第53話 母
王都の屋敷に戻ったのは、それから五日後のことだった。
旅装を解く間もなく、父の書斎へ呼ばれた。
「お帰りなさい、セドリック」
書斎には、母もいた。窓辺の椅子から立ち上がり、ほっとしたように微笑む。
机の向こうでは、父――アルベルト・アシュフォード公爵が、書類から顔も上げずにペンを走らせていた。
「学友の領地は、どうだった」
喉の奥で、用意してきた嘘がつかえた。
もう一度それを重ねる気力は、残っていなかった。
「……リヴェルへ、行っておりました」
ペンの音が、止まった。
「あれのところへか」
「はい」
父はしばらく黙っていたが、やがて短く言った。
「それで」
「……栄えていました。城があって、見たこともない道が通っていて、工場では砂糖を作っていて」
言葉にするほど、自分が見てきたものの大きさが胸に返ってくる。
「ですが、アレクシス殿下が後ろ盾についておられます。補佐には、ヴァレンシュタイン侯爵家の方が。……あれほどの方々がついていれば、と」
言いながら、あの工場の沈黙が頭をよぎった。
振り払うように、セドリックは手にしていた箱を差し出した。
「母上。姉上から、預かってきました」
「リディアから?」
「母上は甘いものがお好きだったから、と」
箱を受け取った母の手が、止まった。
そっと蓋を開ける。焼き菓子が、行儀よく並んでいた。
母は、何も言わずにそれを見つめている。
「菓子か」
父が、ちらりと箱に目をやった。
「商人の真似事をして、多少は稼いでいるのだろう。だが、殿下の後ろ盾があってのことだ。やはり、噂は噂にすぎんな」
箱を抱える母の指に、わずかに力がこもった。
「それより、聞いているぞ。あれは、王太子殿下のお召しを断ったそうだな」
「……はい。補佐の方が、陛下の御名による召喚でなければ、と」
「愚かなことを」
父は、ため息をついた。
「婚約を破棄されただけでも、公爵家の名に傷がついたのだ。この上、殿下の不興まで買ってどうする」
母が、唇を引き結ぶ。
「砂糖とやらが殿下のお望みなら、差し出させればよい。製法ひとつで殿下のお怒りが解けるなら、安いものだ。あれには、公爵家から言い聞かせる」
「父上、それは……」
思わず声が出た。あの工場を、あの図面を、姉から取り上げる。
けれど、自分も同じではなかったか。運が良かっただけだと、姉の手柄をなかったことにしようとしたのは。
セドリックは、続く言葉を飲み込んだ。
「あれに、そんな才覚があるものか。どうせ、周りの者がやったことだろう」
父は、もう書類に目を戻し、ふたたびペンを走らせていた。
母が、ゆっくりと目を伏せる。
抱えた箱が、かすかに震えていた。
「――いい加減になさい!」
鋭い声が、書斎に響きわたった。
セドリックは、思わず母を見た。母が声を荒らげるのを、生まれて初めて聞いた。
「一体あなた方は、何を見ているのです!」
箱を胸に抱えたまま、母は父の机の前に立った。
「あの子が王妃教育のために、どれだけ遅くまで灯りをつけていたか、ご存じですか。国境の兵の食べるものも、隣国との麦の取引も、誰に言われたわけでもなく、自分で調べていたのですよ。それを殿下に『それだけ』と切り捨てられて――あなたは一度でも、あの子を庇いましたか」
母の声は、止まらなかった。
「その上、あの子が自分の手で作り上げたものまで、殿下に差し出せと?」
父のペンが、紙の上で止まっていた。
母の目が、今度はセドリックに向く。
「あなたもです、セドリック」
「……母上」
「『そこで、ゆっくりしてください』。あの子が発つ前の日、あなたはそう言いましたね」
息が詰まった。
覚えていたのだ。あの書斎で、母も聞いていた。
「あなたは、お父様から任された一画で、井戸ひとつ守れていないでしょう」
「どうして、それを……」
「母親ですもの」
静かな声だった。それが、どんな怒鳴り声よりも胸に刺さった。
「何もない土地で、あの子が一人で何をしてきたのか。あなたは自分の目で見てきたのでしょう。それでもまだ、運が良かったなどと言うのですか」
セドリックは、何も答えられなかった。
母は、抱えた箱に目を落とした。
「……私は、ずっと黙っていました」
声が、わずかに揺れる。
「血のつながらない私が口を出せば、あの子はかえって居場所をなくすと思っていたのです。あの子はいつも、私に遠慮していたから。私と、あなたがいることが、あの子を寂しくさせているのではないかと」
それでも、と母は顔を上げた。
「黙っていたのは、間違いでした。もう、黙りません」
書斎は、しんと静まり返っていた。
父は、何も言わなかった。
母は箱から焼き菓子をひとつ取り、口に運んだ。
ゆっくりと噛みしめてから、小さく息をつく。
「……覚えていてくれたのね」
その目の端に、光るものがあった。
けれど、母はそれを指先で払うと、すっと背筋を伸ばした。
「あなた方には、心底、見損ないました」
声は、もう震えていなかった。
「あなた方のような大馬鹿者とは、ひとときも同じ屋根の下にいられません。しばらく、実家に下がらせていただきます」
「ベアトリス、待て――」
父が立ち上がりかけたときには、母はもう扉の向こうにいた。
姉の菓子の箱を、しっかりと胸に抱えたまま。
書斎には、父とセドリックだけが残された。
父は、浮かせかけた腰をゆっくりと椅子に戻した。
ペンは、二度と紙の上を走らなかった。
本日は2話お付き合いいただき、ありがとうございました!
次回、王都から、リディアのもとに二通の手紙が届きます。
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