第45話 守る側へ
翌朝、ニコはいつもより早く目を覚ました。
――あなたを大切に思っているわ。
あの言葉が、まだ耳に残っている。寝台から身を起こし、小さく息を吐いた。
*
「ニコ、もう起きたの?」
食堂へ向かう途中で、ハンナに呼び止められた。
「うん」
「珍しいわね。まだ朝食まで時間があるのに」
「……勉強しようと思って」
少し驚いた顔のあと、ハンナは微笑んだ。
「そう。頑張っているのね」
いつものように髪を撫でてくれる手を、ニコは見上げた。
「……母さん」
「なあに?」
「俺が、悪いことをしたら……どうする?」
髪を撫でる手が、止まる。
「どうしたの、急に」
「いいから。どうするの?」
少し考えてから、ハンナは口を開いた。
「悪いことをしたなら、叱るわ」
「……嫌いにならない?」
「それとこれとは、別でしょう?」
あまりにも当たり前のような答えに、戸惑う。
「悪いことをしたら、ちゃんと謝って、直していけばいいのよ」
もう一度、温かい手が髪を撫でた。
「あなたが何をしても、何も言わずに許すわけじゃない。でも、あなたのことを大切に思っているのは変わらないわ」
ニコは俯いた。
何も持っていなかった頃も、食べるものに困っていた頃も、父さんを失って代官に虐げられていた頃も、母さんはずっとそばにいてくれた。何かを成し遂げたからでも、特別な人間だったからでもない。それでも、母さんは愛してくれた。
「……分かった」
そう答えるのが、やっとだった。
*
昼過ぎ、ニコは中庭のベンチにガレスを見つけた。傷の残る腕をかばいながら、ゆっくりと身体を動かしている。
「叔父さん」
「おう。どうした?」
いつものように笑おうとしたガレスの顔が、身体をひねった拍子にわずかに歪んだ。
「……まだ痛いの?」
「まあな。そう簡単には治らねえよ」
苦笑する叔父の隣に、黙って腰を下ろす。しばらく、どちらも口を開かなかった。
ふと、あの日のことが蘇る。
倒れた自分に覆い被さり、何度殴られても、ガレスは離れなかった。相手は貴族で、逆らえる相手ではない。やめろと叫んでも、暴力は止まらなかった。それでも叔父は、自分の身体を盾にし続けた。
膝の上で、拳を握る。
「……俺も、強くなりたい」
気づけば、口からこぼれていた。
こちらを見たガレスの顔から、笑みが消える。
「……ああ」
低い声だった。傷ついた腕に目を落とし、ガレスは続けた。
「俺も強くなりたい」
痛みを堪えるように、唇が歪む。
「もう、あんな思いはさせたくねえからな」
何も言えなかった。
怖かったはずだ。痛かったはずだ。それでも叔父は自分を守ってくれて、今も、もっと強くなろうとしている。
大きな手が、頭に置かれた。
「一緒に頑張ろうな」
「……うん」
何度も頷く。その手は少し重くて、温かかった。
*
数日後。
訓練場の隅で、ニコはガレスの稽古を見ていた。カイルの部下たちに剣を教わる叔父は、まだ傷も癒えていないのに、うまくいかない動きを何度もやり直している。
食べるものも、学ぶ場所も、当たり前のように与えられてきた。けれど本当は、少しも当たり前ではなかったのだ。
みんな、自分にできることで戦っていた。そして今も、もっとできるようになろうとしている。
では。
――俺は?
自分の手に、目を落とす。
褒められれば嬉しかったし、何かを買ってもらえば、もっと嬉しかった。自分は特別なのだと思うと、誇らしかった。
けれど、母さんに何をしてあげただろう。叔父さんに、何を返せただろう。リディアのために、自分から何かをしたことがあっただろうか。
――俺は、みんなを愛しているのか?
胸の奥が、ざわつく。
大切にされることばかり考えて、自分が何を与えられるかなんて、考えたこともなかった。
「……俺は、どうすればいいんだろう」
誰にも届かないはずの呟きだった。
「何を悩んでいるんです?」
振り返ると、カイルが立っていた。
「……カイル様」
訓練場へ視線を戻す。
「俺も、強くなりたいんだ」
「そうですか」
カイルは、それ以上尋ねない。
少し迷ってから、ニコは口を開いた。
「……どうしたら、強くなれる?」
ガレスの姿に目を向けたまま、カイルは短く言った。
「男なら、守る側に立て」
息が止まった。
守る側。
その言葉が、胸の奥に落ちる。
視線の先で、ガレスが傷を堪えながら剣を構え直していた。その姿を見ていると、胸の奥にあったものが、少しずつ形になっていく気がした。
「……うん」
小さく、頷く。
訓練場から戻る途中、廊下で荷物を抱えた使用人とすれ違った。この前、手伝いを断った相手だ。
「……あの」
気づけば、足が止まっていた。
「それ、半分持つよ」
使用人は驚いたように瞬きをして、それから笑った。
「助かるよ」
*
その日の夕食。
皿を運び、椅子を整え、ニコはハンナの手伝いをして回った。
「ニコ? どうしたの?」
「……別に。俺も、何かしたかっただけ」
不思議そうなハンナにそれだけ返して、次の皿を取りに行く。
まだ、自分に何ができるのかは分からない。けれど、みんなが自分にしてくれたように、自分も誰かを大切にしたい。それだけは、少し分かった気がした。
食卓には、いつも自分を気にかけてくれるハンナとガレスがいる。
ふと、食堂の入口にリディアの姿が見えた。
皿を置いて、ニコは駆け寄った。
「リディア様」
「どうしたの?」
「……この前の、村の子のことだけど」
少しだけ、視線をそらす。
「俺には、カイル様やミレイユ様が教えてくれるから。……あの子には、俺が教えるよ」
リディアが何か言うより先に、ニコはぷいと背を向けて、食卓へ戻っていった。
耳の先まで、赤い。
その背中を見送りながら、リディアはそっと微笑んだ。
*
同じ頃。
執務室で、カイルは一枚の報告書に目を落としていた。
ここ数日、街で見慣れない男たちがリヴェルのことを嗅ぎ回っている。工場の場所、荷の行き先、城に出入りする者の顔ぶれまで。
「……王都の者か」
カイルは報告書を伏せ、窓の外の灯りに目をやった。
――動き出したか。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
ニコのお話は、今回でひと区切りです。
少し苦い回が続きましたが、見守ってくださった皆さま、本当にありがとうございました。
そして次回からは、いよいよ王都が動き出します。
リディアの知らないところで、あの人たちが何を考えているのか――。
引き続き、お付き合いいただけたら嬉しいです。
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