第55話 襲撃
その朝、カイルはリディアの供をして、新しくできた市場を見て回っていた。
城下の東、川沿いの広場には、先月から露店が並ぶようになった。野菜に干し肉、布、木の器。アルヴェニアから来た商人たちが、焼き菓子の甘い匂いに足を止めている。
「思っていたより、ずっと人が多いわね」
「近くの村からも来ているようです。いずれ、屋根のある市場にしてもいいかもしれません」
少し後ろには、赤い髪を高く結ったミレイユと、水色の髪のロイドが続いている。王都の者が街を嗅ぎ回っていると分かってから、二人にはリディアの護衛を任せていた。
「あ」
小間物の露店の前で、リディアが足を止めた。
手に取ったのは、深い藍色の髪紐だった。光にかざすと、絹の糸がかすかに艶を帯びる。
「これ、カイルの髪にすごく映えそう」
言うが早いか、リディアはもう代金を払っていた。
「リディア様、そのようなお気遣いは」
「いいの。いつも助けてもらってるお礼」
手のひらに紐を載せて、リディアは少しだけ迷うように、カイルを見上げた。
「……私が結っても、いいかしら?」
「……人前です」
「じゃあ、あとで」
カイルは返す言葉を見つけられず、視線を逸らした。断る理由は、どこにも見つからなかった。
悪くない朝だった。
だからこそ、それに気づくのが一瞬遅れた。
荷車の陰に、旅装の男が二人。干し肉の店の前に一人。広場の反対側にも、似たような男たちがいる。
どれも、ありふれた商人の身なりだった。ただ、誰ひとりとして、品物を見ていない。
「ミレイユ、ロイド」
低く呼ぶと、二人がわずかに顎を引いた。気づいている。
「リディア様、そろそろ城へ――」
言い終わる前に、広場の端で、樽を積んだ荷車がひっくり返った。
轟音とともに悲鳴が上がり、転がる樽に人の波が崩れる。その波を割って、外套の男たちが一斉に動いた。袖の下で、刃が光る。
四人、五人。まっすぐに、カイルへ。
別の三人が、リディアのほうへ。
剣を抜きざま、カイルは正面の刃を弾いた。返す一撃で、二人目の腕を斬り払う。
「ミレイユ、ここを頼む!」
ロイドの声がした。
「リディア様、申し訳ありません!」
水色の髪がひるがえり、ロイドがこちらへ駆けてくる。カイルの背に回り込んだ男の刃を、間一髪で受け止めた。
「ロイド、戻れ!」
「カイル様の背は、私が守ります!」
斬り結びながら、カイルは眉をひそめた。
妙だ。
これだけの数で囲みながら、誰も踏み込んでこない。間合いの外から刃をちらつかせ、退いては寄せ、寄せては退く。
殺しに来ている者の動きではない。
――足止めだ。
「ロイド、行け! こいつらは囮だ、リディアのところへ!」
「なりません! カイル様が囲まれている限り、私はここを動きません!」
「貴様……!」
喉の奥から、自分でも聞いたことのない声が出た。
「聞こえないのか! 行けと言っている!」
ロイドは答えなかった。ただ、カイルの死角に回った男へ、黙って剣を向け続けた。
男たちの肩越しに、リディアが見えた。
ミレイユが、二人を相手にしていた。一人の手首を打って刃を落とさせ、もう一人の喉元へ剣の柄を叩き込む。高く結った赤い髪が、鞭のようにしなった。
その脇を、三人目がすり抜けていく。
リディアは、林檎売りの女を背にかばっていた。逃げようともせずに。
心臓が、耳の奥でうるさいほどに鳴った。背中を、冷たいものが這い上がってくる。
そして、ふいに――音が消えた。
悲鳴も、刃の音も、何も聞こえない。
自分を囲む男たちのことなど、もうどうでもよかった。間合いも、構えも、どうでもよかった。
カイルは、まっすぐに踏み出した。
目の前の刃を払い、その向こうの男を斬り、なおも前へ。何人斬ったのか、分からない。返り血が頬を打っても、足は止まらなかった。
あと、数歩。
その距離で、男がリディアの腹に、何かを押し込んだ。
「リディア様ッ!」
ミレイユの叫びで、音が戻った。
リディアの目が、大きく見開かれている。男が腕を引き、もう一度振りかぶる。
――駄目だ。
駄目だ、駄目だ、駄目だ。
届かない。間に合わない。
足もとの石畳が、底なしの穴に変わったようだった。
その瞬間、黒い馬体が視界を裂いた。
青毛の馬が人混みを割って飛び込み、鞍の上から剣が振り下ろされる。男は声を上げる間もなく崩れ落ちた。
濃い緑の髪の騎士が、ノクスの背から飛び降りる。オスヴァルトだった。剣を構えたまま、リディアの前に立ちはだかる。
同時に、背後の男たちが一斉に身を翻した。追う者もいないのに、迷いなく。もう、ここに用はないとでもいうように。
カイルは剣を投げ捨て、最後の数歩を駆けた。
リディアの体が、ゆっくりと傾く。
伸ばした腕の中に、崩れ落ちてきた。
脇腹を押さえた指の間から、赤いものがあふれている。淡い色の服が、見る間に染まっていく。
「リディア……リディア!」
名を呼ぶ声が、自分のものとは思えないほど掠れていた。
背後に、ロイドの気配があった。
カイルは、振り返らなかった。
リディアの唇が、かすかに動く。
「……あとで、って……言った、のに……」
言葉の続きは、聞こえなかった。
力の抜けた指から、藍色の紐がこぼれ落ちる。
血だまりの上で、それは静かに赤く染まっていった。
明日(木曜)は、20:10と22:30の2話更新です。
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