第43話 黒いニコ
寝台を離れ、ニコがふたたび城の中を駆け回れるようになった頃。
「ニコ、今日はずいぶん食べるのね」
食卓で声をかけると、口いっぱいに頬張ったまま、ニコがこくこくと頷いた。
「だって、うまいんだもん」
「そう。たくさん食べて、早く元気になってね」
小さく笑って頭を撫でてやると、ニコは嬉しそうに目を細める。
自分を傷つけたグスタフが領地を失ったと、人づてに聞いていた。詳しい事情までは分からない。ただ、自分をあんな目に遭わせた男がリディアには敵わなかったことだけは、ニコにも分かった。
相手は貴族だ。自分たちとは比べものにならないほど偉い人間のはずだった。それでもリディアは一歩も退かず、自分のために、あの男を打ち負かしてくれたのだ。
胸の奥が、誇らしさで熱くなる。
リディアは、自分を大切にしてくれる。
そして自分は、そんな人に大切にされる人間なのだ。
*
「母さん、これ、もう小さくなってきた」
服の裾を引っ張ってみせると、ハンナが目を丸くした。
「まあ……本当ね。ずいぶん大きくなったもの」
息子の服をひととおり確かめてから、ハンナは続けた。
「でも、まだ着られるわ。今のでも十分でしょう?」
「えー……」
思わず口が尖る。
「もう少しいいものを用意してよ。これじゃ、みんなと一緒だと思われちゃう」
「ニコ……」
ハンナの表情が曇った。
「みんなと一緒で、何がいけないの? 着られるうちは、大事に着なさい」
「買ってくれないの?」
わざとらしく、ため息をついてみせる。
「はーぁ、じゃあいいよ。リディア様にお願いするから」
「待ちなさい、ニコ」
止める声は、もう耳に入っていなかった。
リディアなら、きっと何とかしてくれる。
*
「リディア様、お願いがあるんだけど」
廊下でリディアを見つけるなり、ニコは駆け寄った。
「どうしたの?」
「俺、大きくなってきて、この服もきつくなっちゃったんだ。新しいのが欲しいけど、贅沢かな?」
「あら、本当ね」
ニコの服に目を落とし、リディアは少し考えてから微笑んだ。
「そうね。勉強もお仕事も頑張ってるし、私がプレゼントしようかしら」
「本当?」
「ええ。どんな服がいいか、一緒に考えましょう」
「やった!」
顔を輝かせながら、ニコはちらりと後ろのハンナへ目をやった。ほらね、と言うように笑ってみせる。
ハンナは、何も言えずに立ち尽くしていた。
やっぱり、俺は違うんだ。
母さんが買ってくれないものでも、リディアなら贈ってくれる。欲しいと言えば、叶えてくれる人がいる。それが、自分には許されている。
*
ある日、久しぶりに外へ出ると、顔見知りの子供たちがすぐに集まってきた。
「ニコ! もう大丈夫なのか?」
「うん。もう平気だよ」
「よかったな!」
嬉しそうに笑った子供たちが、口々に尋ねてくる。
「なあ、城ってどんなところなんだ?」
「勉強もしてるんだろ? どんなことを習うんだ?」
矢継ぎ早の質問に、少し得意な気分になる。
「算術とか、文字とか。いろいろだよ」
「へえ……すげえな」
「俺も勉強してみたいな」
目を輝かせて言った年下の少年に、ニコは思わず笑った。
「お前には無理だろ」
「えっ?」
「だって、お前、文字も読めないじゃん」
少年の顔から、笑みが消えた。
「……でも、教えてもらえば」
「誰に?」
ニコは首を傾げる。
「ここに、カイル様やミレイユ様みたいな人がいるのか?」
少年は、答えられなかった。
当然のことを言っただけだ、とニコは思っていた。
自分だって、少し前までは何も知らなかった。けれど今は、教えてくれる人がいて、学ぶ場所がある。望めば、もっと先へ進める。
この子たちには、それがない。同じように頑張ったところで、同じ場所へは行けないのかもしれない――そんな考えが、ふと頭をよぎった。
子供たちと別れて城へ戻り、立派な門をくぐる。見慣れた廊下を歩いていると、使用人たちが次々に声をかけてきた。
「ニコ、どこへ行っていたんだ?」
「ちょっと外へ」
「そうか。あまり無理をするなよ」
「うん」
ここでは、誰も自分を邪険に扱わない。顔を覚え、気にかけてくれる人たちがいる。村では、こんなふうに扱われたことなど一度もなかった。
いや、村の人たちが悪いわけではない。ただ、自分がもう、あそこにいた頃とは違うのだ。
そう思った瞬間、ニコの中に、目には見えない線が引かれた。
こちら側と、あちら側。
*
「ニコ、悪いんだけど、これを少し運ぶのを手伝ってくれないか?」
廊下で呼び止めてきたのは、荷物をいくつも抱えた使用人の一人だった。
「……俺が?」
思わず、眉をひそめる。
「ああ。少しだけでいいんだが」
言いかけた使用人は、ニコの抱えた教材に気づいて、手元の荷物へ目を落とした。
「……ああ、勉強中だったか。すまないな」
引き下がろうとするその背に、ニコは口を開いた。
「……俺、リディア様に勉強を教えてもらってるんだ。カイル様たちも、俺がちゃんと覚えられるように時間を作ってくれてる」
「そうか。それは大事なことだな」
使用人は頷いた。
「邪魔して悪かった」
「うん。だから、あんまり邪魔しないでほしいんだけど」
一瞬、使用人の表情が止まった。それから小さく頭を下げる。
「……そうだな。すまなかった」
荷物を抱え直して去っていく背中を、ニコは見送った。
別に、悪いことは何もしていない。自分には学ぶべきことがあって、それをリディアやカイルたちも認めてくれている。あの使用人だって、分かってくれたではないか。
教材を抱え直したとき、廊下の向こうにカイルが立っているのが見えた。
こちらを見ている。
「……カイル様?」
なぜか、少しだけ落ち着かない。
けれどカイルは何も言わず、すっと視線を外した。
胸のざわつきを、ニコは振り払った。ただ勉強を優先しただけだ。それの何が悪いのだろう。
*
「母さんも、カイル様やミレイユ様に学問を教えてもらったら? 俺が頼んであげようか?」
何気なく言うと、ハンナは微笑んだ。
「私はいいわ。ニコが楽しそうにしているのを見るだけで、嬉しいもの」
それから、少しだけ声の調子を改める。
「でもね、ニコ。最近、村の子たちと話すとき、少し気になることがあるの」
「……何?」
「相手を馬鹿にするような言い方をしていない?」
「別に。あいつらが知らないことを教えてやっただけだよ」
なぜそんなことを聞くのか、分からなかった。
「それに、できないことをできないって言っただけだし」
「でも、知らないのは悪いことじゃないわ。ニコだって、少し前までは――」
「俺はもう違うだろ」
当然のことのように言い返すと、ハンナが口をつぐんだ。
自分の言葉の何がおかしいのか、ニコには分からない。
村の子たちは、今もあの場所で暮らしている。着古した服を着て、食べるものに困り、知らないことを知らないままにしている。以前は、自分もそうだった。
けれど、今は違う。
立派な城で暮らし、きれいな服を着て、食べたいものを食べられる。カイルやミレイユから学問を教わり、城の人々とも気軽に話せる。リディアだって、自分を気にかけてくれる。
あのグスタフでさえ、自分を傷つけたせいで、リディアに打ちのめされたのだ。それほどのことをしてくれたのは、リディアが自分を大切に思ってくれているからだ。
そして、そんな人に大切にされている自分は――。
その先を、ニコは考えなかった。考えるまでもないことのように思えた。
「ニコ。お城で暮らしているからって、ほかの人たちより偉いわけじゃないのよ」
静かな声だった。
けれどニコの耳には、自分の今の立場を分かっていない人間の言葉にしか聞こえなかった。
母さんは、何も知らない。自分がどんな人たちに認められているのかも、どんな場所にいるのかも。
「……母さんには関係ないだろ」
顔を背ける。
「俺のことは、リディア様が分かってくださってるんだから」
言葉を失ったハンナに、それ以上話す気にはなれなかった。
母さんにも、分からない。
――同じはずがない。
自分と、あの子たち。その間にあるものが何なのか、ニコ自身にも分からなかった。
ただ、もう、同じ場所には戻れないと思った。




