第57話 前金
夜更けの廊下で、ロイドは扉の前に立ち尽くしていた。
叩こうとして上げた手を、もう三度下ろしている。
「……リディア様は、お休みです」
中から出てきたエレナが、冷ややかに言った。泣き腫らした目が、まだ赤い。
「一言だけで構いません。すぐに失礼します」
エレナはしばらくロイドを睨んでいたが、やがて小さくため息をつき、扉を開けた。
「エレナ、いいのよ。入ってもらって」
奥から、かすれた声がした。
寝台の上で、リディアが枕にもたれていた。昼よりは顔色が戻っている。それでも、かけ布の下で脇腹をかばうように、体をわずかに傾けていた。
ロイドは寝台の手前で膝をつき、深く頭を垂れた。
「命令に背き、リディア様を危険にさらしました。申し訳ありません」
「……それを言いに来たの?」
「はい」
「さっきは、あんなに大きな声で言ってたのに」
リディアが、少しだけ笑った。
「私の主人はリディア様ではありません、って」
「……あれは、撤回いたしません」
「知ってるわ」
ロイドは、顔を上げた。
リディアは怒っていなかった。ただ、不思議そうにロイドを見ていた。
「ねえ、ロイド。どうして、そこまでカイルなの?」
しばらく、答えられなかった。
話すつもりのなかったことだった。けれど、この人には、話しておくべきだと思った。
「……私の家は、子爵家でした」
ロイドは、膝の上で拳を握った。
「父も母も、見栄ばかり張る人で。気づいたときには、屋敷も領地も、借金で首が回らなくなっていました」
返す当てのない証文が、毎月のように増えていった。
「両親は、妹を嫁がせることにしました。父より年上の成金の、後妻として。その男が、借金を肩代わりすると言ったのです」
リディアの手が、かけ布の上で止まった。
「妹は、十三でした」
部屋が、静まり返った。
「私は家を継ぐ身でしたが、名も誇りも、全部捨てました。頭を下げられるところには、どこへでも下げに行きました。剣も、馬も、売れるものはすべて売りました。それでも、足りませんでした」
あの頃の自分は、世の中のすべてを恨んでいた。妹を差し出そうとする両親も、門前払いをする親戚も、何もできない自分自身も。
「そのとき、上官だったのがカイル様です」
ある晩、カイルはロイドを天幕に呼び、一枚の為替を机に置いた。
借金と、ぴったり同じ額だった。
「前金だ、とおっしゃいました。軍を離れても、私に仕えろ。それで足りなければ、一生かけて返せ、と」
ロイドは、小さく笑った。
「一生かけても、返せるはずがありません。それでもカイル様は、施しではなく、前金だと言ってくださった。私に、返す道を残してくださったんです」
あの夜、天幕の灯りの下で、決めた。
この命も、この先の人生も、全部この人に使う、と。
「家は、弟に継がせました。妹は今、好きな人と婚約して、毎月手紙をくれます」
ロイドは、まっすぐにリディアを見た。
「ですから、何度同じ場に立っても、私はカイル様を守ります。申し訳ありませんが、それだけは変えられません」
リディアは、しばらく黙っていた。
それから、ふっと目を細めた。
「変えなくていいわ」
「……え?」
「あなたの命は、あなたのものよ。誰に使うかは、あなたが決めていいの」
リディアは、痛むのか、少しだけ顔をしかめてから続けた。
「カイルは、とても優秀な人だけど、どこか不器用なところがあるでしょう? あなたみたいな人が必要だと思うわ。……カイルのこと、お願いね」
ロイドは、目を瞬いた。
自分を守らなかった男に、この人は、カイル様を託すと言うのだ。
胸の奥で、何かが小さく軋んだ。主人を変えるつもりはない。それでも、この人のことを、領主として以上に知った気がした。
ロイドは、いつもの軽い笑みを、ようやく口の端に浮かべた。
「……それは、言われるまでもありません」
リディアが笑って、また脇腹を押さえた。エレナに睨まれて、ロイドは慌てて部屋を辞した。
入れ替わりに、ミレイユが顔を出した。夜の警護の番だった。
「ロイドが、ずいぶん神妙な顔で出ていきましたけど」
「少し、話を聞いていたの」
リディアは、ミレイユを見上げた。
「ねえ、ミレイユ。あなたも、カイルに仕えているのよね」
「ええ」
「……あなたは、いいの?」
ミレイユは一瞬きょとんとして、それから察したように苦笑した。
「ロイドとは、方向性が違うというか」
寝台の脇の椅子に腰を下ろし、剣を膝に立てかける。
「私は、カイル様が守りたいものを守りたい派なんです」
「守りたいもの?」
「今は、リディア様ですね」
あっさりと言って、ミレイユは肩をすくめた。
「ロイドは、カイル様の背中しか見えていませんから。その分、前は私が見ないと」
リディアは思わず吹き出し、慌てて脇腹を押さえた。
「笑わせないでください、ミレイユ様」
エレナにまで叱られて、ミレイユは「すみません」と首をすくめた。
*
翌朝、ロイドは練兵場に呼び出された。
待っていたカイルは、何も言わずに木剣を一本、放ってよこした。
「構えろ」
それからのことは、よく覚えていない。
打ち込めば払われ、払えば踏み込まれる。肩を打たれ、脇腹を打たれ、膝をついても、立てと言われた。立てば、また打たれた。
カイルは、それ以外、一言も口をきかなかった。
朝の見回りに来た兵たちが、遠巻きに顔をしかめている。ミレイユは腕を組んだまま、止めようともしなかった。
何度目か分からないほど地面に転がされて、ようやく、木剣の音が止んだ。
仰向けに倒れたロイドの視界に、カイルの影が落ちる。
「命令違反の罰だ」
「……はい」
口の中が切れていて、声がうまく出なかった。
カイルは、しばらくロイドを見下ろしていた。
「明日から、私に付け」
ロイドは、目を見開いた。
リディアの護衛ではなく。カイルの、そばに。
「……っ」
跳ね起きようとして、全身の痛みにうめく。それでも、声だけは張り上げた。
「はいッ!」
カイルは、黙って手を差し出した。
その手をつかんで立ち上がると、カイルはもう背を向けて歩き出していた。
「顔、ひどいことになってますよ」
ミレイユが呆れたように言う。
ロイドは、腫れた頬のまま笑った。痛くて、たまらなく嬉しかった。
*
同じ頃。
アルヴェニアからの街道を、一頭の馬が駆けていた。
夜通し、一度も足を止めずに。
本日は2話お付き合いいただき、ありがとうございました!
次回、夜通し駆けてきた一頭の馬が、リヴェルの城門をくぐります。
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