第48話 国益
王の私室は、夜更けだというのに灯りが落とされていなかった。
暖炉の前に、父王が座っている。ヴィクトールが入っても、こちらを見ようとはしなかった。
「……お呼びと伺いました」
「座れ」
短い声だった。
向かいの椅子に腰を下ろす。暖炉の薪が、ぱちりと爆ぜた。
「リヴェルへ、召喚状を出したそうだな」
息が詰まる。
「王の名も借りず、お前の名で。……そして、断られた」
「それは……」
「言い訳はいい」
父王が、ようやく顔を上げた。怒鳴りつけるでもない、静かな目だった。それが、何よりも恐ろしい。
「調べさせた。南方のほかで砂糖が採れる地は、この大陸のどこにもない。リヴェルを除いてな」
低い声が、淡々と続く。
「アルヴェニアの商人どもは、すでにあの砂糖を奪い合っている。いずれ、国の財の流れそのものが変わる。それほどの地だ」
手元の杯が、卓に置かれた。
「その領主との間に、お前は自ら溝を作った」
「……私は、リヴェルを王家のもとへ取り戻そうと」
「呼びつけて、か」
喉が鳴った。
「……ですが、あの女は王太子の召しを拒みました。不敬ではありませんか」
「王の名も借りぬ召しを断って、何の罪になる」
ぴしゃりとした声だった。
「罪を問えば、笑いものになるのは王家のほうだ」
今度こそ、返す言葉がなかった。
「ヴィクトール」
名を呼ばれ、背筋が伸びる。
「婚約を解いたとき、お前は私に何と言った」
――聖女を妃に迎えるほうが、国益になります。
あの日の自分の声が、耳の奥によみがえる。
「『国益』と、お前は言ったな」
「……はい」
「だから、私は判を押した。婚約を解くことも、リディア嬢をリヴェルへやることも、お前に任せた。王太子が国のためと言うなら、それを信じるのが王の務めだと思ったからだ」
父王は、暖炉の火に目を移した。
「あの娘は、王妃教育を誰よりも真面目に受けていた。国境の兵站を学び、隣国との交渉を学んだ。……それを『それだけ』と切って捨てたのも、お前だったな」
揺れる炎が、父王の横顔に深い影を落としている。
「その結果が、これか」
膝の上で、拳を握る。爪が、掌に食い込んだ。
「お前が始めたことだ。お前が片をつけろ」
「……はい」
「手が要るなら、言え。王の名が要るなら、まず私に話せ。協力は惜しまん」
父王の目が、まっすぐにヴィクトールを射抜いた。
「ただし、これほどの話だ。次はないと思え」
*
私室を出ると、廊下の冷気が頬を打った。
次はない。
その言葉が、足音のたびに重く響く。
――国益。
あの日、自分が口にした言葉が、今になって首を絞めていた。
*
同じ頃、王宮の客間。
礼装の襟元をゆるめ、アレクは長椅子に身を投げ出した。
「楽しそうでしたね、殿下」
壁際で、従者のアルが肩をすくめる。短い赤毛の、陽気な男だ。
「惚れ込んで目が離せない、でしたっけ。王太子殿下のお顔、見ものでしたよ」
「本当のことを言っただけだ」
「へえ。外交辞令じゃなかったんですか」
「……」
「顔に書いてありますよ」
飛んできたクッションを、アルは笑いながら片手で受け止めた。
軽口を返そうとしたアレクの顔から、ふと笑みが消える。
「……あの男が、彼女を手放したのか」
天井を見上げたまま、低く呟く。
「あの聖女殿を選んで、か。……いや」
夜会の光景がよみがえる。腕に添えられた手。客に笑いかける娘。その笑顔に、一度も目を向けなかった男。
「選んですらいないな。隣にいる娘の顔も、ろくに見ていなかった」
アルは、クッションを長椅子に戻した。
「ところで、殿下。夜会のあと、王太子殿下は侍従に呼ばれていきましたよ。行き先は、陛下の私室のようです」
「見ていたのか」
「それが仕事ですから」
笑ったままの顔で、目だけが笑っていなかった。
「親に叱られた坊っちゃんは、だいたい焦って下手を打ちます」
「ああいう男は、手に入らないと分かったものほど欲しがる。……焦れば、なおさらだ」
アレクは、身を起こした。
「アル。夜が明けたら、リヴェルへ戻るぞ」
「はいはい。土産くらいは買わせてくださいよ」
「嫌な予感がする」
窓の外で、王都の灯りが静かに瞬いていた。




