第38話 選ぶ者
カイルが持ってきた名簿に、リディアは目を落とした。
グスタフ・フォン・ヴァルデン伯爵。その名の下には、商人や貴族の名前が並んでいる。
「この名簿の商人とは、取引を停止するわ」
「……そこまでしますか」
カイルが眉を上げて言う。
「ええ。客は私が選ぶ。彼らも私かグスタフか、選べばいいわ」
「……なるほど」
「商売は信用で成り立っているもの。誰と付き合うかは大切よ。私はグスタフと繋がる人間とは商売しない。それだけ。私を取るなら、取引は継続するわ」
リディアは名簿を机に置いた。
カイルは彼女を見つめたが、それ以上は何も言わなかった。
「……承知しました。先方への通達はこちらで」
「お願い」
コンコン、と扉が鳴った。
二人が振り返ると、アレクが扉にもたれて立っていた。
「なら、俺も奴との取引はやめだ」
リディアが驚いて目を向ける。
「アレク?」
「騒がしくてな。話は大体聞いた」
アレクは肩をすくめた。
「俺の傘下の商人たちにも伝えておこう。あいつと手を切らないと、お前との取引はできないんだろ?」
「……アレク様、本当によろしいのですか?」
カイルが念を押す。
「ああ。ヴァルデンとリディアじゃ、話にならない」
「……ありがとうございます」
リディアが頭を下げると、アレクは軽く手を振った。
「気にするな。俺も商売相手は選ぶ主義なんだ」
そう言って、彼は部屋を出ていった。
*
「リディア様は、意外と苛烈な一面をお持ちですね」
別室で、カイルが口を開いた。
「そうか?」
アレクは椅子に腰掛け、気楽な様子で脚を組んでいる。
「ええ。これまでのリディア様なら、まずは話し合いの余地を探されたでしょう」
「ふん。あれは元々、公爵家の娘だ。王妃教育も受けていたなら、そうした素地もあるだろうよ」
「楽しそうですね」
「……何がだ」
「いえ、別に」
カイルはわずかに口元を緩めたが、すぐに表情を戻した。
「それと、先ほど傘下に伝えておくと仰っていましたが、本気ですか?」
「もちろんだ」
アレクの声から軽さが消えた。
「あれは、手を出してはいけないものに手を出した」
「……ヴァルデンも、相手を間違えましたね」
*
数日後。
城の応接室に、怒りで顔を真っ赤にしたグスタフが乗り込んできた。
窓辺では、アレクが黙って腕を組んでいた。
「辺境の貧乏貴族が、何様のつもりだ! 商人たちに言うんだ、今すぐ取引を再開させろ!」
リディアは椅子に座ったまま、静かに彼を見返した。
「なぜです? 誰と商売するかは自由のはずです。私は取引先を選んだだけ」
「なぜ急にこんなことをするのだ!」
「グスタフ伯爵。貴方は先日、私の配下の者に何をしたのか、お忘れで?」
「砂糖には手を出していないだろう! 生意気な平民風情を叩きのめしただけだ!」
「……何ですって?」
リディアの声が低くなった。
グスタフは構わず、息を荒げた。
「お前のせいで、アルヴェニアの貴族商人たちとの取引がなくなったんだぞ!俺がどれだけの負債を抱えたと思っているんだ!」
リディアは冷たい目で彼を見た。
「それで?」
「俺には領民がいるんだぞ! 貴族が私怨でこんなことをして、許されると思っているのか!」
その言葉に、リディアはゆっくりと立ち上がった。
「領民の心配ですか」
一歩も引かず、グスタフを見据える。
「なら、お前の領地、私が買うわ」
「……は?」
グスタフの顔から、一瞬、怒りが消えた。
「な、何を言っている、この小娘がぁ!」
グスタフがリディアに掴みかかろうと踏み出した。
その前に、アレクが立ちはだかった。
「近づくな」
短い声に、グスタフの足が止まる。
「お前は誰だ! 無礼な! 私を誰だと思っている!」
「ただの投資家だよ」
アレクは涼しい顔で答えた。
「投資家だと……?」
グスタフは男の顔を睨みつけ、そして、息を呑んだ。
「あ……ッ、アレク殿……!」
アレクは人差し指を唇に当てた。
「シー」
グスタフの顔から、みるみる血の気が引いていく。
グスタフの唇が、震えながら動いた。
「な、なぜアルヴェニアの王家が、こんなところに……」
「声に気をつけろ」
アレクが低く告げた。
そして、グスタフの耳元に顔を寄せた。
「悪いな。あれは俺の気に入りだ。手を出して、ただで済むと思うな」
グスタフは口を開きかけ、閉じた。
目の前の男が誰なのか。それを知っているからこそ、何も言えなかった。
それでも、怒りだけは消えなかったらしい。リディアに向き直り、吐き捨てるように言う。
「あんな小汚い子どもが何だと言うのだ! 生意気だから躾を施しただけというのに、平民風情のために私がこんな目に!」
声が裏返る。
「調子に乗るのも今のうちだ! エルディアの貴族たちが許すものか! 覚えておくがいい!」
グスタフは捨て台詞を吐き、ふらつきながら部屋を出ていった。
扉が閉まる。
リディアは動かなかった。
握りしめた拳が白くなり、指先が震えている。
「リディア?」
アレクが振り返った。
返事はなかった。
リディアはその場に膝をつき、床に手をついた。アレクがすぐに傍らへ寄り、肩を支える。
「……止まらないのです」
声がかすれていた。
「あの……豚の息の根を止めなければ、と。怒りで震えて、抑えられない」
リディアは俯いたまま、震える手を握り込んだ。
「私は、こんな……こんな人間だったなんて」
アレクは彼女を見つめ、そっと背中に手を置いた。
「いいんだ」
「……」
「あいつは、お前の大切な人間を傷つけた。好きなようにやればいい」
アレクは、リディアの背中をぽん、ぽんと叩いた。
「豚の息の根を止めてやれ」
リディアは唇を噛んだ。
怒りは消えない。
今はただ、その怒りを止めることができなかった。




