第44話 強くなれ
ニコの様子がおかしい。
そう気づいたのは、リディアではなく、カイルだった。
村の子供たちへの態度。使用人への物言い。ハンナに対する言葉。
どれも、小さなことではある。
けれど、以前のニコなら、あんな言い方はしなかったはずだ。
「リディア。少し、話をしておいた方が良いのでは?」
報告を聞いたリディアは、静かに目を伏せた。
「……そうね」
思い当たることが、ないわけではなかった。
ニコは、よく笑うようになった。
食事を楽しみ、勉強にも励んでいる。
元気になってくれたことが嬉しくて、つい甘やかしていたのかもしれない。
けれど、それだけなのだろうか。
「私から話してみるわ」
*
「ニコ、少し時間をもらえる?」
呼ばれたニコは、不思議そうに顔を上げた。
「うん。どうしたの?」
リディアは、彼の向かいに腰を下ろした。
「最近、村の子たちとはどう?」
「どうって……普通だよ」
「そう」
リディアは、少し間を置いた。
「この前、勉強したいと言った子に、無理だと言ったそうね」
ニコの顔が曇った。
「だって、本当のことだよ。文字も読めないし、教えてくれる人だっていないんだから」
「そうね。今のあの子には、難しいことかもしれない」
リディアは否定しなかった。
「でも、できないと決めてしまう必要はないでしょう?」
「……俺だって、前は何もできなかったよ」
「ええ。だからこそ、分かるんじゃないかしら」
ニコは口をつぐんだ。
「ニコ。あなたが今、勉強できるのは、あなたが努力したからだけではないわ。教えてくれる人がいて、学べる場所があって、支えてくれる人がいたからよ」
「それは……」
「あなたが頑張っていることは、ちゃんと分かっているわ」
リディアは、ニコの目を見た。
「でも、だからといって、ほかの人より偉くなったわけではないの」
ニコは、唇を引き結んだ。
「……俺は、そんなつもりじゃ」
「そう?」
責めるような声ではなかった。
だからこそ、ニコは返す言葉を見つけられなかった。
「ニコ。私は、あなたが大切よ」
思いがけない言葉に、ニコは顔を上げた。
「実の弟より、あなたのことを弟のように感じているわ」
ニコの表情が、明るくなった。
やっぱり、リディアは自分を特別に思ってくれている。
そう思った。
「だけどね?」
リディアの声が、少しだけ変わった。
「私は婚約者に捨てられて、家族にも見放されたの。公爵令嬢という地位にいても、世間から捨てられたわ」
ニコは、思わずリディアを見た。
リディアがそんなことを口にするとは、思っていなかった。
「あなたと私の関係は?」
静かな問いだった。
「血も繋がっていない、他人よ?」
「……っ」
ニコの顔から、笑みが消えた。
「私が気まぐれを起こしたら?」
リディアは、目をそらさなかった。
「私はあなたが悪魔になっても、捨てられるような気がしないわ」
ニコは、息を詰めた。
その言葉に、胸の奥が熱くなった。
やっぱり。
リディアは、自分を見捨てたりしない。
そう思った。
「だけどね。分からないわ」
その一言で、ニコの胸に灯った安堵が消えた。
「今の私は、あなたを捨てるつもりなんてない。これからも大切にしたいと思っているわ。でも、未来の私がどう思うかなんて、誰にも分からないでしょう?」
ニコは、何も言えなかった。
「人の心は変わるものよ。私自身だって、これからどうなるか分からない。だから、今の私の気持ちを、未来まで続く約束だと思わないで」
「……でも、リディア様は」
「ええ。あなたを大切に思っているわ」
リディアは、はっきりと言った。
「それは嘘じゃない。でもね、ニコ。私があなたを大切にしていることと、あなた自身の価値は、別のものなのよ」
ニコは、膝の上で拳を握った。
自分のためにグスタフを打ち負かしてくれたことも、リディアが自分を特別に思っている証拠だった。
「……だって、グスタフを倒したのは、俺のために……」
「あなたのために、私はあの人に怒っていたわ」
リディアは、ニコの言葉を否定しなかった。
「あなたがあんな目に遭わされたことが、どうしても許せなかった。それは本当よ」
ニコは、うなずいた。
やはり、自分のためだったのだ。
けれど。
「怒ったのは、あなたが傷つけられたから。でも、私はその怒りを抑えられなかった。あそこまでしたのは、私が未熟だったからよ。あなたのためじゃない」
ニコは、目を見開いた。
何を言われたのか、すぐには理解できなかった。
「……でも、俺があんな目に遭ったから」
「ええ。私は怒ったわ。でも、私が何をしたかを、あなた自身の価値の証明にしてはいけないの」
リディアは、まっすぐにニコを見つめた。
ニコは、唇を噛んだ。
自分は、ただ違うだけだ。
勉強を教えてもらえる。城で暮らせる。リディアに大切にしてもらえる。
それの何が悪いのだろう。
けれど、リディアの言葉は、胸の奥に突き刺さっていた。
「……俺は、どうすればいいの?」
かすれた声がこぼれた。
リディアは、少しだけ表情を和らげた。
「私だって、怖いのよ。いつか、ここも失うんじゃないかって」
ニコが、顔を上げた。
「だから、強くなるのよ、ニコ」
「……強く?」
「ええ。誰かに大切にされているから大丈夫だと、安心しきってしまわないこと。誰かが与えてくれるものを、当然だと思わないこと」
リディアは、少し間を置いた。
「自分で考えて、自分で立てる人になりなさい。自分より弱い人を見下すのではなく、手を差し伸べられる人に」
リディアは、そっとニコの手に触れた。
「私は、あなたならそうなれると思っているわ」
ニコは、その手を見つめた。
温かかった。
いつも自分を撫でてくれる手。
自分を守ってくれた手。
この手が、自分から離れることがあるのだろうか。
考えたくなかった。
「……リディア様は、俺を捨てないよね?」
リディアは、すぐには答えなかった。
やがて、ニコの手を優しく握り返した。
「あなたを大切に思っているわ」
それは、約束ではなかった。
けれど、嘘でもなかった。
「だから、強くなってね。ニコ」
*
部屋を出たニコは、廊下を歩きながら、リディアの言葉を繰り返していた。
――血も繋がっていない、他人よ。
そんなことは、分かっていたはずだった。
それでも、リディアは自分を大切にしてくれた。
自分のために、グスタフを打ち負かしてくれた。
だから、自分は特別なのだと思っていた。
けれど。
――あなたのためじゃない。
ニコは足を止めた。
胸の奥が、ひどく冷たくなった。
リディアは、自分を大切にしてくれている。
それは、間違いない。
でも、いつまでもそうだとは限らない。
では、自分はどうすればいいのだろう。
もっと勉強すればいいのか。
もっと役に立てばいいのか。
嫌われないように、いい子でいればいいのか。
考えても、答えは出なかった。
ただ、リディアの言葉だけが、いつまでも頭から離れなかった。




