第36話 帰還
「リディア様っ!」
執務室の扉が、叩きつけるように開いた。
振り返ったリディアの目に、よろめきながら駆け込んでくるハンナの姿が映る。
顔は真っ青で、唇は震えていた。
「ハンナ?」
「ニコが……ニコが……」
言葉が続かない。
ハンナは胸元を押さえ、息を詰まらせた。
「どうしたの? 何があったの?」
「ああっ……助けてください!」
ハンナの膝から力が抜ける。
リディアはすぐに駆け寄り、その身体を支えた。
「ハンナ、落ち着いて。ゆっくり息をして」
「ニ、ニコが……重症です……!」
「……重症?」
その言葉を聞いた瞬間、リディアの表情が凍りついた。
「今、馬車が……戻って……城門に……」
「カイル!」
リディアが振り返る。
声が震えていた。
「医者を呼んで! 担架も! 急いで、ケガ人を運ぶの!」
「急げ!」
カイルの怒鳴り声が、城内に響き渡った。
リディアはハンナを支える使用人に任せると、返事を待たずに走り出した。
城門の前には、一台の荷車が止まっていた。
周囲には、血の臭いが漂っている。
荷台から、赤黒い雫が地面に落ちていた。
ぽたり。
ぽたり。
その下に――
「……ニコ!」
血まみれの少年が横たわっていた。
顔は腫れ上がり、額から頬にかけて深い傷が走っている。
衣服は裂け、肌には無数の打撲痕が浮かんでいた。
片腕は不自然な角度に曲がり、胸はかすかに上下しているだけだった。
呼吸のたびに、喉の奥から苦しげな音が漏れる。
「ニコ!」
リディアが荷台に駆け寄った。
その隣には、ガレスも横たわっていた。
肩から脇腹にかけて血が滲み、片手で傷口を押さえている。
指の隙間から、止まらない血が流れていた。
顔色は悪く、額には脂汗が浮かんでいる。
それでも、意識だけは失っていなかった。
「……リディア……さま……」
ニコの瞼が、わずかに動いた。
「ニコ!」
リディアは荷台に手をつき、身を乗り出した。
「ここにいるわ。聞こえる? 私が分かる?」
「……た……だいま……」
かすれた声だった。
それだけの言葉を口にするだけで、ニコの胸が大きく上下する。
リディアは震える手で、その手を握った。
冷たい。
あまりにも冷たかった。
「喋らないで。すぐに治療するから。大丈夫よ」
そう言い聞かせながら、リディアは自分の声が震えていることに気づいた。
医師たちが駆けつけ、ニコの身体を確認する。
「脈が弱い!」
「出血がひどい。すぐに治療室へ!」
「腕の骨折もあります。動かさないで!」
次々に飛び交う声が、リディアの耳を刺した。
その隣で、ガレスが身を起こそうとした。
「……すいません……」
「ガレス!」
リディアが振り向く。
「動かないで!」
「俺が……いながら……」
ガレスの身体が大きく揺れた。
次の瞬間、口元から血が滲む。
「ゴホッ……ゴホッ……!」
「ガレス!」
カイルが支えようとする。
だが、ガレスはその手を振り払おうとした。
「ニコを……」
息が続かない。
それでも、必死に言葉を絞り出す。
「ニコを……助けてやって下さい……」
「分かっているわ!」
リディアの声が、初めて大きく響いた。
「あなたも重傷よ! もう喋らないで!」
ガレスは何かを言おうとした。
しかし、力尽きたように目を閉じる。
「ガレス!」
「意識が落ちた!」
医師が叫んだ。
「こちらも急いで運べ!」
「二人とも治療室へ!」
カイルが指示を飛ばす。
担架が運び込まれ、ニコとガレスが慎重に移されていく。
そのとき、荷車を引いてきた男の一人が、低い声で呟いた。
「……すまねえ」
リディアが顔を上げる。
「何が?」
「止めることが……できなかった」
男は荷台に残った血を見つめていた。
「俺たちが見つけたときには、もう……」
言葉を濁す。
リディアは、運ばれていくニコを見た。
小さな身体が、担架の上でかすかに揺れている。
「……急いで治療して」
声は低かった。
「この子たちを、絶対に助けて」
「はい!」
医師たちが治療室へ走っていく。
カイルは、荷車を引いてきた男たちに向き直った。
「あなた方が二人を運んでくれたのか」
「……ああ」
「感謝する」
カイルは短く頭を下げた。
「詳しい話は後で聞かせてもらいます。まずは二人の治療を優先します」
「リディア様……」
背後から、ハンナの声が聞こえた。
使用人に支えられながら、ハンナがこちらへ近づいてくる。
その視線が、治療室へ運ばれていくニコを捉えた。
「……ニコ……」
次の瞬間、ハンナの身体から力が抜けた。
「ハンナ!」
カイルが慌てて支える。
「ハンナを休ませて!」
「はい!」
使用人たちがハンナを支え、別の部屋へ連れていく。
リディアは、その場に立ち尽くしていた。
ニコの血が、まだ手のひらに残っている。
冷たい手。
浅い呼吸。
消え入りそうな声。
それらが、何度も脳裏に蘇った。
胸の奥が締めつけられる。
怖かった。
このまま、ニコが戻ってこなかったら。
ガレスまで失ったら。
そう考えた瞬間、リディアの指が強く握り込まれた。
爪が掌に食い込む。
震えは、いつの間にか止まっていた。
動揺の奥から、別の感情がせり上がってくる。
冷たく、鋭く、燃えるような怒り。
リディアは、荷車を引いてきた男たちへゆっくりと振り返った。
「……あなたたち」
男たちの表情が強張る。
「この方たちをお通しして」
「いや、俺たちは……」
「こちらへ」
カイルが静かに促した。
その声には、拒否を許さない硬さがあった。
男たちは互いに顔を見合わせる。
城門の外へ戻ることもできた。
だが、誰も動かなかった。
やがて一人が、重い足取りで歩き出す。
残りの男たちも続いた。
リディアは、その背中を見つめていた。
治療室の扉が閉じる。
その向こうから、医師たちの慌ただしい声が聞こえてくる。
リディアは一度だけ扉を振り返った。
そして、男たちの後を追った。
* * *
別室。
扉が閉じると、外の喧騒が遠のいた。
男たちは部屋の中央に立たされている。
リディアは、その正面に腰を下ろした。
カイルは扉のそばに立ち、逃げ道を塞いでいる。
誰も口を開かなかった。
沈黙の中で、壁時計の針の音だけが響く。
カチ、カチ、カチ。
リディアは、男たちの顔を一人ずつ見た。
先ほどまでの動揺は、もう残っていない。
灰色の瞳には、冷たい光が宿っていた。
「……あれは」
リディアが静かに口を開く。
「人にやられた跡よね?」
男たちは答えなかった。
視線を逸らす者。
拳を握りしめる者。
互いに目を合わせる者。
その反応だけで、リディアには十分だった。
ニコとガレスは、事故に遭ったのではない。
誰かに襲われたのだ。
「誰が」
リディアの声は低かった。
男たちの間に、重い沈黙が落ちる。
一拍。
さらに一拍。
リディアは、ゆっくりと身を乗り出した。
「何をしたの?」
返事はない。
その沈黙が、リディアの怒りをさらに深くする。
彼女は机の上に手を置いた。
指先に、まだニコの血が残っている。
「ニコに」
静かな声だった。
だからこそ、男たちは息を呑んだ。
「何をしたのか、言いなさい」
灰色の瞳が、男たちを射抜く。
「誰が、あの子をあそこまで傷つけたのか」




