかないんですから」
言ってしまってから、囲炉裏の火の鳴る音だけが残った。
商売の口が、よく回った。止めようとして、止まらなかった。
死人の花嫁。死者の声を聞く耳。この耳があるから侯爵家の依頼が来た。この耳があるから、この人は毎晩、冷える廊下に座ってきた。耳を取ったら、あとに残るのは、分家の貧乏な小娘だけだ。
そんなことは、とうの昔に知っている。
知っていて、痛くないわけではない。痛みの帳面を客に見せないのが、商いの作法というだけだ。
沈黙のあいだ、頭の中には嫌な数ばかりが並んだ。この人が二年、廊下の冷えに座り続けた元手。それを取り返せる口がいま初めて開いて、通れるのは私しかいない。どこから数え直しても、答えは同じ所で止まった。
立会人は、懐から二枚の紙を出した。
一枚は、依頼状を検事局へ預けた受取証。原本は紙寸、透かし、筆跡、付着物まで検分され、証拠番号を付けて封じられている。
もう一枚は、返書の下書きだった。『鷹尾直継様と同じ掛』という先方の口上を冒頭に写し、指定の夜に伺うこと、花嫁の実印を持参することまで、あとは私の署名と判を待つ形で整えてある。
この一枚を出せば、罠の口が開く。
立会人は、その返書を——火鉢の火に落とした。
「……っ、何を」
腰が浮いた。手を伸ばしかけて、伸ばした先で、紙の端が橙に立ち上がった。返書の字が波を打って、めくれて、黒くなっていく。直継様の名前を写したところに火が回るのを、彼は瞬きもせずに見ていた。
「兄の真相と引き換えにお前を失うなら」
静かな声だった。囲炉裏の火より、静かだった。
「俺は一生、謎のままでいい」
「……何を、仰って」
「ひと言が聞けなくても構わん。耳が聞こえなくなっても構わん。俺が娶りたいのは、冥婚屋の耳ではない」
燃え落ちる紙の明かりが、その人の顔を下から照らした。
「宵坂銀子。——お前だ」
息が、できなかった。
紙の最後の角が火に食われて、灰の形のまま崩れるまで、私はそれを見ていた。見ていることしか、できなかった。囲炉裏の間が、妙に明るい。紙一枚の火は、こんなにも部屋を明るくするものか。
商売の口上が、一句も出てこなかった。断りの型も、却下の筆も、十二の年から仕込んできた道具が全部、あの紙と一緒に、火鉢の中で灰になっていた。
この人はいま、証拠は残して、私が罠へ入る道だけを焼いた。
二年、冷える廊下に座り続けた宿願を、私ひとりの目方と引き換えに、二秒で。
「それからな、銀子」
彼は火箸を取って、灰を均しながら、いつもの声に戻って言った。
「お前の値打ちを、お前が決めるな。値打ちというのは、相場だ。相場は、買い手と売り手の席で決まる。……決めたいなら、俺との相場交渉の席にしろ」
「……交渉の席、というのは」
「祝言の席だ」
即答だった。即答のくせに、それ以上は何も言わず、彼は立ち上がった。
「返事は要らん。今日のは求婚ではない。訂正だ——お前の値打ちの、な」
一礼して、夜の中へ帰っていく。軍靴の音が遠くなる。
引き際は、いつも通り。いつも通りでないのは、こちらの息の方だった。
別の返事は、寺へ出さないことにした。出せば、紙も筆跡も向こうの綴りに載る。黙殺だけが、こちらの返事だ。
火鉢の始末をしていて、灰の際に、燃え残りを見つけた。
返書の隅。焦げの縁取りの内側に、『花嫁の』の三文字だけが、焼け残っていた。
拾い上げかけて、やめた。
代わりに、灰を薄く掛けておいた。火の始末のためだ。そういうことにしておく。
障子の陰から、祖母が出てきた。今夜も、聞いていたらしい。
「焼いたのかい。あの男が、自分の手で」
「ええ」
「そうかい」
祖母は火鉢の灰を検分して、焦げの匂いを確かめるように、鼻をひとつ鳴らした。
「兄弟の謎より、お前のほうが高くついたってことだ。……いい客だね、ありゃあ」
いい客、があの人の最上級であることを、私は知っている。
文机の隅には、片方だけの革手袋。備考の欄を埋めたきり、返す見込みの立たない預かり物だ。
その晩、求婚帳簿は、開いたまま一字も書けなかった。
却下、の二文字が。
初めて、筆から出てこなかった。




