第58話 駆けつける者
城門をくぐったとき、アレクの馬は泡を吹いていた。
手綱を投げるようにして飛び降り、出迎えた兵の肩をつかむ。
「リディアは」
「お、お部屋に――」
最後まで聞かずに、走った。
知らせが届いたのは、一昨日の夜だった。市場で襲われ、刃を受けた。それ以上のことは、何も書かれていなかった。
夜通し馬を替えて駆けるあいだ、考えないようにしていた。考えれば、手綱を握る手が震えた。
階段を駆け上がり、廊下の突き当たりの扉を押し開ける。
――笑い声が、聞こえた。
寝台の上で、リディアが枕にもたれて座っていた。顔色はまだ白い。けれど、目を開けて、笑っている。
その寝台の縁に、カイルが背を向けて腰かけていた。リディアの手が、カイルの銀の三つ編みの先をつまんでいる。
「あら、また曲がっちゃった」
「前回よりはましです」
「前回よりはって何よ」
藍色の紐だった。ところどころ、色がくすんでいるように見えた。
枕元ではエレナが口元を押さえて笑いをこらえ、窓際ではニコが「下手くそ」と言って、リディアに睨まれていた。
カイルは小さく息をつくと、リディアの手から紐の端を受け取り、慣れた手つきで結び直した。
「ほら、こうです」
「……自分でやるなら、最初からそう言って」
「結ってもいいかと聞かれたのは、リディア様のほうですので」
前回が、いつのことなのか。結ってもいいかと、いつ聞かれたのか。
アレクには、何も分からなかった。
――ただいま、と言った城だった。
ひと月ほど前、この城門の前で。自分はここに帰ってきたのだと、そう思えた。
その城が、今は少しだけ、遠く見えた。
「アレク!」
リディアが、こちらに気づいた。
カイルが弾かれたように立ち上がり、エレナとニコも振り返る。
アレクは、しばらく扉の前から動けなかった。
生きている。笑っている。
ようやく、肺の底から長い息を吐いた。
「……アレク様」
カイルが、こちらへ歩み寄ってくる。
「傷は見た目ほど深くありませんでした。命に別状はありません」
それから、ほんのわずかに目を伏せた。
「……お見苦しいところを。リディアが、どうしても結ぶと言って聞かないもので」
アレクの眉が、わずかに動いた。
この男が、人前であれを呼び捨てにするのを、初めて聞いた。
けれど、カイル本人は気づいていないようだった。
「……お前は、無事か」
「はい。私は、何も」
カイルの頬に、薄く刃の痕があった。アレクはそれ以上何も言わず、寝台のそばへ歩いた。
「……心配して、来てくれたの?」
リディアが、少し驚いたように見上げてくる。
「当たり前だ」
「夜通し駆けてきたんでしょう。ひどい顔よ」
「誰のせいだと思っている」
窓際で、ニコが吹き出した。エレナが慌ててその口をふさぐ。
「刺した男は、オスヴァルトが斬りました。ほかの者は、散り散りに」
背後で、カイルが低く告げる。
「狙いは、最初からリディア様でした。私を囲んだ者たちは、足止めにすぎなかった」
「……傷は」
「ここよ」
リディアは、かけ布の上から自分の脇腹にそっと手を当てた。
「見た目ほどじゃないのよ。お医者様も、そう言ってたわ」
その手の下に、刃が沈んだのだ。
アレクは、奥歯を噛みしめた。ぎり、と音がしたような気がした。
「でも、困ったわね」
リディアは、ふと冗談めかして笑った。
「婚約破棄で、ただでさえ傷のついた身なのに。これで本当に傷まで残ったら、令嬢としては、もうお嫁にはいけないわね」
「そんなことは……!」
声を上げたのは、カイルだった。
アレクは、まっすぐにリディアを見下ろした。
「お前の価値は、そんなことで揺らぎはしない」
それから、声を落とす。
「だが、お前にその傷を負わせた者は、誰の差し金か突き止めて、死ぬほど後悔させてやる」
「ええ。必ず」
カイルが、静かに続けた。
期せずして、二人の声は同じ温度で冷えていた。
リディアは、きょとんとして二人を見比べた。それから、ふわりと笑う。
「……ふふ。ありがとう」
*
その夜、アレクは城の回廊にひとりで立っていた。
月が出ていた。眼下の街には、まだいくつか灯りが残っている。
知らせを受けた夜、手紙を握りつぶしたまま、しばらく動けなかった。馬を出せと叫んだのは、そのあとだ。
あのとき思い浮かんだのは、「おかえりなさい」と笑った、あの顔だった。
足音がした。
「アレク様」
カイルだった。その二歩後ろに、もう一つ影が続いている。
灯りの下に出てきた顔を見て、アレクは目を瞬いた。
ロイドだった。片目のまわりが青黒く腫れ、口の端が切れている。
「……その顔はどうした」
「罰を受けました」
ロイドは、なぜか少し誇らしげに答えた。
「下がっていろ」
カイルが言うと、ロイドは一礼して、声の届かないあたりまで退いた。それでも、カイルから目を離そうとはしない。
「……よく分からんが、あいつはお前の補佐に戻ったのか」
「今日から、そうなりました」
「顔が、それとは関係あるのか」
「あります」
それ以上、カイルは何も言わなかった。
「少しお休みください。夜通し、駆けてこられたのでしょう」
「お前に言われたくないな。その顔で」
カイルは、黙って頬の傷に触れた。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
「……お前、あれを呼び捨てにしていたな」
カイルが、わずかに目を見開いた。
「昼間、俺の前で」
「……失礼いたしました」
「謝れとは言っていない」
アレクは、月を見上げたまま言った。
「お前は、あれをどう思っている」
回廊を、夜風が抜けていった。
カイルは、長いこと黙っていた。
「……分かりません」
やがて、ぽつりと言った。
「ただ、リディアの隣に誰が立とうと、私はリディアが立つ場所を守ります」
アレクは、横目でカイルを見た。
呼び捨てを、改めようともしない。
答えになっていない、と思った。けれど、それ以上は聞けなかった。この男は、昔から、嘘だけはつかない。分からないと言うなら、本当に分からないのだろう。
分からないまま、それでも守ると言い切る。
カイルが、ふと口の端を上げた。
「アレク様こそ。リディアを泣かせるようなことがあれば、私が許しませんが」
「……その口の悪さは、相変わらずだな」
「直す必要がありますか」
「ないな」
アレクは笑った。カイルも、わずかに笑った。
昔、軍の天幕で、何度も繰り返したやりとりだった。
ただ、あの頃とは、どこかが違っていた。
*
同じ頃、エルディアの王都。
報告を聞き終えた男は、手にしていた杯を、ゆっくりと卓に置いた。
「……仕損じた、だと?」




