第39話 領地を買う
翌朝。
カイルは、机に広げた書類を眺めていた。
グスタフ・フォン・ヴァルデン伯爵。
負債、収入、取引先。昨夜のうちに集めさせた資料には、伯爵領の現状がまとめられている。
アルヴェニアとの取引が途絶えれば、ヴァルデンの財政はさらに悪化する。すでに返済に窮している債権もあった。
そこへ、リヴェルから領地を買い取るという話を持ち込めば。
「……なるほど」
カイルは、書類を一枚めくった。
簡単ではない。領地の権利関係もあれば、債権者との交渉も必要になる。伯爵一人の意思だけで、すべてが決まるわけではない。
だが、道筋はある。
問題は、リディアが本気かどうか。
いや。
カイルは、すぐにその考えを打ち消した。
昨夜の彼女を思い出す。
震える手。抑えきれない怒り。そして、持て余した感情に戸惑う声。
あれは、本気だった。
グスタフを許すつもりなどない。
ならば、自分がすることは決まっている。
「ロイド」
「はい」
「ヴァルデン伯爵領の債権者に接触してくれ。返済条件の見直しと、債務の引き受けについて話を進めたい」
「承知しました」
「それから、領地の収入と負債の精査を。譲渡に必要な条件も洗い出しておいてくれ」
ロイドが一瞬、目を瞬いた。
「……本当に、領地を買い取るおつもりなのですね」
「彼女がそう望んでいる」
カイルは淡々と答えた。
それ以上の理由が必要だろうか。
「……承知しました」
ロイドはそれ以上尋ねず、一礼して部屋を出ていった。
カイルは再び書類に目を落とした。
褒められたやり方ではないかもしれない。
だが、誰かを傷つけた者が、何事もなかったかのように振る舞うことを許せない。それは、カイルにも理解できる感情だった。
まして、相手はリディアだ。
いつもは周囲のことを考え、必要以上に気を配り、自分の感情さえ後回しにする。
そんな彼女が、初めて自分の怒りを抑えられなくなった。
ならば、たまにはそれくらいのわがままを通してもいいだろう。
そのために自分が動くことに、迷いはなかった。
*
それから数日。
ヴァルデン伯爵領を取り巻く状況は、急速に変わっていった。
アルヴェニアの商人たちは取引を再開しない。債権者たちは返済を迫り、資金繰りはますます厳しくなる。
その頃、ヴァルデン伯爵邸では。
「……何だと? 融資を断られただと?」
グスタフは、報告に来た家令を睨みつけた。
「はい。これまで融資を受けていた商会からも、今回は応じられないと」
「馬鹿な。これまで何度も金を貸してきた相手だぞ!」
「先方は、アルヴェニアとの取引が再開されない限り、これ以上の融資は難しいと……」
グスタフは机を叩いた。
アルヴェニアとの取引さえ戻れば、まだ立て直せる。そう考えていた。
だが、商人たちは戻らない。
そして今度は、金を貸す者までいなくなった。
「……ほかには?」
絞り出すように尋ねる。
家令は、答えなかった。
その沈黙が、何よりも雄弁だった。
*
そこへ、負債を引き受ける代わりに、領地そのものを譲渡するという提案が持ち込まれた。
グスタフにとって、それは屈辱的な条件だった。
だが、ほかに道はない。
交渉は進み、必要な手続きが整えられていく。
リディアは、その報告を受けるたび、短く頷いた。
「そう。では、その条件で進めてちょうだい」
細かな交渉はカイルに任せていた。
彼ならできる。
それを疑ったことはない。
そして、カイルは期待を裏切らなかった。
気づけば、グスタフには、もうほとんど何も残されていなかった。
*
「頼む! どうか、頼む!」
応接室に、グスタフの声が響いた。
「アルヴェニアにも、とりなしてくれ! 取引を再開できるようにしてくれれば、まだ何とかなるのだ!」
目の前の男は、以前とは別人のようだった。
身なりは乱れ、顔には疲労が浮かんでいる。あれほど尊大だった態度も、今は見る影もない。
リディアは、椅子に座ったまま彼を見つめていた。
「すまなかった。あれは、少しばかり腹が立って……」
グスタフは言い訳を重ねる。
「もう分かった。私が悪かった。だから、頼む!」
リディアは、ゆっくりと口を開いた。
「話すことはないわ」
グスタフの声が止まった。
「……なっ」
「お引き取りを」
それだけだった。
グスタフは、目を見開いたままリディアを見つめている。
助けを求めた相手から返ってきたのは、あまりにも簡潔な答えだった。
「な、何だと……! 私は、領民を抱えているのだぞ!」
リディアの表情は変わらなかった。
「その民を、平民風情と呼んだのは貴方よ」
グスタフは口を開き、何かを言いかけた。
しかし、言葉は続かなかった。
やがて、彼は肩を落とし、うなだれたまま部屋を出ていった。
扉が閉まる。
静寂が戻った。
リディアは、しばらくその扉を見つめていた。
「……お嬢様」
カイルの声に、彼女は顔を上げた。
「やめてちょうだい。貴方にそう呼ばれると居心地が悪いのよ」
「……リディア。大丈夫か?」
「ええ」
そう答えたものの、声はわずかにかすれていた。
自分でも分かっている。
グスタフを許す気などなかった。
ニコを傷つけたことも、あの子を平民風情と嘲ったことも。何もかも、許せなかった。
だから、彼を追い詰めた。
自分の力を使って。
相手が何を失うのかも承知のうえで。
それなのに。
いざ目の前で助けを求められても、少しも心が動かなかった。
かつての自分なら、どうしていただろう。
相手の事情を聞き、落としどころを探し、できるだけ穏便に済ませようとしたのではないか。
それが正しい振る舞いだと、ずっと教えられてきたのだから。
けれど、今の自分は違った。
許さないと決めた相手に、手を差し伸べる気はなかった。
「……私、ひどいことをしたかしら」
ぽつりと漏れた言葉に、カイルはすぐには答えなかった。
やがて、彼は静かに口を開く。
「領地のことなら、これから整えていけばいい。必要な手続きも、領民への対応も、私が手配する」
「……そうではなくて」
「分かっている」
カイルは、彼女の言葉を遮らずに続けた。
「だが、リディアが何を許せなかったのかは、私も知っている」
リディアは黙った。
「私は、リディアの決断を実行しただけだ。今さら、それを気に病む必要はない」
カイルはそれ以上、何も言わなかった。
正しかったとも、間違っていたとも言わない。
ただ、彼女が選んだことを、彼女のそばで支える。
リディアは、ゆっくりと息を吐いた。
「……ありがとう、カイル」
「どういたしまして」
いつもと変わらない声だった。
その声を聞いて、リディアはようやく肩の力を抜いた。
グスタフへの怒りは、まだ消えていない。
自分の中にあるものを、すべて理解できたわけでもない。
それでも。
ここでは、自分の意思で決めていい。
誰かに許されるのを待たなくてもいい。
リディアは、窓の外へ目を向けた。
領地を手に入れた以上、やるべきことは山ほどある。
今度は、あの土地をどうするか。
それを決めるのも、自分自身だった。
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次回から、舞台は王都へ。




