第59話 依頼
施療院からの帰り道、エミリアの指先には、まだ薬草の匂いが残っていた。
熱を出した子どもの額に手を当て、凍えた老人の指を両手で包んでいるうちに、日はすっかり傾いていた。この手にできるのは、冷えた体を少し温めることくらいだ。それでも、手を握るだけで泣きやむ子どもがいるのだから、通うのをやめる理由はなかった。
王宮の回廊を歩いていると、ヴィクトールの執務室の扉が、わずかに開いているのが見えた。
声をかけようとして、足が止まる。
机の前に立ったヴィクトールが、一枚の紙を握りつぶしていた。手の甲に筋が浮くほど強く、ゆっくりと。その前では、侍従が青ざめたまま頭を垂れている。
何があったのかは分からない。ただ、あんなに険しい顔をした殿下を見るのは初めてだった。
見てはいけないものを見た気がして、そっと後ずさる。その拍子に、靴の踵が石の床を鳴らした。
振り向いたヴィクトールと、目が合う。
叱られる、と身をすくめた。けれど、握りつぶされた紙は机の引き出しへ消え、ヴィクトールの表情がふっとゆるんだ。
「エミリアか」
「も、申し訳ありません。通りかかっただけで……」
「構わない。……少し、付き合わないか」
*
通されたのは、王宮の奥にある小さな温室だった。
ガラス越しの夕日が、鉢植えの葉を橙色に透かしている。白い卓には、侍女が運んできた茶と、見覚えのある焼き菓子の皿が並んでいた。
「これ……リヴェルのお菓子ですね」
「好きだと言っていただろう」
思わず、ヴィクトールを見つめてしまった。
覚えていてくれたのだ。あのお菓子を執務室へ持っていったとき、殿下は書類から目も上げずに、そこに置いておいてくれ、と言っただけだったのに。
「顔色がよくないな。施療院か」
「え……はい。今日は、熱の子が多くて」
「無理をするな」
カップを持つ手がかすかに揺れて、エミリアは両手で包みなおした。
婚約してから、もう何度もこの人の隣に立ってきた。夜会では腕に手を添え、並んで客を迎えた。それなのに、こうして向かい合い、まっすぐに見つめられたのは、初めてのような気がする。
ヴィクトールは焼き菓子をひとつ手に取り、裏の焼き印を親指でなぞった。その手のひらに、爪の痕が赤く並んでいるのが見えた。
お疲れなのだろう、と思う。殿下こそ、無理をなさらなければいいのに。
「リヴェルへ行きたい、とも言っていたな」
「覚えて、いらしたんですか」
「夜会で、アレクシス殿下とずいぶん話が弾んでいた」
からかう声ではなかった。それでも、頬が少し熱くなる。
「……行ってみるといい」
「本当ですか!」
「ただ、ひとつ頼みがある」
菓子を皿に戻して、ヴィクトールは声を落とした。
「あの地が、他国に狙われている」
ガラスの向こうで、夕日が雲に翳った。
「アルヴェニアの第二王子が、あの領地に入り浸っている。よその国から流れてきた騎士たちが集まっているとも聞く。そのうえ、領主は王家の召しを拒んだ」
「召しを……?」
「砂糖の採れる地だ。南方のほかには、この大陸のどこにもない。欲しがらない国はないだろう」
エミリアは、膝の上で指を組んだ。
夜会で笑っていた、黒髪の王子の顔が浮かぶ。聡明で、まっすぐな人です、と言っていた。彼女のためなら何をしてもいいと思わせる人だ、とも。あのときの目は、とても優しかった。
「あの……領主様は、女性の方なんですよね」
ヴィクトールの指が、カップの縁で止まった。
「……そう聞いている」
それきり、殿下は何も言わなかった。
女の身で、領地を治めている。それだけでも珍しいのに、誰もが欲しがる品を生み出し、隣国の王子にまで慕われている。
「でも、殿下。アレクシス殿下は、あんなにほめていらっしゃいました。疑うようなことは、私……」
「疑えと言っているのではない」
ヴィクトールは、首を横に振った。
「私が行けば、角が立つ。役人をやれば、調べに来たと思われる。だが、聖女の君なら、誰も身構えない」
「私、なら」
「見たままを、教えてくれればいい。何も起きていないなら、それでいいんだ。噂は噂にすぎなかったと、君の目で確かめてほしい」
それなら、領主様を守ることにもなるのだろうか。
組んだ指に、力がこもる。
「君は、嘘のつけない人だから」
静かな声だった。
「君にしか、頼めない」
胸の奥で、何かがことりと音を立てた。
聖女として、この人の隣に立つ者として、自分にできることがあるのなら。
「……分かりました」
顔を上げると、ヴィクトールがわずかに口の端を上げていた。
「お引き受けします。見たままを、きちんとお伝えします」
「助かる」
「陛下には、殿下からお話しくださるんですか?」
ほんの一瞬、間があった。
「陛下を煩わせるほどのことではない。まずは、私たちだけで」
私たち、という言葉が、耳に残った。
供の手配はこちらでする、出立は近いうちに、と短く言い置いて、ヴィクトールは席を立った。温室の扉が閉まり、足音が遠ざかっていく。
*
ひとり残された卓で、エミリアは焼き菓子をひとつ手に取った。
裏返すと、小さな焼き印が押されている。殿下が親指でなぞっていた、あの印だ。
どんな方なのだろう。
夜会のあと、令嬢たちに尋ねてみたことがある。けれど、誰もがなぜか扇で口元を隠し、すぐに別の話にすり替えてしまった。辺境の話など、退屈なのかもしれない。
聖女と呼ばれても、自分にできるのは冷えた手を温めることくらいだ。殿下の隣で笑っていることのほかに、何を求められているのかも、本当はよく分かっていない。
それなのにその人は、女の身で、何もなかった土地に街を作ったのだという。
会ってみたい、と思った。会って、どうすればそんなふうに生きられるのか、聞いてみたい。
ひと口かじると、ほろりと崩れて、木苺の甘酸っぱさが舌に広がった。
ふと、ひとりの女性の後ろ姿が浮かぶ。
あの日、大広間で何も言い返さずに指輪を外し、一礼して去っていった人。どこへ行かれたのか、誰も教えてはくれなかった。殿下の前で、あの方の名を口にする者もいない。
リディア様も、今ごろはどこかで、静かに暮らしていらっしゃるのだろうか。
こんなふうに甘いお菓子を、召し上がる日もあるのだろうか。
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