第50話 弟
リヴェルへ向かう馬車の中で、セドリックは何度目かのため息をついた。
父上には、学友の領地を訪ねると言ってある。供は御者が一人きりで、公爵家の跡取りの旅としては心許ない。けれど、本当の行き先を告げるわけにはいかなかった。
――一度、自分の眼で見てくるといい。
あの朝のアレクシス殿下の声が、まだ耳に残っている。憧れの人に、不愉快だと言われたのだ。それも、姉のことで。
あのあとで、初めて知った。姉の領地が北方で唯一の砂糖の産地になっていることも、王都で流行り始めた菓子がそこで作られていることも。
どういうからくりかは分からない。けれど、殿下があんなことを言ったのは、きっとそのせいなのだろう。
どうせ、誰かの入れ知恵だ。殿下が手を貸しているのなら、なおさらだ。姉上はきっと、それを自分の手柄のように――
何気なく窓の外へ目をやって、セドリックは眉を寄せた。
いつの間にか、道がよく整えられている。排水のためだろうか、石畳の両端には、継ぎ目のない溝がまっすぐに走っていた。街が近づくと、その石畳さえ途切れて、石ではない滑らかな何かに変わる。その表面には、美しい模様まで描かれていた。
街に入ると、通りの両側に店がずらりと軒を連ねていた。どの看板も色が鮮やかで、家々の漆喰は塗ったばかりのように白い。古びた建物が、ひとつも見当たらなかった。通りの先ではまだ足場が組まれていて、あちこちから槌の音が響いてくる。
そして、その向こうに城があった。
辺境の領主の館など、せいぜい古びた砦のようなものだろうと思っていた。けれど、目の前にそびえる城は、公爵家の屋敷どころか、王都の離宮にさえ引けを取らない。
セドリックは、しばらく窓に張りついたまま、それを見上げていた。
「……辺境にしては、悪くない」
誰も聞いていないのに、口に出さずにはいられなかった。
*
城門で名乗ると、領主は工場にいると告げられた。
馬車を城に預け、教えられた道を歩いていくと、焼き菓子の甘い匂いがどこからともなく漂ってきた。
工場の場所を確かめようと、果物を並べていた女に声をかける。
「領主様なら、工場のほうへ歩いていくのを見ましたよ。今日も、どこかで泥だらけになってるんじゃないかしら」
女は、おかしそうに笑った。
「泥だらけ……?」
「ええ。あの方、じっとしていられないんですよ。この前なんて、畑で転んで、着替えもせずに商人との会談に出たって」
隣の店の男まで、「違いねえ」と相槌を打った。
セドリックは、曖昧に頷いて礼を言った。
自分の知っている姉は、泥どころか、袖に埃ひとつつけたことのない人だった。
*
工場は、城下の外れに建つ大きな建物だった。煙突から白い煙が立ちのぼり、甘い匂いがいっそう濃くなる。
入口の前の人だかりの真ん中に、姉がいた。
袖をまくり、髪をひとつに束ねて、職人らしい男たちと図面を覗き込んでいる。スカートの裾には、本当に泥が跳ねていた。
「そこは軸を太くしたほうがいいわ。前に割れたのも、同じところでしょう?」
「よく覚えてらっしゃる」
「覚えてるわよ。あのとき、バルトが一晩中ぼやいてたもの」
どっと笑いが起きた。姉も、声を上げて笑っている。
あんなふうに笑う人だっただろうか。
屋敷にいた頃の姉は、いつも書物を抱えていた。食卓でも口数は少なく、父に何か言われれば、黙って頷くだけだった。王太子殿下の隣でも、一歩下がって、静かに微笑んでいるだけの人だった。
通りかかる職人や女たちが、次々と姉に声をかけていく。
「リディア様、昨日の焼き菓子、どうでした?」
「少し甘すぎたかしら。でも、子どもたちには評判よ」
「領主様、午後の荷、一台増やしときます」
「ありがとう、助かるわ」
誰もが気安く話しかけ、姉も一人ひとりの名前を呼んで答えている。
「リディア様!」
ひときわ大きな声とともに、焦げ茶の髪をあちこちに跳ねさせた少年が駆けてきた。
「聞いて! 今日、カイル様に『剣筋がいい』って言われたんだ!」
「本当に?」
「……『少しは』って付いてたけど」
「すごいじゃない」
姉が、少年の頭をくしゃくしゃとかき回す。
「ちょっ、頭はやめてってば。かっこ悪くなっちゃうだろ」
「何言ってるの」
口ではそう言いながら、少年は姉の手を振り払おうとしなかった。
まるで、本当の姉弟のようだった。
自分が最後に姉と笑い合ったのは、いつだっただろう。思い出そうとしても、何も浮かんでこなかった。
ふと、姉がこちらを向いた。
驚いたように瞬きをして、それから、穏やかに微笑む。
「セドリック。久しぶりね」
責めるでもなく、慌てるでもない声だった。
「……お久しぶりです、姉上」
何を言うか、馬車の中で何度も考えてきたはずだった。それなのに、うまく言葉が出てこない。
「お父様たちは、お元気?」
「は、はい。変わりなく」
「そう。よかった」
それだけだった。なぜ来たのかとも、何をしに来たのかとも、姉は聞かなかった。
「誰?」
少年が、姉の袖を引いた。
「弟よ」
「ふうん」
見上げてくる少年の目つきは、どこか睨むようだった。
「ごめんなさい。今、新しい釜の話をしているところなの。少し待っていてもらえる?」
そう言うと、姉はもう職人たちのほうへ向き直っていた。
「カイル、工場を案内してあげてくれる?」
「承知しました」
いつからそこにいたのか、背の高い男が姉の後ろに立っていた。
銀色の髪を三つ編みにした、目を引くほど整った顔立ちの男だ。その額から瞼にかけて、古い傷が走っている。
男はセドリックの前に進み出ると、胸に手を当てて優雅に一礼した。
「リヴェルで、領主の補佐を務めております。カイル・ヴァレンシュタインと申します」
セドリックの喉が、ひくりと鳴った。
ヴァレンシュタイン。アルヴェニアの侯爵家の名だ。そして、その名を持つ将に憧れなかった少年はいない。先の大戦で、アレクシス殿下の右腕として戦場を駆け、額に傷を負いながらも一歩も退かなかったという。
セドリックも、その武勇伝に夢中になった一人だった。
「ヴァレンシュタイン……殿」
「私をご存じで?」
「も、もちろんですっ! 先の大戦でのお働きは、何度も――」
勢い込んで言いかけて、セドリックははっと口をつぐんだ。
この男は今、姉の補佐だと名乗ったのだ。
「……なぜ、あなたのような方が、姉上の補佐など」
カイルは、穏やかに微笑んでいた。ただ、その目だけが笑っていない。
「私が、ここを選びました」
答えは、それだけだった。
言葉を失ったセドリックに、カイルは静かに背を向けた。
「では、ご案内いたしましょう。リディア様が、ここで何を築かれたのかを」
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
次回、カイルの案内で、セドリックは姉の工場の中へ。
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