第47話 夜会
王宮の大広間に、楽の音が満ちていた。
磨き上げられた床に燭台の灯りが映り、着飾った貴族たちが杯を手に笑い合っている。
広間の奥で、ヴィクトールは客を迎えていた。
隣に立つエミリアが、その腕にそっと手を添えている。挨拶に来る貴族ひとりひとりに、花がほころぶように笑いかけていた。
けれど、ヴィクトールの目は、その笑顔ではなく入口へ向いている。今夜待っている客は、ただ一人だった。
賑わいが、ふと揺れた。
「……アルヴェニアの、第二王子殿下よ」
扇の陰で、令嬢たちが囁き交わす。
入口に、一人の男が立っていた。
癖のある黒髪を後ろへ流し、深い色の礼装に身を包んでいる。端正な顔立ちに、人好きのする笑み。それでいて、広間を見渡す目には少しの隙もなかった。
噂は聞いている。若くして戦場に立ち、いくつもの武功を挙げた第二王子。軽やかな物腰とは裏腹に、決して侮れない男だと。
令嬢たちだけではない。広間の隅では、若い貴族たちまでが、憧れを隠しもせずにその姿を目で追っていた。その中には、リディアの弟、セドリックの顔もある。
その第二王子の目が、広間の奥で止まった。ヴィクトールと、その腕に添えられたエミリアの手の上で、ほんの一瞬だけ。
令嬢たちに呼ばれて、エミリアの手がするりと離れていく。
杯を置き、ヴィクトールは歩み寄った。
「ようこそ、エルディアへ。アレクシス殿下」
「お招きいただき、光栄です。ヴィクトール殿下」
優雅な一礼が返ってくる。
形どおりの挨拶のあと、両国の交易や国境の街道について、当たり障りのない話がひとしきり続いた。
頃合いを見て、ヴィクトールは杯を傾けた。
「ところで。殿下は、我が国のリヴェルとお付き合いがあるとか」
「ええ」
あっさりとした答えだった。
「懇意にしています」
「……ほう。あのような辺境の小領地と、アルヴェニアの王子殿下が」
「辺境、ですか」
アレクシスは、おかしそうに目を細めた。
「ご覧になったことは?」
ヴィクトールは答えなかった。
「一度、ご覧になるといい。あれほどの街は、そうはありません」
「リヴェルは、我が国の領地です」
ヴィクトールは、笑みを崩さないまま言った。
「隣国の方に、そこまで目をかけていただくのは恐縮ですな」
「もちろん、存じていますよ」
アレクシスは、杯の縁を指でなぞった。
「エルディアの領地だからこそ、大切になさるべきでしょう。あれほどの宝を、辺境と呼んで放っておくのは惜しい」
ヴィクトールは、言葉に詰まった。
「……領主は、まだ若い娘だと聞いていますが」
「ええ。彼女は素晴らしい」
迷いのない声だった。
「見目も麗しいが、あの才は本物だ。次に何を始めるのか、見ていて飽きない」
杯を軽く揺らし、アレクシスは笑った。
「正直に申し上げれば、惚れ込んで目が離せないのですよ」
ヴィクトールの笑みが、わずかに強張った。杯を持つ指に、力がこもる。
「……それは、それは」
「エルディアは、惜しい方を手放されましたね」
穏やかな声のまま、刃だけが光った。
この男は、どこまで知っている。
問い返そうとした、そのときだった。
「殿下!」
明るい声とともに、エミリアが駆け寄ってきた。
「アレクシス殿下でいらっしゃいますよね? はじめまして、エミリアと申します」
「これは、聖女殿。お噂はかねがね」
アレクシスが微笑むと、エミリアは嬉しそうに頬を染めた。
「先ほど、リヴェルのお話をされていましたよね? 私、リヴェルのお菓子が大好きなんです!」
「それは光栄だ。あそこの領主の、自慢の品ですよ」
「まあ! では、殿下は領主様をご存じなんですね。どんな方なんですか?」
ヴィクトールが口を挟むより早く、アレクシスは答えていた。
「聡明で、まっすぐな人です。……彼女のためなら、何をしてもいいと思わせる人ですよ」
「素敵……!」
エミリアは、両手を胸の前で合わせた。
「ねえ、殿下。今度、リヴェルへご一緒しませんか? 私、ぜひ領主様にお会いしてみたいです」
ヴィクトールのこめかみが、ひくりと動いた。
「それはいい」
アレクシスが、楽しげに頷く。
「ぜひ、いらしてください。彼女も、きっと驚くでしょう」
驚く、どころではない。
かつて自分が捨てた女の領地へ、新しい婚約者を連れて、隣国の王子の案内で訪ねる。それ以上の屈辱があるものか。
喉元までせり上がった言葉を、ヴィクトールは杯の酒で流し込んだ。
「……考えておこう」
声が、自分でも分かるほど硬かった。
アレクシスは杯を軽く掲げ、人の輪の中へ戻っていく。去り際に一度だけ、こちらを振り返った。
笑っていた。
*
夜会が終わり、自室へ戻ろうとしたときだった。
「殿下」
廊下の暗がりから、侍従が姿を現した。
「陛下が、お呼びです」
足が止まる。
「……こんな夜更けにか」
「今宵のうちに、と」
侍従は、それ以上何も言わなかった。ただ、その目がわずかに伏せられている。
リヴェルへ出した召喚状のことが、脳裏をよぎった。
冷たいものが、背筋を這い上がる。




