塾帰り、ニタァと笑う祠の妖に取り憑かれた。不気味で仕方なかったその笑顔が、いつの間にか世界でいちばん可愛く見えている
塾の自動ドアを出ると、十月の夜はもう冬の匂いがした。
俺――瀬戸陽太は、自転車のスタンドを蹴り上げる。午後九時四十分。英語の小テストは散々だったし、腹は減ったし、明日も一限から数学だ。高二の秋なんて、だいたいこんなもんだ。
いつもの帰り道。駅前の商店街を抜けて、川沿いの坂を下り、三つ目の角を曲がる。
そこに、コンビニがある。
三年前にできたそれは、夜の住宅街を真っ白な光で塗りつぶしていて、その光のせいで、隣の古いタバコ屋だけが妙に暗く沈んで見えた。色褪せた「たばこ」の看板。錆びたシャッター。誰が買いに来るのか、俺は一度も見たことがない。
そして、そのタバコ屋の横に、祠がある。
膝くらいの高さの、木でできた小さな祠。屋根には苔が生えていて、観音開きの扉は閉じたまま。何が祀られているのかは知らない。
知らないのに、なぜか俺は、ここを通るたびにそれを見てしまう。
癖みたいなものだ。目の端にちらっと入れて、通り過ぎる。それだけ。
今夜も、そうするつもりだった。
――ブツブツ。
ペダルを踏む足が止まった。
キッ、とブレーキが鳴る。
……今、何か聞こえなかったか?
振り返る。コンビニの自動ドアが開いて、閉じる音。遠くの車の音。それ以外は何も――
ブツブツ。ブツブツ。
聞こえる。祠からだ。あの小さな扉の内側から、誰かが何かを呟いている。
逃げればいい。分かってる。分かってるのに、俺の体はなぜか祠のほうへ傾いていた。耳を澄ます。
「……けた、……れる」
「……も……れる」
「……つけた」
みつけた。
そう聞こえた、と思った瞬間。
ぱかん、と扉が開いた。
「わぁっ」
目の前に、女の顔があった。
白い着物。地面まで届きそうな黒髪。紙みたいに真っ白な肌。そして――口の端が耳まで裂けそうなほど吊り上がった、ニタァァ、という笑み。
心臓が、早鐘みたいに鳴った。
やばい。やばいやばいやばい。逃げなきゃ。
そう思った。思ったけど、遅かった。
「みつけた。……みつけたぞ。これで、帰れる」
冷たい指が、俺の額に触れた。
その夜、俺は、取り憑かれた。
◇
「おぬしの生気、いただくぞ」
翌朝。目を覚ますと、枕元で女がニタァと笑っていた。
「ぎゃあああああああ!!」
「朝から元気じゃのう。よいよい、生気が満ちておる証拠じゃ」
夢じゃなかった。
女は自分を「わたし」と呼び、俺を「おぬし」と呼んだ。他の人間には見えないらしい。母さんは俺の悲鳴に「ゴキブリ?」と顔を出しただけで、女のほうは一瞥もしなかった。
話をまとめるとこうだ。
女は妖で、あの祠に仕えていた。けれどある日、主様に置いていかれた。
「わたしが弱いからじゃ。役に立たぬから、主様はわたしを置いてゆかれた。だから、力を蓄えねばならぬ。おぬしの生気をたっぷり吸うて、強うなって、主様のもとへ帰るのじゃ」
「他を当たってくれ」
「嫌じゃ。おぬしがよい」
「なんで俺なんだよ!」
「みつけたからじゃ」
ニタァ。
……よく見れば、顔の造りは整っている、と思う。目は切れ長だし、鼻筋も通ってる。なのに、その笑い方が全部を台無しにしていた。口だけが不自然に吊り上がって、目がまったく笑っていない。ホラー映画のポスターでしか見たことのない顔だ。
可愛い? いや無理。普通にキモい。
そしてこいつは、どこにでもついてきた。
通学路。チャリの荷台に正座している。
授業中。教卓の横に立って、ニタァとこっちを見ている。数学の先生の背後で笑う白い女。集中できるわけがない。
「瀬戸、顔色悪いぞ」
「……すみません、ちょっと、霊障で」
「は?」
昼休み。弁当の卵焼きをじっと見つめてくる。
「それは何じゃ」
「卵焼き」
「……甘い匂いがする」
「食えねえだろ、お前」
「食えぬ。が、この匂いは好きじゃ。……なぜか、懐かしい」
なんだそれ。
そして極めつけは、風呂だった。
「出てけ!!」
「なぜじゃ。生気は湯に浸かっておるときがいちばん旨いのに」
「知らねえよ! 健全な男子高校生の風呂に入ってくんな! 頼むから! マジで!」
十七年の人生で、こんなに必死に何かを頼んだことはない。
結局、女は脱衣所の戸の向こうで「つまらぬのう」とぼやきながら待つことになった。磨りガラスに、白い影が膝を抱えて座っているのが見える。
ホラーかよ。
被害は俺だけじゃ済まなかった。
「なあ陽太。お前、最近ひとりで喋ってね?」
放課後の教室で、幼なじみの健吾に真顔で言われた。
「……気のせいだろ」
「いや、さっきも窓のほう向いて『触んな』って言ってた。窓に」
窓際では、女がカーテンの房を指でつついて遊んでいた。お前のせいだぞ。
「疲れてんだよ、塾で」
「そっか……。何かあったら言えよ? 俺、お前の味方だからな?」
やめろ。優しくすんな。余計にしんどい。
女は俺の後ろで、健吾の顔をしげしげと覗き込んでから言った。
「この男の生気は、なんだか油っぽいのう」
「失礼すぎんだろ」
「え? 俺?」
「なんでもない!」
健吾は「やっぱ疲れてんだよ」と俺の肩を叩いて、そっと帰っていった。
終わった。俺の高校生活の何かが、確実に終わった。
毎晩、寝る前になると、女は俺の額に指を当てて「いただくぞ」と言う。ひやりとして、少しだけ体がだるくなる。
マジで無理ゲーだ。
頼むから、早く満足して去ってくれ。
そう、本気で思っていた。
◇
取り憑かれて二週間が過ぎた頃。
夜中にふと目が覚めると、部屋に女がいなかった。
……いない?
いつもなら、ベッドの横でニタァと笑っているくせに。
窓の外を見る。月が出ていた。なぜか胸がざわついて、俺はパーカーを羽織り、こっそり家を出た。
行き先なんて、一つしか思いつかなかった。
コンビニの白い光。その隣で沈むタバコ屋。そして、祠の前に――
小さな背中が、しゃがみこんでいた。
白い着物の裾を地面につけて、閉じた扉をじっと見つめている。
声をかけようとして、やめた。
女が、何か呟いていたから。
「……主様。わたし、まだ弱いですか」
いつもの古くさい口調じゃなかった。
「もう少しです。あの子の生気、とても温かいのです。もう少しで、強うなれます。そうしたら、迎えに来てくださいますか」
返事はない。祠は、ただの木の箱みたいに黙っている。
「……主様」
その声は、迷子の子どもが母親を呼ぶ声に、よく似ていた。
俺はコンビニの駐車場の車止めに座って、しばらくその背中を見ていた。
「……おぬし、いつからおった」
帰り道。荷台の女は、珍しくニタァと笑わなかった。
「ちょっと前から」
「盗み見とは趣味が悪い」
「勝手に部屋抜け出したのお前だろ」
チャリを漕ぐ。夜風が冷たい。
「なあ。主様って、どんな奴だったんだ」
しばらく、返事がなかった。
「……よう笑う御方じゃった」
ぽつり、と女が言った。
「あの辻を通る者を、毎日見守っておられた。転んだ子どもを。泣いておる娘を。疲れた顔の男を。いつも笑うておられた。わたしは、主様の笑うお顔が好きじゃった」
「ふうん」
「主様はわたしに、おまえも笑えと仰った。笑えば人は安心する、と。……じゃが、わたしにはよう分からなんだ。笑うとは、どうやるのか」
ペダルが、少し重くなった気がした。
「だから、主様のお顔を思い出して、真似ておる」
「……え」
「こう、じゃろう?」
振り返ると、女がニタァと笑っていた。
口の端だけを無理やり持ち上げた、目のまったく笑っていない、あの顔。
ずっとキモいと思っていた、あの顔。
――あれ、真似だったのか。
大好きな人の笑顔を、一生懸命、思い出しながら。
「……下手くそ」
「なんじゃと!」
「下手くそだよ。全然、笑えてねえよ」
女はむっとして、ぷいと前を向いた。
俺はなぜか鼻の奥がつんとして、前だけ見て漕いだ。
◇
それから一週間後、模試の結果が返ってきた。
志望校の判定は、E。
塾の帰り、雨が降っていた。傘を差す気にもなれなくて、俺はびしょ濡れのままチャリを押して歩いた。
コンビニの白い光が、水たまりに滲んでいる。
祠の前で、なんとなく足が止まった。
「……おぬし、また疲れた顔をしておる」
荷台の女が、雨に濡れもせずに言った。
「またってなんだよ」
「おぬしは、いつもそういう顔でこの道を通っておった。去年の春からずっと。夜遅うに、肩を落として、くたびれた顔で」
俺は女を見た。
なんで、そんなこと知ってんだ。
「それでも、おぬしは毎晩、必ずこちらを見た。どれほど疲れておっても。……わたしはな、扉の内から、それを見ておった」
雨の音だけが、しばらく続いた。
「……元気づけてやろう」
女はそう言って、俺の前に回り込むと、両手で自分の口の端をぐいっと持ち上げた。
ニタァァァ。
いつもの三倍キモかった。
「……っ、ふ」
こらえきれなくて、俺は吹き出した。
「はは、なんだよそれ、怖えよ、マジで」
「む。笑うたな。なら効いたのじゃ」
女は満足そうに頷いた。その顔が、なぜかちょっとだけ得意げで。
気づいたら、E判定のことはどうでもよくなっていた。
その夜、女はいつもみたいに俺の額に指を当てなかった。
ただ黙って、ベッドの脇に座っていた。
◇
次の土曜日。俺は初めて、あのタバコ屋の前で自転車を止めた。
錆びたシャッターは半分だけ開いていて、奥の小さなガラスケースの向こうに、白髪のばあちゃんが座っていた。
女は、ついてこなかった。今日は家で待ってろと言ったら、珍しく素直に頷いた。
「あの、すみません。隣の祠って、何が祀られてるんですか」
ばあちゃんは、老眼鏡の奥で目を丸くした。
「あんた、あの祠が気になるのかい」
「……まあ、通るたびに見ちゃうんで」
「そうかい。そうかい」
ばあちゃんは、なぜか嬉しそうに何度も頷いた。
「あれはね、辻の神さんだよ。この四つ辻を通る人を見守ってくださる、ちっちゃな神さん。昔はみんな、通るたびに手を合わせたもんさ。お祭りもあってねえ。お神酒と、甘い卵焼きをお供えするんだ」
卵焼き。
昼休みの、あの横顔を思い出した。
「でもね、時代かねえ。手を合わせる人がどんどん減って。三年前に、隣にコンビニができたろう。あの明るさで、祠がすっかり見えなくなっちまった。誰も、気づかなくなった」
ばあちゃんは、ガラスケースの上で皺だらけの手を組んだ。
「神さんってのはね、拝む人がいなくなると、いなくなっちまうんだよ」
喉が、ひゅっと鳴った。
「三年前の冬の夜にね、見たんだ。祠から、小さい光がふうっと昇っていくのを。ああ、行っちまったんだなあって。あたしゃ膝を悪くして、もうしゃがんで手を合わせることもできなくてねえ。申し訳なくってさ」
「……じゃあ、今は」
「もう、おられんよ。空っぽさ」
空っぽ。
ばあちゃんは、それからふっと俺の顔を見上げた。
「でもね。あんた、毎晩あそこを見ていくだろう。自転車で、ちらっとさ」
「……知ってたんですか」
「この店はね、客なんか来やしないから、外ばっかり見てるのさ」
ばあちゃんは、くしゃりと笑った。
「嬉しかったんだよ。まだ見てくれる子がいるんだって。神さんがいたら、きっと喜んだろうねえ」
礼を言って店を出た。
チャリのハンドルを握る手が、冷たかった。
主様は、あいつを捨てたんじゃない。
消えたんだ。誰にも見てもらえなくなって。
あいつは、もう二度と来ない迎えを、三年間、あの暗い箱の中でずっと待っていたんだ。
家に帰ると、女は部屋の隅で正座していた。
「おかえり。……どうした、おぬし、顔が」
言えるわけがない、と思った。
でも、言わなきゃいけない、とも思った。
あいつは毎晩、俺の生気を吸っている。いつか帰れる日のために。その日は、永遠に来ないのに。
「……あのさ」
全部、話した。
ばあちゃんのこと。卵焼きのこと。三年前の光のこと。
女は黙って聞いていた。
最後まで聞いて、小さく首を傾げた。
「……嘘じゃ」
「嘘じゃねえよ」
「嘘じゃ。主様は、わたしが弱いから」
「違う」
「わたしが、役に立たぬから、置いて」
「違うって言ってんだろ!」
女の肩が、びくりと跳ねた。
「お前のせいじゃない。誰も、主様を見なくなったからだ。お前は捨てられたんじゃない。……主様は、もう、どこにもいないんだよ」
女は、何も言わなかった。
ただ、自分の手のひらを、じっと見た。
その指先が――少しだけ、透けていた。
◇
「……ああ。そうか」
女は透けた指先を見つめたまま、静かに言った。
「わたしは、主様にお仕えするための妖じゃ。主様がおられぬのなら、わたしがここにおる理由も、ない」
「おい」
「それにな。生気も、本当はほとんど吸えておらなんだ。おぬしがだるかったのは、塾の疲れじゃろう」
「……は?」
「吸うふりをしておった。強うなれぬのは、とうに分かっておった。じゃが、おぬしの隣は、温かかったゆえ」
輪郭が、ゆっくりと薄くなっていく。部屋の電気が、女の体を透かして壁を照らしている。
「待てよ。勝手に消えんなよ」
「おぬし、ずっと、去ってくれと言うておったではないか」
「それは」
言葉が詰まった。
言ってた。毎日言ってた。マジで無理ゲー。頼むから去ってくれ。
なのに今、俺は、何を言おうとしてるんだ。
「……思い出したことが、ある」
女が、ぽつりと言った。
「主様が光になって昇ってゆかれた夜。最後に、わたしに仰ったのじゃ。わたしは弱うて、ずっと眠っておったから、今の今まで忘れておった」
半分透けた顔で、女は俺を見た。
「――『わたしを見てくれる者を、みつけなさい。その者のそばに、おりなさい』」
心臓が、どくんと鳴った。
「強うなって帰ってこい、という意味じゃと思うておった。違うたのじゃな。主様は、帰ってこいなどと、一度も仰っておらなんだ」
一年半。
誰もが通り過ぎる祠を。
コンビニの光に埋もれた、あの小さな箱を。
毎晩、目の端に入れて通り過ぎていた奴が、一人だけいた。
――みつけた。
あの夜の声は、そういう意味だったのか。
「おぬしだけじゃった。誰もわたしの祠を見なくなってから、おぬしだけが、毎晩見てくれた。だから、わたしはかろうじて消えずにおれた。……ありがとう」
女が、笑おうとした。
またあの、ニタァという顔で。口の端を持ち上げて、目は泣きそうなまま。
下手くそな、笑顔で。
「主様がおられぬのに、のこのこ居座って、すまなんだ。もう去るゆえ。おぬしは、よう眠れ」
「――ふざけんな!」
気づいたら、叫んでいた。
透けていく手を掴もうとして、指がすり抜ける。それでも、手を伸ばした。
「吸えよ! 生気でもなんでも! 好きなだけ吸っていいから!」
女の手を額に押し当てようとする。触れない。冷たさすら、もう感じない。
「無駄じゃ、陽太。……おぬしの生気では、わたしは繋ぎ止められぬ。妖を繋ぎ止めるのは、仕える主だけなのじゃ」
薄れていく。白い着物の裾が、もう床の模様を透かしている。
嫌だ。
なんでだよ。あんなに去ってくれって言ったのに。毎日うんざりしてたのに。
授業中の視線も。弁当を覗き込む横顔も。磨りガラスの向こうの、膝を抱えた白い影も。雨の夜の、三倍キモい笑顔も。
全部、なくなるのが、嫌だった。
「見てくれる奴のそばにいろって、主様が言ったんだろ! だったら、ここにいろよ! 俺が見てる! これからもずっと、見ててやるから!」
「じゃが、わたしには、仕える主が」
「俺がなる!」
女が、目を見開いた。
「俺が、お前の主になってやる。神さまじゃねえし、なんの力もねえけど。毎日見てやる。卵焼きだって毎日供えてやる。だから――消えんな」
鼻水が垂れた。かっこ悪い。でも、どうでもよかった。
「……主が、妖に名をつける。それが、契りじゃ」
女の声が、震えていた。
「わたしには、名がない。主様は、ついぞ、つけてくださらなんだ」
名前。
考える時間なんてなかった。でも、迷わなかった。
浮かんだのは、たった一つだけだった。
大好きな人の笑顔を、三年間、ひとりぼっちで真似し続けた、こいつに。
「――笑」
部屋の空気が、ふわりと揺れた。
「お前の名前は、笑だ。……いつか、ちゃんと笑えるように」
◇
光が、満ちた。
透けていた指先に、色が戻っていく。輪郭が、くっきりと夜の中に描き直されていく。
そして目の前の女は――笑は、ぽろぽろと泣いていた。
妖も泣くんだな、と、どうでもいいことを思った。
「……陽太」
初めて、名前を呼ばれた。
「陽太。わたしの、主様」
そして、笑は笑った。
口の端だけじゃなくて。目尻を下げて、頬をくしゃっと持ち上げて、涙でぐちゃぐちゃの顔のまま。
真似じゃない。誰かの形を借りたんじゃない。
こいつだけの、笑顔だった。
――ああ、くそ。
あの夜の俺に言ってやりたい。
普通にキモいとか言ってたお前、目ぇ腐ってんのか。
「……クソ、可愛いじゃねえか」
「なんじゃ?」
「なんでもねえよ!」
翌朝。
チャリの荷台に正座した笑は、通学路の景色を、まるで初めて見るみたいにきょろきょろと見回していた。
「陽太。あの花はなんじゃ」
「キンモクセイ」
「あの鳥は」
「カラス」
「あの男は」
「健吾。……おい、指差すな」
校門の前で、健吾が手を振っていた。
「おー陽太。なんか今日、顔明るくね?」
「……そうか?」
「そうだよ。なんかいいことあった?」
荷台の上で、笑がふにゃりと笑う気配がした。
「まあな」
健吾は「なんだよ教えろよ」と笑って、俺の肩を叩いた。
もう生気は吸われていないはずなのに、今朝はなぜか、体がやけに軽かった。
その日の夜。塾の帰り道。
コンビニの白い光の隣、小さな祠の前で、俺はチャリを止めた。
母さんに「なんで二個も?」と怪訝な顔をされながら作ってもらった卵焼きを供えて、手を合わせる。荷台を降りた笑が、真似して小さな手を合わせた。
タバコ屋のシャッターの隙間から、ばあちゃんがこっちを見て、目を細めていた。
「なあ、陽太」
「ん」
「主様は、今のわたしを見て、なんと仰るかのう」
少し考えて、答えた。
「よく笑えるようになったなって、言うんじゃねえの」
笑は一瞬きょとんとして。
それから、照れくさそうに、ふにゃりと笑った。
その顔はやっぱり、まだちょっとだけ下手くそで。
世界でいちばん、可愛かった。
夜風の中、祠の屋根の上で、小さな鈴がちりんと鳴った気がした。
(了)
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
笑の本当の笑顔、陽太と一緒に見届けていただけていたら嬉しいです。
反応次第では、二人のその後も書いてみたいと思っています。
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