第54話 手紙
王都から手紙が届いたのは、セドリックが帰ってから半月ほどたった頃だった。
「公爵家からです。二通」
カイルが差し出した封書を、リディアはすぐには受け取れなかった。
リヴェルに来てから、一度も届いたことのない便りだ。
一通目の宛名に目を落として、リディアは瞬きをした。少し右へ上がっていく、癖のある字。どこか、自分の字に似ている。
そういえば、と思い出す。算術の課題が解けずにべそをかいていた弟に、手本を書いてやったことがあった。あの子は、それを何度も何度も写していた。
封を切ると、便箋のところどころに、インクで塗りつぶした跡があった。言葉を選びあぐねたのだろう。
姉上へ。
先日は突然お訪ねして、申し訳ありませんでした。
まず、お詫びしなければならないことがあります。工場を案内していただいたとき、僕はヴァレンシュタイン殿の前で、姉上は運が良かっただけだと言いました。
リディアの手が止まった。
「……カイル。セドリックが、工場でのことを書いてきたわ」
顔を上げると、カイルは窓の外に目をやっていた。
「そうですか」
「どうして、言わなかったの?」
「申し上げるほどのことではないと思いましたので」
淡々とした声に、リディアは小さく笑った。言わなかった理由くらい、聞かなくても分かる。
便箋に、目を戻す。
帰ってから、母上にひどく叱られました。
母上が声を荒らげるのを、僕は生まれて初めて見ました。母上は、姉上のために怒っていたのです。姉上が夜遅くまで灯りをつけて勉強していたことも、母上はずっと知っていました。僕は、何も知りませんでした。
母上は今、実家に帰っておられます。
それから、恥を忍んでお尋ねします。父上から任された一画で、共有の井戸が汚されて困っています。見張りを立てようとしましたが、その手当も出せずにいます。
姉上なら、どうなさいますか。
セドリック
最後の一行を、リディアはしばらく見つめていた。
――姉上、ここが分からない。
小さな手で帳面を差し出してきた弟の顔が、ふっと浮かんだ。
*
二通目は、見慣れた父の字だった。
リディア。
セドリックから、話は聞いた。
製法の件について、公爵家から何か言うことはない。お前の好きにするといい。
ベアトリスに言われた。お前の努力を、私は一度も見ようとしなかったと。その通りなのだろう。
あれは、昔からお前の味方だった。私が、それに気づかずにいただけだ。
ベアトリスが、実家から戻らない。
アルベルト
最後の一行で、リディアは思わず吹き出した。
あの父が。いつも書類から顔も上げなかった父が、こんなことを書いてよこすなんて。
笑いながら、ふいに視界がにじんだ。
――お母様の大切なものなのでしょう?
王都を発つ前の日、義母が差し出した宝石箱を、自分はそう言って断った。義母は少しだけ目を伏せて、「そうね」とだけ言った。
あれは、怒っていたのではなかった。
ただ、寂しかったのだ。
幼い頃、熱を出して寝込んだ夜があった。
額の布を、何度も替えてくれた冷たい手。朝になって目を覚ますと、枕元の椅子で、義母が座ったまま眠っていた。
ありがとう、と言えばよかったのだ。けれど自分は、義母が目を覚ます前に、もう一度眠ったふりをした。
どう声をかければいいのか、分からなかったから。
あの頃からずっと、自分は遠慮ばかりしていた。
「……私、ずっと遠慮していたのね。お母様に」
カイルは何も言わずに、手巾を差し出した。
「それ、あいつから?」
いつの間にか、扉の陰からニコが覗いていた。
「ええ。謝ってきたわ」
「……ふーん」
ニコは腕を組んで、しばらく考えるような顔をした。
「なら、まあ、許してやってもいいけど」
「あなたが許すの?」
「リディア様が許すなら、だよ」
ぷいと顔を背けるニコに、リディアは声を上げて笑った。
*
その夜、リディアは机に向かって、長い返事を書いた。
セドリックへ。
お手紙、ありがとう。
井戸のことだけれど、見張りを立てるお金がないのなら、見張りのいらない形にしてしまえばいいのよ。
井戸が汚れるのは、皆がそれぞれの桶を直接入れて汲むからでしょう。汲み上げのポンプを据えれば、水は管を通って上がってきて、外へ落ちるだけ。誰も井戸そのものに触れなくなるわ。
仕組みは私が知っているけれど、形にするには、水を押し上げる力を逃がさない細工が要るの。腕のいい技師を探してちょうだい。
ほかにも、屋根の雨水を集めて溜め槽に貯め、そこから落として使う方法もあるわ。
興味があるなら、いつでも聞いて。
昔、算術を教えたときみたいに。
書き終えて、ペンを置く。
それから、もう一枚、便箋を引き寄せた。
宛名を書く手が、少しだけ迷う。
――お母様へ。
インクが乾くのを待ちながら、リディアは窓の外の灯りを見つめていた。




