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私が討った敵将は、死に際に「何度でも戻って、君に殺される」と笑った

掲載日:2026/10/30


剣は、思っていたよりもずっと簡単に、彼の胸を貫いた。


泥と血に濡れた戦場の真ん中で、私は敵将に馬乗りになっていた。

帝国の将軍、ジークハルト・ヴェルナー。

人々は彼を、焦土の将軍と呼んだ。いくつもの砦を焼き、王国中に恐怖をまき散らしてきた男。私はこの三年間、ただこの瞬間のためだけに剣を振るってきた。


「……終わりよ、ヴェルナー」


柄を握る手に体重をかける。肉を裂く鈍い感触が、手のひらに伝わってきた。

彼の口から、ごぼりと赤い血が溢れる。

これでいい。これで、全部終わる。


なのに。


乱れた黒髪の隙間で、さっきまで獣のように歪んでいた顔から、怒りも狂気も、潮が引くように消えていった。

残ったのは、ひどく穏やかな、見たこともない表情だった。


血に濡れた手が、ゆっくりと持ち上がる。

反射的に身構えた私の頬に、その指先がそっと触れた。

まるで、壊れものに触れるみたいに。


「……ああ」


彼は笑った。


「やっぱり、君の手で、よかった」


意味が分からなかった。

振り払うべきなのに、体が動かない。


「泣くな、セシリア」


泣いてなどいない。そう言い返そうとして、頬を伝う熱に気づいた。

どうして。どうして私は泣いているの。

どうしてこの男は、私の名前をそんな声で呼ぶの。


「大丈夫だ。……何度でも戻って、君に殺されるから」


指先が、頬から滑り落ちた。

金色の瞳から光が消えていく。最期の瞬間まで、彼は私だけを見ていた。


遠くで、王国の勝利を告げる角笛が鳴り響いていた。


私は動けなかった。

仇を討った。三年間望み続けたことを、ようやく成し遂げた。

それなのに、胸に残ったのは歓喜ではなく、ひとつの問いだけだった。


――何度でも、戻って?


  ◇


王都に戻った私を待っていたのは、花びらと歓声だった。

焦土の将軍を討った英雄。王国史上最年少の女騎士団長。陛下は私に勲章を授けた。


そのどれもが、遠かった。


夜、目を閉じるたびに、あの死に際の笑顔が浮かぶ。頬に触れた指の温度が、消えてくれない。

仇を討ったはずなのに。


戦から十日後、私は敵将の遺品の検分に立ち会った。


血と泥に汚れた外套。刃こぼれした長剣。

そして、胸当ての内側に縫い付けられていた、小さな革袋。


中から出てきたのは、手のひらに収まるほどの砂時計と、擦り切れた手帳だった。


砂時計の銀の枠には、見たこともない文字が刻まれていた。中の砂は、ひと粒も落ちていない。逆さにしても振っても、硝子の中で凍りついたように動かなかった。


手帳は、何重にも巻いた紐で固く縛られていた。その結び目に、小さな札がくくりつけてある。


『セシリア、頼む。開けずに焼いてくれ』


私は、しばらくその文字を見つめていた。

それから、自分の指で結び目を解いた。


ページはびっしりと文字で埋まっていた。けれど、それは帝国語ですらなかった。


「古代の神殿文字ですね」と、文官が首を傾げた。「今では読める者など、ほとんどおりませんよ」


  ◇


それからの日々、私は騎士の務めの合間を縫って、王立書庫に通い詰めた。

神殿文字の辞書は、どれも半分が虫に食われていた。一文字を読むのに一晩かかることもあった。


その間に、私はもうひとつのことを調べ始めた。


三年前、まだ小隊を率いていた頃のことだ。

国境の砦の見張りについていた私の隊は、帝国軍の夜襲を受けた。私は瓦礫の陰で気を失い、目覚めたときには、七人の仲間はみな帝国に連れ去られたあとだった。


ひと月後、帝国から一通の書状が届いた。

捕虜七名は処刑した。差出人の欄には、ジークハルト・ヴェルナーの署名があった。


あの日から、私はあの男を憎んできた。憎むことでしか、立っていられなかった。


それでも、あの死に際の一言が、頭を離れなかった。

私は七人の故郷を、一つずつ訪ね始めた。何を確かめたいのかも、分からないまま。


三つ目の村で、私は立ち尽くした。


畑の向こうで、鍬を振るっている男がいた。日に焼けた顔に、左頬の古い傷。

見間違えるはずがなかった。


「……ハンス?」


男が振り返った。その目が大きく見開かれ、鍬が地面に落ちる。


「隊長……? セシリア隊長、ご無事で……!」


処刑されたはずの部下が、そこにいた。


ハンスによれば、帝国の牢に入れられて半月が過ぎた夜、黒い外套の男がたったひとりで現れ、牢の鍵を開けたのだという。


「あの男は言ったんです。『国境の外れに家を用意した。路銀もある。名を変えて暮らせ。二度と軍には戻るな』って」


七人は、ひとり残らず生きていた。処刑の書状のことは、逃げたあとで噂に聞いたのだという。


「逃げる前に、隊長は無事なのかと訊いたんです」ハンスは唇を噛んだ。「あの男はそれには答えなくて。ただ一言だけ……『セシリアには、言うな』って」


ハンスは、ふと眉を寄せた。


「おかしいんですよ。俺たち、隊長の名前なんて、一度もあいつの前で口にしてないのに」


  ◇


王都の地下牢は、冬の終わりでも凍えるほど冷たかった。


「……あんたが、将軍を討った騎士か」


鉄格子の向こうで、白髪混じりの男が顔を上げた。

ギュンター。将軍が十六で初陣を踏んだときから仕えてきた副官だ。


「恨み言なら、好きなだけ聞こう。だが、将軍の悪口なら聞かんぞ」


「訊きたいことがあるの」私は格子の前に膝をついた。「あの男は、どんな将軍だった?」


ギュンターは、ふっと息を吐いた。


「焦土の将軍、か。王国じゃそう呼ばれているそうだな」


「ええ」


「その名のとおりの戦をした方だ。王国の兵も、数えきれんほど斬った」


知っている。だから私は、あの男を憎んできた。


「だがな」ギュンターは低く言った。「あんたの部隊とぶつかる戦だけは、違った」


「……違う?」


「あんたの隊がいる戦場では、将軍は必ず自分で先陣に立った。ほかの誰にも、あんたの隊を斬らせんためにな。そのくせ、自分でも斬らん。追い払うだけだ。……十六年仕えて、あの方が手を緩めるところを見たのは、あんたの隊の前でだけだ」


息が止まった。


思い返せば、私の隊は帝国軍と何度ぶつかっても、ほとんど死者を出さなかった。運がいいのだと、皆で笑い合っていた。隊長の隊は女神に愛されている、と。


格子を握る指に、力がこもる。


ギュンターは目を伏せた。


「……あんた、本当にあの方に勝ったとでも?」


言い返そうとして、言葉が詰まった。


覚えている。最後の一合。彼の剣先は、確かに私の喉元に届いていた。

そして、ほんのわずかに、引かれたのだ。

まるで、私の刃に自分の胸を差し出すみたいに。


「戦の前の晩、あの方はいつも眠らなかった」やがて、彼はぽつりと言った。「天幕の中で、小さな砂時計を握りしめてな。……一度だけ、訊いたことがある。何をそんなに見ているんですか、と」


「あの男は、何て?」


「『落ちない砂を、数えてる』と」


  ◇


手帳の最初のページを読み解けたのは、それから五日後の夜だった。


辞書と手帳を何十回も見比べて、ようやく一行目の意味が繋がった。


私はその一行を、何度も読み返した。

読み間違いであってほしかった。


『一回目。君が死んだ。俺を庇って、俺の腕の中で』


  ◇


それから、私は眠るのをやめた。


『君と出会ったのは、春の国境の川辺だった。矢傷を負って倒れていた俺に、君は傷薬を投げつけた。敵でも、死にかけている人を放っておけるわけないでしょう、と。ひどく怒った顔で』


『それから、満月の夜にだけ、川辺で会うようになった。君はいつも林檎の焼き菓子を持ってきて、半分を俺に寄越した。焦げているほうを』


『月明かりの下だと、君の亜麻色の髪は少しだけ金色に見えた。俺の目と同じ色だと言ったら、君は怒った』


『戦が終わったら、二人で逃げようと約束した。君は、海が見たいと言った。俺は一度も見たことがないと言ったら、君は笑った。じゃあ、一緒に初めて見ましょう、と』


『秋の戦場で、俺に向かってきた槍の前に、君が飛び出した。最期に、君は言った。海、見たかったな、と』


林檎の焼き菓子は、私の好物だ。

子どもの頃から、焦げたところだけは、いつも誰かに押しつけてきた。

誰にも、話したことはないのに。


知らない記憶だった。なのに、そこに書かれた私は、どうしようもなく私だった。


『神殿の奥で、砂時計を見つけた。寿命の半分を砂に注ぐと、台座の古い言葉が光った。〈借りた命の残りは、呼び戻された者の手で返せ〉』


『二回目。春の国境の川辺で、また君に会えた。君は何も覚えていなかった。それでいい』


『同じ年の秋。君は落馬して死んだ。理由のない死だった。砂がひと粒、落ちた』


『砂が落ちるとき、時は持ち主の願う日へ戻るらしい。君が死ぬたびに、俺は同じ春を願った。君に出会えた、あの春を』


ページをめくる指が、震え始めた。


『十二回目。二人で国を捨てた。三日後、追手の矢が君を貫いた』


『四十回目。君を戦場から遠ざけた。冬、流行り病で君は死んだ』


『九十八回目。君に全部話した。君は剣を捨て、俺の腕の中で冷たくなった』


『何をしても、最後は理由のない死が来る。世界が帳尻を合わせに来るように』


どのページでも、私が死んでいた。

違う季節に、違う場所で。それでも、必ず。


けれど、死の記録の隙間に、ときどき、こんな一行が挟まっていた。


『百三回目。君が焼いた菓子が、少しも焦げていなかった。焦げたほうが好きでしょう、と言って、君はわざわざ焼き直した』


『百四回目。君が、俺の肩で眠った。起こさないように、朝まで動かなかった』


読んだ瞬間、胸が軋んだ。

覚えていない。肩の温かさも、その夜の匂いも、何ひとつ。

なのに、どこかが知っている。魂の奥に消えずに残った何かが、痛いと叫んでいる。


――会いたい。


彼に、会いたい。


『百二十回目。ようやく分かった。〈残り〉とは、俺に残った半分の寿命のことだ。君の手で俺が死ねば、借りは返る。君は生きられる』


百二十回目の記録の下には、黒く塗りつぶされた一行があった。どれだけ目を凝らしても、読めなかった。


『百二十一回目。君は、俺を殺せなかった。泣きながら剣を下ろした君を、流れ矢が貫いた』


『百五十回目。もう川辺には行かない。君は、俺を知らないまま生きればいい。知らない男なら、殺せるだろう。……それでも、願うのはあの春だった』


『百八十回目。遠くから君を見た。部下たちと笑っていた。俺を知らない君は、よく笑う』


『二百六回目。ためらう君の剣に、自分から胸を預けた。君は泣いていた。……気づけば、また春の川辺にいた。あれは、君の手ではなく、俺の手だった』


『それから何十回も、君の剣に貫かれた。君がためらうかぎり、俺はただ死ぬだけだ。俺はまだ、憎まれ足りない』


三百回分の私が、そこにいた。

彼を憎みきれずに、何度も何度も死んでいった私が。


『三百十一回目。君はまた、ためらった』


『三百十二回目。君の部下を攫った。処刑したと書いて送った。遠くから見た君は、泣いていた。……今回は、ちゃんと君に憎まれている』


そして、最後のページ。


『砂は、あと一粒。これを使えば、もう後はない。だから、今回で必ず終わらせる。俺は、もう戻らない』


息が、できなかった。


私は砂時計を、燭台の灯りにかざした。

上の器に、たったひと粒だけ。落ちることなく、張りつくように残っていた。


――何度でも戻って、君に殺されるから。


大丈夫だと、あの人は言った。たとえ失敗しても、また戻ってくるから、と。


何度でも、なんて。

もう、一度しか戻れなかったくせに。

最初から、これで最後にするつもりだったくせに。


「……嘘つき」


声が、掠れた。


あの男、ではなかった。

もうとっくに、私の中で、あの人になっていた。


手帳の裏表紙に、まだ文字が残っていることに気づいたのは、そのときだった。

神殿文字ではない。王国語で、ひどく乱れた筆跡で、たった一行。


『泣くな、セシリア』


私は手帳を胸に抱いて、声を上げて泣いた。

泣くなと言われても、止められるはずがなかった。


夜が明ける頃、私は顔を上げた。

砂時計の上の器で、最後の一粒が、ちいさく光っていた。


「……今度は、私が戻る」


  ◇


砂時計を両手で包み、私は目を閉じた。


考えろ。間違えたら、もう次はない。


一回目、あの人は寿命の半分で、私を呼び戻した。

残りの半分は、私の手で返さなければならない。

返せなければ、私は死ぬ。死ぬたびに砂が落ちて、時が戻る。

だからあの人は、自分の命を、私の手に奪わせた。


でも、碑文は「あの人の命で」とは言っていない。

――あの塗りつぶされた一行が何だったのか、分かった気がした。


この砂時計は、あの人と私、二人の命で動いている。なら、私の願いも聞くはずだ。

時は、持ち主の願う日へ戻る。


使えば、と。あの人は、そう書いていた。


どこへ。

あの人の居場所も、手帳の川辺も、私は知らない。

剣の届く距離で、あの人と向き合えるのは――あの戦場だけだ。


戻るのは、あの人が私の剣に胸を差し出す、その前。


まだ、何も言えていない。

怒ることも、謝ることも、名前を呼ぶことも。


――お願い。もう一度だけ、あの人に会わせて。


硝子の中で、最後の一粒が、ゆっくりと落ちていく。


かつん、と。

小さな音がして、世界が反転した。


  ◇


鉄の匂いがした。


剣戟の音。怒号。泥を蹴る馬の蹄。

目を開けると、私は戦場に立っていた。剣を握る手が、びりびりと痺れている。


目の前に、彼がいた。


黒い外套。血に濡れた長剣。獣のように歪めた顔。

――生きている。


「どうした、王国の騎士団長」


低い、嘲るような声。

けれど、私はもう知っている。その剣先が、いつも私の喉の手前で止まることを。


「来い。俺を殺さなければ、お前の部下が死ぬぞ」


彼が剣を構え直した。

あの日と同じだ。このまま斬り結べば、彼は最後の一合で剣を引き、私の刃に胸を差し出す。そして笑って、嘘をつく。


私は、剣を下ろした。


彼の眉が、わずかに動いた。


「……何のつもりだ」


答えずに、一歩、近づく。

もう一歩。剣の届く距離まで。


それから、彼の目をまっすぐに見て、言った。


「……あなた、今何回目の私に殺されてるの?」


時が、止まったように思えた。


彼の顔から、獣の仮面が剥がれ落ちていく。

怒りも、嘲りも、狂気も。残ったのは、あの日、死に際に見せたのと同じ顔だった。

いや、違う。もっと、ずっと、怯えた顔だった。


「……なぜ」


掠れた声だった。


「手帳を読んだの。焼けって書いてあったけど」


「読むなと……」


「読むに決まってるでしょう」


彼の手から、長剣が滑り落ちた。

震える指で胸当ての内側を探り、革袋から砂時計を取り出す。


上の器は、空っぽだった。


「……最後の一粒が、ない」声が震えていた。「なぜ戻った。君は、やっと生き残れたのに」


「返しに来たのよ」


私は、砂時計を握る彼の手を、上から両手で包んだ。


――私の寿命を、半分。


指先から、熱が流れ出していった。体の芯から何かが抜けていく。冷たくて、それでいて不思議と怖くはなかった。

空っぽの硝子が、淡く光り始める。


彼の顔から、血の気が引いた。


「やめろ……!」


手首を掴まれる。骨が軋むほど強く。


「やめろ、それだけは……それだけは、させたくなかった。だから俺は」


「知ってたのね」


彼の言葉が、途切れた。


「私が自分の手で半分返せば、あなたの命じゃなくてもよかったこと。……知ってて、黙ってた」


彼は、答えなかった。

手首を掴む指から、力が抜けていく。


三百十二回。

私の時間を一日でも削るくらいなら、自分が死ぬほうを選び続けた人。

憎まれて、刺されて、それでも笑って死んでいった人。


「……ずるいわ」


視界が、滲んだ。


「三百回も、ひとりで勝手に決めて。私には、何も選ばせてくれなかった」


「……君が、生きていてくれれば、それでよかったんだ」


「私だって」


包んだ手に、最後の力を込めた。


「あなたに、生きていてほしいの」


硝子の光が、ふっと消えた。


遠くで、風を裂く音がした。


彼が弾かれたように顔を上げた。流れ矢だ。

三百回、私を殺してきたもの。帳尻を合わせに来る、世界の刃。


彼が私を抱き寄せ、自分の背で庇う。

私は目を閉じた。


――とん、と。


矢は、私たちのすぐ脇の地面に突き立っていた。

震える矢羽根が、やがて静かに止まった。


それきり、何も起こらなかった。


彼の腕の中で、私は彼の手の中の砂時計を見た。

空っぽの硝子に、細い亀裂が走っていく。ぴし、ぴし、と音を立てて広がり、やがて、さらさらと崩れて消えた。


「……終わった、のか」


頭の上から、信じられないという声が降ってくる。


私は顔を上げて、その人の名前を呼んだ。

初めて、ちゃんと。


「ジークハルト」


金色の瞳が、大きく見開かれた。

三百十二回分の時間を背負ってきた男が、まるで子どものような顔で、泣いていた。


「泣かないで」


今度は、私が言う番だった。

彼の頬に、そっと手を伸ばす。壊れものに触れるみたいに。


「……泣くな、って言うべきだったかしら」


彼は、笑った。

泣きながら、あの日と同じように。けれど、あの日とは違う笑顔で。


  ◇


あの日、戦場の真ん中で両軍の将が剣を捨てたことは、のちに長い講和の始まりとして語られることになった。


講和の席は何度も荒れた。それでも半年後、国境の小さな礼拝堂で、両国の和平の証として、ひとつの婚姻が結ばれた。


立会人の席では、ハンスが式のあいだじゅう泣いていて、ギュンターに何度も肘で小突かれていた。


  ◇


それから、五度目の春が来た。


国境の川辺に、柔らかな陽が射していた。

流れがきらきらと光り、土手には小さな白い花が一面に咲いていた。


「ここだったのね」


私は草の上に腰を下ろして、川面を眺めた。


「一回目のとき、私たちが初めて会ったのは」


隣に座ったジークハルトが、少しだけ目を細めた。


「……手帳に書いてあっただろう」


「ええ。私、傷薬を投げつけたんですってね」


「読むなと言った」


彼は、拗ねたように目を逸らした。その髪に落ちた花びらを、私は指でつまんでやった。


三十七歳になった彼の目尻には、笑うと細い皺が寄るようになった。将軍の地位を返上した今は、国境の小さな領地で馬と畑の面倒を見ている。獣のような顔は、もうどこにもない。


お返しのように、彼の指が私の髪に伸びた。

そして、こめかみのあたりで、ふと止まった。


花びらではない。亜麻色の髪に、一筋だけ混じった白いもの。

三十三歳の髪には、まだ少し早い色だった。


彼は何も言わずに、その一筋を指先でそっと撫でた。

何度も、何度も。まるで、自分のせいで失われたものを、確かめるみたいに。


「……なあ、セシリア」


「なに?」


「後悔は、していないか」


また、その話だ。この五年、彼は折に触れて同じことを訊く。


神殿の老司祭は言っていた。あの人の寿命も、私の寿命も、もう人の半分ほどしか残っていないのだと。

長くは、生きられないのかもしれない。

それでも、その半分を、この人の隣で生きられる。


「するわけないでしょう」


私は彼の肩に、頭をもたせかけた。


「あなたにまた、ひとりで先に死なれるより、ずっといいわ。……今度は、置いていかれずに済むんだもの」


白髪が増えるのも、皺が増えるのも、この人の隣でなら、少しも怖くなかった。


彼は、しばらく黙っていた。

それから、私の手をそっと握った。剣だこの残る、大きな手だった。


「今年の夏こそ、海を見に行きましょう。五年も先延ばしにしたんだもの」


「……ああ」


「林檎の焼き菓子も持っていくわ。焦げたほうは、あなたにあげる」


彼は、何か言いかけて、やめた。それから、目を伏せて小さく頷いた。


「ねえ、ジークハルト」


「ん」


「今、何回目?」


冗談めかして訊くと、彼は驚いたように私を見た。

それから、ゆっくりと、ほどけるように笑った。


「……一回目だ」


握った手に、少しだけ力がこもる。


「君と一緒に生きるのは、これが一回目だ」


川面を渡る風が、白い花を揺らした。


ずっと遠い昔、一度目の私が彼に出会ったこの場所で。

三百十二回分の別れの果てに、私たちはようやく、最初の春を迎えていた。



最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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