第52話 姉
沈黙を破ったのは、荷を担いだ男だった。
肩の袋を、どさりと床に下ろす。
「ガレスです。この土地で生まれ育った者ですよ」
名乗ってから、ガレスはまっすぐにセドリックを見た。
「運がいいだけの人が、嵐の晩にずぶ濡れで畑に立って、水の逃げ道を指図しますかね。泥だらけになって、一晩中」
責める口ぶりではなかった。ただ、見てきたことをそのまま話しているだけの声だった。
それが、かえって胸に刺さる。
「……僕は、そういうつもりでは」
「長旅で、お疲れでしょう」
遮ったのは、カイルだった。
「お部屋をご用意しております。夕食の席で、またお目にかかりましょう」
丁寧な声だった。一分の隙もないほどに。
工場の音が、ふたたび戻ってくる。女たちの手が動き出し、ガレスも袋を担ぎ直して歩いていった。
誰も、セドリックのほうを振り返らなかった。
*
「わざと名乗りましたね」
回廊の角を曲がったところで、ミレイユが言った。
隣のロイドが、軽薄そうな笑みを浮かべる。
「ヴァレンシュタイン殿、ですって。あの坊っちゃん、目を輝かせてましたよ」
「何のことだ」
カイルは、足を止めなかった。
「リディアの弟だ。礼を尽くしただけだ」
「礼、ですか」
ミレイユが小さく笑い、ロイドは肩をすくめた。
*
夕食の席で、セドリックはまた戸惑うことになった。
長い食卓には、姉とカイルのほか、少年とその母親らしい女、昼間に図面を囲んでいた職人たち、それに騎士らしい男女までが並んでいた。城に住み込んでいる者たちなのだろう。それにしても、公爵家では、仕える者が主と同じ席につくことなど考えられない。
けれど、ここでは誰もそれを気にしていなかった。
「ニコ、野菜も食べなさい」
「食べてるって」
「ハンナが見てるわよ」
少年が首をすくめ、母親が笑う。職人たちが釜の話を始めると、姉はすぐに身を乗り出した。
話の途中で、姉がふと手元を見る。何か言う前に、カイルが水差しを取って、その杯を満たしていた。姉は礼も言わずに話を続け、カイルも当然のように水差しを戻す。
言葉がなくても、通じている。
「セドリック、工場はどうだった?」
不意に、姉がこちらを向いた。
喉が詰まる。あの場で何を言ったのか、自分が一番よく分かっていた。
「……熱心に、ご覧になっていましたよ」
答えたのは、カイルだった。
「そう。よかった」
姉は嬉しそうに微笑んで、また職人たちの話に戻っていく。
セドリックは、カイルを見た。
カイルは、何事もなかったように杯を傾けている。
――言っていないのだ。
工場でのことを、この男は姉に何ひとつ伝えていない。
それが自分をかばうためではないことくらい、セドリックにも分かった。
*
夜。
あてがわれた部屋へ戻る途中、廊下の暗がりから声がした。
「あんた、リディア様の弟なんだろ」
昼間の少年だった。壁にもたれ、腕を組んでこちらを見ている。
「……口のきき方を知らないのか」
少年は、答えなかった。
「リディア様が来たとき、ここには何にもなかったんだ。屋敷はぼろぼろで、畑は水浸しで、みんな腹を空かせてた」
少年は、ぎゅっと唇を結んだ。
「俺なんか、最初、石を投げたんだぞ。それでもリディア様は、怒らなかった」
セドリックは、何も言えなかった。
「なのに」
少年の声が、わずかに揺れた。
「なんで、一回も会いに来なかったんだよ」
答えられなかった。
姉が王都を発った朝、自分はどこにいたのだったか。見送りにさえ出なかったことを、今になって思い出す。
少年はしばらくセドリックを睨んでいたが、やがてぷいと顔を背け、暗い廊下の奥へ駆けていった。
*
翌朝、城門の前には、もう馬車が用意されていた。
「これを、お父様たちに」
姉が差し出したのは、焼き菓子の詰まった箱だった。
「お母様、甘いものがお好きだったでしょう」
セドリックは、箱を受け取った。
母の好物など、自分は考えたこともなかった。
「姉上、僕は――」
言いかけて、続かない。
何を言えばいいのか、分からなかった。
姉は、少しだけ首を傾げて待っていた。それから、穏やかに笑う。
「気をつけて帰ってね」
それだけだった。
馬車が動き出す。
窓の外で、白い壁の家々が流れていく。足場の上で槌を振るう職人。荷車を引く男たち。その向こうに、城がそびえている。
来たときよりも、ずっと大きく見えた。
膝の上の箱から、甘い匂いがした。
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