↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

塾帰り、ニタァと笑う祠の妖に取り憑かれた。不気味で仕方なかったその笑顔が、いつの間にか世界でいちばん可愛く見えている

掲載日:2026/11/01

塾の自動ドアを出ると、十月の夜はもう冬の匂いがした。

俺――瀬戸陽太(せとようた)は、自転車のスタンドを蹴り上げる。午後九時四十分。英語の小テストは散々だったし、腹は減ったし、明日も一限から数学だ。高二の秋なんて、だいたいこんなもんだ。


いつもの帰り道。駅前の商店街を抜けて、川沿いの坂を下り、三つ目の角を曲がる。

そこに、コンビニがある。

三年前にできたそれは、夜の住宅街を真っ白な光で塗りつぶしていて、その光のせいで、隣の古いタバコ屋だけが妙に暗く沈んで見えた。色褪せた「たばこ」の看板。錆びたシャッター。誰が買いに来るのか、俺は一度も見たことがない。

そして、そのタバコ屋の横に、祠がある。

膝くらいの高さの、木でできた小さな祠。屋根には苔が生えていて、観音開きの扉は閉じたまま。何が祀られているのかは知らない。

知らないのに、なぜか俺は、ここを通るたびにそれを見てしまう。

癖みたいなものだ。目の端にちらっと入れて、通り過ぎる。それだけ。

今夜も、そうするつもりだった。


――ブツブツ。


ペダルを踏む足が止まった。

キッ、とブレーキが鳴る。

……今、何か聞こえなかったか?

振り返る。コンビニの自動ドアが開いて、閉じる音。遠くの車の音。それ以外は何も――


ブツブツ。ブツブツ。


聞こえる。祠からだ。あの小さな扉の内側から、誰かが何かを呟いている。

逃げればいい。分かってる。分かってるのに、俺の体はなぜか祠のほうへ傾いていた。耳を澄ます。


「……けた、……れる」

「……も……れる」

「……つけた」


みつけた。

そう聞こえた、と思った瞬間。

ぱかん、と扉が開いた。


「わぁっ」


目の前に、女の顔があった。

白い着物。地面まで届きそうな黒髪。紙みたいに真っ白な肌。そして――口の端が耳まで裂けそうなほど吊り上がった、ニタァァ、という笑み。

心臓が、早鐘みたいに鳴った。

やばい。やばいやばいやばい。逃げなきゃ。

そう思った。思ったけど、遅かった。


「みつけた。……みつけたぞ。これで、帰れる」


冷たい指が、俺の額に触れた。

その夜、俺は、取り憑かれた。


◇


「おぬしの生気、いただくぞ」

翌朝。目を覚ますと、枕元で女がニタァと笑っていた。

「ぎゃあああああああ!!」

「朝から元気じゃのう。よいよい、生気が満ちておる証拠じゃ」

夢じゃなかった。

女は自分を「わたし」と呼び、俺を「おぬし」と呼んだ。他の人間には見えないらしい。母さんは俺の悲鳴に「ゴキブリ?」と顔を出しただけで、女のほうは一瞥もしなかった。

話をまとめるとこうだ。

女は妖で、あの祠に仕えていた。けれどある日、主様に置いていかれた。

「わたしが弱いからじゃ。役に立たぬから、主様はわたしを置いてゆかれた。だから、力を蓄えねばならぬ。おぬしの生気をたっぷり吸うて、強うなって、主様のもとへ帰るのじゃ」

「他を当たってくれ」

「嫌じゃ。おぬしがよい」

「なんで俺なんだよ!」

「みつけたからじゃ」

ニタァ。

……よく見れば、顔の造りは整っている、と思う。目は切れ長だし、鼻筋も通ってる。なのに、その笑い方が全部を台無しにしていた。口だけが不自然に吊り上がって、目がまったく笑っていない。ホラー映画のポスターでしか見たことのない顔だ。

可愛い? いや無理。普通にキモい。


そしてこいつは、どこにでもついてきた。

通学路。チャリの荷台に正座している。

授業中。教卓の横に立って、ニタァとこっちを見ている。数学の先生の背後で笑う白い女。集中できるわけがない。

「瀬戸、顔色悪いぞ」

「……すみません、ちょっと、霊障で」

「は?」

昼休み。弁当の卵焼きをじっと見つめてくる。

「それは何じゃ」

「卵焼き」

「……甘い匂いがする」

「食えねえだろ、お前」

「食えぬ。が、この匂いは好きじゃ。……なぜか、懐かしい」

なんだそれ。

そして極めつけは、風呂だった。

「出てけ!!」

「なぜじゃ。生気は湯に浸かっておるときがいちばん旨いのに」

「知らねえよ! 健全な男子高校生の風呂に入ってくんな! 頼むから! マジで!」

十七年の人生で、こんなに必死に何かを頼んだことはない。

結局、女は脱衣所の戸の向こうで「つまらぬのう」とぼやきながら待つことになった。磨りガラスに、白い影が膝を抱えて座っているのが見える。

ホラーかよ。


被害は俺だけじゃ済まなかった。

「なあ陽太。お前、最近ひとりで喋ってね?」

放課後の教室で、幼なじみの健吾(けんご)に真顔で言われた。

「……気のせいだろ」

「いや、さっきも窓のほう向いて『触んな』って言ってた。窓に」

窓際では、女がカーテンの房を指でつついて遊んでいた。お前のせいだぞ。

「疲れてんだよ、塾で」

「そっか……。何かあったら言えよ? 俺、お前の味方だからな?」

やめろ。優しくすんな。余計にしんどい。

女は俺の後ろで、健吾の顔をしげしげと覗き込んでから言った。

「この男の生気は、なんだか油っぽいのう」

「失礼すぎんだろ」

「え? 俺?」

「なんでもない!」

健吾は「やっぱ疲れてんだよ」と俺の肩を叩いて、そっと帰っていった。

終わった。俺の高校生活の何かが、確実に終わった。


毎晩、寝る前になると、女は俺の額に指を当てて「いただくぞ」と言う。ひやりとして、少しだけ体がだるくなる。

マジで無理ゲーだ。

頼むから、早く満足して去ってくれ。

そう、本気で思っていた。


◇


取り憑かれて二週間が過ぎた頃。

夜中にふと目が覚めると、部屋に女がいなかった。

……いない?

いつもなら、ベッドの横でニタァと笑っているくせに。

窓の外を見る。月が出ていた。なぜか胸がざわついて、俺はパーカーを羽織り、こっそり家を出た。

行き先なんて、一つしか思いつかなかった。

コンビニの白い光。その隣で沈むタバコ屋。そして、祠の前に――

小さな背中が、しゃがみこんでいた。

白い着物の裾を地面につけて、閉じた扉をじっと見つめている。

声をかけようとして、やめた。

女が、何か呟いていたから。

「……主様。わたし、まだ弱いですか」

いつもの古くさい口調じゃなかった。

「もう少しです。あの子の生気、とても温かいのです。もう少しで、強うなれます。そうしたら、迎えに来てくださいますか」

返事はない。祠は、ただの木の箱みたいに黙っている。

「……主様」

その声は、迷子の子どもが母親を呼ぶ声に、よく似ていた。

俺はコンビニの駐車場の車止めに座って、しばらくその背中を見ていた。


「……おぬし、いつからおった」

帰り道。荷台の女は、珍しくニタァと笑わなかった。

「ちょっと前から」

「盗み見とは趣味が悪い」

「勝手に部屋抜け出したのお前だろ」

チャリを漕ぐ。夜風が冷たい。

「なあ。主様って、どんな奴だったんだ」

しばらく、返事がなかった。

「……よう笑う御方じゃった」

ぽつり、と女が言った。

「あの辻を通る者を、毎日見守っておられた。転んだ子どもを。泣いておる娘を。疲れた顔の男を。いつも笑うておられた。わたしは、主様の笑うお顔が好きじゃった」

「ふうん」

「主様はわたしに、おまえも笑えと仰った。笑えば人は安心する、と。……じゃが、わたしにはよう分からなんだ。笑うとは、どうやるのか」

ペダルが、少し重くなった気がした。

「だから、主様のお顔を思い出して、真似ておる」

「……え」

「こう、じゃろう?」

振り返ると、女がニタァと笑っていた。

口の端だけを無理やり持ち上げた、目のまったく笑っていない、あの顔。

ずっとキモいと思っていた、あの顔。

――あれ、真似だったのか。

大好きな人の笑顔を、一生懸命、思い出しながら。

「……下手くそ」

「なんじゃと!」

「下手くそだよ。全然、笑えてねえよ」

女はむっとして、ぷいと前を向いた。

俺はなぜか鼻の奥がつんとして、前だけ見て漕いだ。


◇


それから一週間後、模試の結果が返ってきた。

志望校の判定は、E。

塾の帰り、雨が降っていた。傘を差す気にもなれなくて、俺はびしょ濡れのままチャリを押して歩いた。

コンビニの白い光が、水たまりに滲んでいる。

祠の前で、なんとなく足が止まった。

「……おぬし、また疲れた顔をしておる」

荷台の女が、雨に濡れもせずに言った。

「またってなんだよ」

「おぬしは、いつもそういう顔でこの道を通っておった。去年の春からずっと。夜遅うに、肩を落として、くたびれた顔で」

俺は女を見た。

なんで、そんなこと知ってんだ。

「それでも、おぬしは毎晩、必ずこちらを見た。どれほど疲れておっても。……わたしはな、扉の内から、それを見ておった」

雨の音だけが、しばらく続いた。

「……元気づけてやろう」

女はそう言って、俺の前に回り込むと、両手で自分の口の端をぐいっと持ち上げた。

ニタァァァ。

いつもの三倍キモかった。

「……っ、ふ」

こらえきれなくて、俺は吹き出した。

「はは、なんだよそれ、怖えよ、マジで」

「む。笑うたな。なら効いたのじゃ」

女は満足そうに頷いた。その顔が、なぜかちょっとだけ得意げで。

気づいたら、E判定のことはどうでもよくなっていた。

その夜、女はいつもみたいに俺の額に指を当てなかった。

ただ黙って、ベッドの脇に座っていた。


◇


次の土曜日。俺は初めて、あのタバコ屋の前で自転車を止めた。

錆びたシャッターは半分だけ開いていて、奥の小さなガラスケースの向こうに、白髪のばあちゃんが座っていた。

女は、ついてこなかった。今日は家で待ってろと言ったら、珍しく素直に頷いた。

「あの、すみません。隣の祠って、何が祀られてるんですか」

ばあちゃんは、老眼鏡の奥で目を丸くした。

「あんた、あの祠が気になるのかい」

「……まあ、通るたびに見ちゃうんで」

「そうかい。そうかい」

ばあちゃんは、なぜか嬉しそうに何度も頷いた。

「あれはね、辻の神さんだよ。この四つ辻を通る人を見守ってくださる、ちっちゃな神さん。昔はみんな、通るたびに手を合わせたもんさ。お祭りもあってねえ。お神酒と、甘い卵焼きをお供えするんだ」

卵焼き。

昼休みの、あの横顔を思い出した。

「でもね、時代かねえ。手を合わせる人がどんどん減って。三年前に、隣にコンビニができたろう。あの明るさで、祠がすっかり見えなくなっちまった。誰も、気づかなくなった」

ばあちゃんは、ガラスケースの上で皺だらけの手を組んだ。

「神さんってのはね、拝む人がいなくなると、いなくなっちまうんだよ」

喉が、ひゅっと鳴った。

「三年前の冬の夜にね、見たんだ。祠から、小さい光がふうっと昇っていくのを。ああ、行っちまったんだなあって。あたしゃ膝を悪くして、もうしゃがんで手を合わせることもできなくてねえ。申し訳なくってさ」

「……じゃあ、今は」

「もう、おられんよ。空っぽさ」

空っぽ。

ばあちゃんは、それからふっと俺の顔を見上げた。

「でもね。あんた、毎晩あそこを見ていくだろう。自転車で、ちらっとさ」

「……知ってたんですか」

「この店はね、客なんか来やしないから、外ばっかり見てるのさ」

ばあちゃんは、くしゃりと笑った。

「嬉しかったんだよ。まだ見てくれる子がいるんだって。神さんがいたら、きっと喜んだろうねえ」

礼を言って店を出た。

チャリのハンドルを握る手が、冷たかった。

主様は、あいつを捨てたんじゃない。

消えたんだ。誰にも見てもらえなくなって。

あいつは、もう二度と来ない迎えを、三年間、あの暗い箱の中でずっと待っていたんだ。


家に帰ると、女は部屋の隅で正座していた。

「おかえり。……どうした、おぬし、顔が」

言えるわけがない、と思った。

でも、言わなきゃいけない、とも思った。

あいつは毎晩、俺の生気を吸っている。いつか帰れる日のために。その日は、永遠に来ないのに。

「……あのさ」

全部、話した。

ばあちゃんのこと。卵焼きのこと。三年前の光のこと。

女は黙って聞いていた。

最後まで聞いて、小さく首を傾げた。

「……嘘じゃ」

「嘘じゃねえよ」

「嘘じゃ。主様は、わたしが弱いから」

「違う」

「わたしが、役に立たぬから、置いて」

「違うって言ってんだろ!」

女の肩が、びくりと跳ねた。

「お前のせいじゃない。誰も、主様を見なくなったからだ。お前は捨てられたんじゃない。……主様は、もう、どこにもいないんだよ」

女は、何も言わなかった。

ただ、自分の手のひらを、じっと見た。

その指先が――少しだけ、透けていた。


◇


「……ああ。そうか」

女は透けた指先を見つめたまま、静かに言った。

「わたしは、主様にお仕えするための妖じゃ。主様がおられぬのなら、わたしがここにおる理由も、ない」

「おい」

「それにな。生気も、本当はほとんど吸えておらなんだ。おぬしがだるかったのは、塾の疲れじゃろう」

「……は?」

「吸うふりをしておった。強うなれぬのは、とうに分かっておった。じゃが、おぬしの隣は、温かかったゆえ」

輪郭が、ゆっくりと薄くなっていく。部屋の電気が、女の体を透かして壁を照らしている。

「待てよ。勝手に消えんなよ」

「おぬし、ずっと、去ってくれと言うておったではないか」

「それは」

言葉が詰まった。

言ってた。毎日言ってた。マジで無理ゲー。頼むから去ってくれ。

なのに今、俺は、何を言おうとしてるんだ。

「……思い出したことが、ある」

女が、ぽつりと言った。

「主様が光になって昇ってゆかれた夜。最後に、わたしに仰ったのじゃ。わたしは弱うて、ずっと眠っておったから、今の今まで忘れておった」

半分透けた顔で、女は俺を見た。

「――『わたしを見てくれる者を、みつけなさい。その者のそばに、おりなさい』」

心臓が、どくんと鳴った。

「強うなって帰ってこい、という意味じゃと思うておった。違うたのじゃな。主様は、帰ってこいなどと、一度も仰っておらなんだ」

一年半。

誰もが通り過ぎる祠を。

コンビニの光に埋もれた、あの小さな箱を。

毎晩、目の端に入れて通り過ぎていた奴が、一人だけいた。

――みつけた。

あの夜の声は、そういう意味だったのか。

「おぬしだけじゃった。誰もわたしの祠を見なくなってから、おぬしだけが、毎晩見てくれた。だから、わたしはかろうじて消えずにおれた。……ありがとう」

女が、笑おうとした。

またあの、ニタァという顔で。口の端を持ち上げて、目は泣きそうなまま。

下手くそな、笑顔で。

「主様がおられぬのに、のこのこ居座って、すまなんだ。もう去るゆえ。おぬしは、よう眠れ」

「――ふざけんな!」

気づいたら、叫んでいた。

透けていく手を掴もうとして、指がすり抜ける。それでも、手を伸ばした。

「吸えよ! 生気でもなんでも! 好きなだけ吸っていいから!」

女の手を額に押し当てようとする。触れない。冷たさすら、もう感じない。

「無駄じゃ、陽太。……おぬしの生気では、わたしは繋ぎ止められぬ。妖を繋ぎ止めるのは、仕える主だけなのじゃ」

薄れていく。白い着物の裾が、もう床の模様を透かしている。

嫌だ。

なんでだよ。あんなに去ってくれって言ったのに。毎日うんざりしてたのに。

授業中の視線も。弁当を覗き込む横顔も。磨りガラスの向こうの、膝を抱えた白い影も。雨の夜の、三倍キモい笑顔も。

全部、なくなるのが、嫌だった。

「見てくれる奴のそばにいろって、主様が言ったんだろ! だったら、ここにいろよ! 俺が見てる! これからもずっと、見ててやるから!」

「じゃが、わたしには、仕える主が」

「俺がなる!」

女が、目を見開いた。

「俺が、お前の主になってやる。神さまじゃねえし、なんの力もねえけど。毎日見てやる。卵焼きだって毎日供えてやる。だから――消えんな」

鼻水が垂れた。かっこ悪い。でも、どうでもよかった。

「……主が、妖に名をつける。それが、契りじゃ」

女の声が、震えていた。

「わたしには、名がない。主様は、ついぞ、つけてくださらなんだ」

名前。

考える時間なんてなかった。でも、迷わなかった。

浮かんだのは、たった一つだけだった。

大好きな人の笑顔を、三年間、ひとりぼっちで真似し続けた、こいつに。


「――笑(えみ)」


部屋の空気が、ふわりと揺れた。

「お前の名前は、笑だ。……いつか、ちゃんと笑えるように」


◇


光が、満ちた。

透けていた指先に、色が戻っていく。輪郭が、くっきりと夜の中に描き直されていく。

そして目の前の女は――笑は、ぽろぽろと泣いていた。

妖も泣くんだな、と、どうでもいいことを思った。

「……陽太」

初めて、名前を呼ばれた。

「陽太。わたしの、主様」

そして、笑は笑った。

口の端だけじゃなくて。目尻を下げて、頬をくしゃっと持ち上げて、涙でぐちゃぐちゃの顔のまま。

真似じゃない。誰かの形を借りたんじゃない。

こいつだけの、笑顔だった。

――ああ、くそ。

あの夜の俺に言ってやりたい。

普通にキモいとか言ってたお前、目ぇ腐ってんのか。

「……クソ、可愛いじゃねえか」

「なんじゃ?」

「なんでもねえよ!」


翌朝。

チャリの荷台に正座した笑は、通学路の景色を、まるで初めて見るみたいにきょろきょろと見回していた。

「陽太。あの花はなんじゃ」

「キンモクセイ」

「あの鳥は」

「カラス」

「あの男は」

「健吾。……おい、指差すな」

校門の前で、健吾が手を振っていた。

「おー陽太。なんか今日、顔明るくね?」

「……そうか?」

「そうだよ。なんかいいことあった?」

荷台の上で、笑がふにゃりと笑う気配がした。

「まあな」

健吾は「なんだよ教えろよ」と笑って、俺の肩を叩いた。

もう生気は吸われていないはずなのに、今朝はなぜか、体がやけに軽かった。


その日の夜。塾の帰り道。

コンビニの白い光の隣、小さな祠の前で、俺はチャリを止めた。

母さんに「なんで二個も?」と怪訝な顔をされながら作ってもらった卵焼きを供えて、手を合わせる。荷台を降りた笑が、真似して小さな手を合わせた。

タバコ屋のシャッターの隙間から、ばあちゃんがこっちを見て、目を細めていた。

「なあ、陽太」

「ん」

「主様は、今のわたしを見て、なんと仰るかのう」

少し考えて、答えた。

「よく笑えるようになったなって、言うんじゃねえの」

笑は一瞬きょとんとして。

それから、照れくさそうに、ふにゃりと笑った。

その顔はやっぱり、まだちょっとだけ下手くそで。

世界でいちばん、可愛かった。


夜風の中、祠の屋根の上で、小さな鈴がちりんと鳴った気がした。


(了)


最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

笑の本当の笑顔、陽太と一緒に見届けていただけていたら嬉しいです。


反応次第では、二人のその後も書いてみたいと思っています。

少しでも心に残るものがありましたら、下の★★★★★から評価やブックマークで応援していただけると、とても励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【作者の長編連載中】
『追放令嬢、嵐と戦い都市を作ります』
婚約破棄された公爵令嬢が、本で得た知識で、何もない廃村を国一番の領地へ。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。