第56話 主従
扉が開いたのは、日が傾きかけた頃だった。
「傷は派手ですが、急所は外れております。しばらくは痛むでしょうが、命に別状はありません」
初老の医師がそう告げた瞬間、廊下の空気がほどけた。
エレナが口を押さえてその場に崩れかけ、ミレイユがその肩を支える。カイルは、ただ、壁についていた手を下ろした。いつからそうしていたのか、指先が白くなっていた。
血のついた服を、まだ着替えてもいなかった。
「お顔を見ても、よろしいですか」
「眠っておられますので、お静かに」
医師に促されて、四人は寝室に入った。
寝台の上で、リディアは静かに目を閉じていた。
頬に、血の気がない。それでも、胸元のかけ布はゆっくりと上下している。
「リディア様……」
エレナが枕元に膝をつき、そっとリディアの手を取った。こらえていたものが、ぽろぽろと頬を伝う。
カイルは、寝台の足元に立ったまま、その寝顔を見つめていた。
生きている。
その事実が胸に落ちてくるまで、しばらくかかった。張りつめていたものが、ゆっくりとほどけていく。
自分が、すぐ傍にいながら。
ほどけた場所から、別のものがせり上がってきた。
「……申し訳ありません」
先に口を開いたのは、ミレイユだった。
「私が、三人目を通しました。リディア様をお守りできませんでした」
「お前は、自分の務めを果たした」
カイルは、リディアから目を離さないまま言った。
「二人を相手に、よく持ちこたえた。責めるつもりはない」
ミレイユが唇を噛んで、深く頭を下げる。
それから、カイルはゆっくりと振り返った。
扉の脇に、ロイドが立っていた。
「……ロイド」
声は、低く、平らだった。眠るリディアを起こさないように。けれど、その静けさが、かえって部屋の温度を下げた。
「私は、お前をリディアの護衛につけた。だがお前は持ち場を離れた。戻れと言った。囮だとも。行けと何度も命じた。――お前は、一度も従わなかった」
「はい」
ロイドは、目を逸らさなかった。
「命令に背いたことは、申し訳ありません。どんな罰でも受けます」
「罰で済む話だと思っているのか」
一歩、近づく。
「お前が離れなければ、あの男はリディアに届かなかった」
「承知しております」
「承知していて、なぜだ」
ロイドの拳が、わずかに震えた。
「……カイル様が、囲まれていたからです」
「私は、自分の身くらい守れると言ったはずだ」
「存じております。それでも」
ロイドが、顔を上げた。
「私が命を捧げるのは、カイル様です。お二人に同時に危機があるなら、私はカイル様を守ります。何度同じ場に立っても、同じことをします」
「ロイド」
「私の主人はあなたです、カイル様。リディア様ではありません!」
声が、部屋に響いた。
「ロイド様」
エレナが、涙に濡れた顔のまま、鋭く言った。
「ここは、リディア様のお部屋です」
ロイドが、はっと口をつぐむ。
カイルの手が、剣の柄に触れていた。自分でも、いつ触れたのか分からなかった。
そのとき。
「……騒がしいわね」
かすれた声がした。
全員が、寝台を振り返った。
リディアが、うっすらと目を開けていた。エレナに握られた手を、弱々しく握り返している。
「リディア様!」
「……大丈夫よ、エレナ。泣かないで」
それから、リディアはゆっくりと視線を動かした。カイルの顔を見て、剣の柄に置かれた手を見て、扉の脇のロイドを見る。
「……聞こえていたわ。少しだけ」
カイルは、柄から手を離した。
「リディア、まだ話しては――」
「カイル」
静かな声だった。けれど、カイルは言葉を止めた。
「おかしいのは、あなたよ」
「……リディア?」
「あなたは、ロイドが誰に命を捧げたいと言っていたか、聞いていたの?」
カイルは、言葉に詰まった。
「命令に背いたことは、別の話よ」
リディアは、一度息を整えた。脇腹の傷が痛むのか、わずかに眉が寄る。
「あなたが私を守ろうとしてくれてるのは、わかるわ。……でも、自分の命をどこで使うかを、ロイドが自分で決めて、何が悪いの?」
カイルの喉が、小さく動いた。けれど、声にはならなかった。
「あなたは今、ロイドに、お前の命はリディアのために使えって言ってるのよ」
かすれた声のまま、リディアは小さく首を振った。
「……そんなひどいこと、言わないであげて」
部屋が、しんと静まり返った。
扉の脇で、ロイドがゆっくりと顔を上げる。その目が、信じられないものを見るように、寝台のリディアに向けられていた。
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