第29話 守るもの
「……これで、返せます」
リディアは、机の上に置かれた袋を見つめた。
中に入っているのは、硬貨だった。
千ペクト。
あの日、アレクから借りた金。
リヴェルがまだ、何も持っていなかった頃。
麦を作り、川を直し、砂糖を作り、菓子を売る。
そうして、ようやくここまで来た。
「約束していましたから」
リディアは袋を持ち上げた。
「一年で、返すって」
「そうだったな」
向かいに座るアレクが、袋を見る。
「中身は?」
「千ペクトです」
「分かっている」
「……?」
アレクは袋から目を離した。
「利益は?」
「利益?」
「お前が、この一年で稼いだ利益だ」
リディアは少し考えた。
「もちろん、全部を正確に計算できているわけではありません。でも、工場を作って、設備を増やして、人も増やして……それでも、少しずつ残るようになってきました」
「そうか」
「ですから、借りた分を返して、利益も一緒に――」
「逆だ」
「……え?」
アレクは、あっさりと言った。
「返す必要はない」
「でも、借りたものです」
「だから返せと言っているんじゃない」
リディアは眉を寄せた。
「では……?」
「その千ペクトを、もう一度使え」
「……使う?」
「ああ」
アレクは椅子から立ち上がった。
「いや」
そして、袋を押し返す。
「その二十倍だ」
「……?」
「二万ペクト投資する」
リディアは、しばらく何も言えなかった。
「二万……?」
「そうだ」
「二十倍ですよ?」
「知っている」
「なぜですか?」
アレクは少しだけ笑った。
「一年で千ペクトを返せるなら、千ペクトを返させる意味がない」
「……」
「なら、次は二万ペクトを使えばいい」
リディアは袋を見つめた。
「でも、そんなに使って……」
「何に使うかは、お前が決めろ」
「……」
「工場を大きくする。畑を増やす。新しい商品を作る。輸送を整える。人を雇う」
アレクは一つずつ指を折った。
「お前なら、使い道はいくらでも思いつくだろう」
「それは……」
リディアは言葉を失った。
「ただ返すだけでは、もったいない」
アレクが言った。
「せっかくここまで作ったんだ。もっと大きくしてみろ」
「……アレク様」
「利益が出たら、その時に返せばいい」
「でも、それでは借金が……」
「投資だ」
アレクは言った。
「私は、お前に貸しているんじゃない」
「……投資?」
「ああ」
その言葉を聞いて、リディアはもう一度、机の上の袋を見た。
千ペクト。
最初は、ただ生き残るために借りた金だった。
けれど今は。
それを元手に、砂糖が生まれ、菓子が生まれ、仕事が生まれた。
そして、人が戻ってきた。
リヴェルそのものが変わり始めている。
「……分かりました」
リディアは袋を押し戻した。
「では、使わせてください」
「ああ」
「必ず、もっと大きくして返します」
アレクは笑った。
「それを聞きたかった」
*
その日の午後。
工場では、いつもと変わらず人が働いていた。
砂糖を作る者。
菓子を焼く者。
箱を作る者。
材料を運ぶ者。
帳簿をつける者。
工事をする者。
以前なら、村にはなかった仕事ばかりだった。
リディアは工場の中を歩きながら、作業の様子を見ていた。
「この設備は、もう少し大きくできますか?」
「できます」
エドが答える。
「水車の動力をこちらへ回せば、今より効率を上げられます」
「では、お願い」
「はい」
少し離れた場所では、バルトが新しい道具を試している。
人が増えた。
仕事も増えた。
それでも。
リディアはふと、工場の入口を振り返った。
「……」
誰かが見ている。
そんな気がした。
「お嬢様?」
カイルが声をかける。
「いえ……」
リディアは首を振った。
「何でもないわ」
*
その日の夕方だった。
「うわぁぁぁ、いてててて!」
突然、外から叫び声が響いた。
「……?」
リディアが顔を上げる。
工場の中にいた者たちも、一斉に入口を見る。
「何ごと?」
リディアが外へ出る。
すると。
「お嬢様」
カイルがいた。
その手には、一人の男の襟首が掴まれている。
男は地面に引きずられ、泥だらけになっていた。
「うわっ、痛い! 離せ!」
「黙れ」
「痛いって!」
カイルは男を地面に座らせた。
「工場を覗いていました」
「……え?」
「何をしていたの?」
リディアが尋ねる。
男は答えない。
カイルが男の懐を探る。
そこから、一枚の紙が出てきた。
「これは?」
リディアが受け取る。
簡単な図だった。
工場の配置。
倉庫。
水車。
人の出入り。
「……」
リディアの表情が変わった。
「誰に頼まれたの?」
「知らねえ!」
「本当に?」
「俺は何も――」
「アルヴェニアの商人の手下のようです」
カイルが言った。
「……アルヴェニア?」
リディアは紙を見る。
菓子を売っている。
砂糖も売っている。
注文も増えている。
そして。
工場で、これまで誰も見たことのない方法で砂糖を作っている。
知られて当然なのかもしれない。
「……そう」
リディアは男を見た。
「工場の中に入ったの?」
「入ってねえ!」
「でも覗いていた」
「そ、それは……」
「何を見ていたの?」
「……」
男が黙る。
カイルが一歩前へ出た。
「答えろ」
「砂糖を作ってるところを……」
「他には?」
「……機械を」
「誰から聞いた?」
「知らねえって!」
カイルは男を見下ろした。
その目には、冷たい光があった。
「なるほど」
カイルがリディアを見る。
「お嬢様」
「はい」
「技術の秘匿と、警備を強化したほうがよいでしょう」
リディアは工場を振り返った。
中では、何も知らない人たちが働いている。
砂糖を作っている。
菓子を作っている。
リヴェルの未来を作っている。
それを。
外から見ている人間がいる。
「……そうですね」
リディアは頷いた。
「今まで、村の中だから大丈夫だと思っていました」
「もう、その段階ではありません」
「ええ」
カイルが続ける。
「商品だけではありません。砂糖を作る方法も、工場の仕組みも、技師たちも守る必要があります」
「……人も?」
「はい」
リディアは黙った。
技術だけではない。
それを知っている人間がいる。
作れる人間がいる。
働いている人間がいる。
その全部が、リヴェルの力なのだ。
「私の部下を呼びます」
「軍の?」
「はい」
「私の右腕だった者達です。お許しを?」
「こんなところに来てくれるかしら?」
「それは彼らが決めることです」
「分かりました。お願いします」
「この者は?アルヴェニアへ送り返す?」
リディアが尋ねる。
「その前に、もう少し話を聞きます」
「お願いします」
「はい」
カイルは男を立たせた。
「来い」
「痛いって!」
「歩け」
「はい……」
*
数日後。
リヴェルの入口に、二人の男女が立っていた。
水色の髪に、軽薄そうな顔立ち。けれど、背筋だけは、嘘のようにまっすぐな青年。
その隣には、赤い髪を高く結んだ、凛とした女性が立っている。
二人とも軍人らしい服装ではない。
だが、立ち方が違う。
周囲を見ている。
村の道。
建物。
人の流れ。
工場。
そして、屋敷。
「……本当に、ここなのか?」
男が呟いた。
「そうらしいわ」
女が答える。
「カイル様がいる場所が、こんな……」
男は言葉を止めた。
確かに、田舎だった。
だが。
工場から人が出入りしている。
荷車が行き交っている。
村人たちが忙しそうに働いている。
以前聞いていた「辺境の小さな村」とは、少し違っていた。
「それでも……」
男が言う。
「なぜだ?」
「何が?」
「なぜ、カイル様がここにいる」
女は答えなかった。
その疑問は、彼女も同じだった。
*
「久しぶりだな」
カイルが二人を見た。
「カイル様」
男が頭を下げる。
女も続いた。
「お久しぶりです」
「よく来た」
カイルは二人を屋敷の外へ連れ出した。
「ここが、私のいる場所だ」
二人は周囲を見る。
「……ずいぶん変わりましたね」
女が言った。
「ああ」
「なぜです?」
男が尋ねた。
「軍を辞めて、わざわざ隣国の田舎へ来る理由が、私には分かりません」
「そうか」
「カイル様ほどの方が、こんな場所で……」
「こんな場所?」
カイルの声が少し低くなる。
男は口を閉じた。
「確かに、ここは田舎だ」
カイルは工場を見る。
「だが、発展性はある」
「それは、見れば分かります」
女が言った。
「砂糖、菓子、工場。アルヴェニアでも噂になっています」
「ならば分かるだろう」
「ですが」
男が言った。
「それでも、納得できません」
カイルは二人を見る。
「なら、帰れ」
「……!」
「私についてくる気がないなら、帰れ」
二人は黙った。
しばらくして。
「……私たちは」
女が口を開く。
「あなたについてきました」
「ああ」
「戦場でも、ずっと」
「そうだな」
「私たちは、とうにカイル様に命を捧げている身です」
「そうか」
カイルは淡々と答えた。
「だが」
二人が顔を上げる。
「私の主は、お嬢様だ」
「……!」
男が目を見開く。
「カイル様……」
「どうする」
しばらく、誰も話さなかった。
やがて。
女が静かに頭を下げた。
「……ならば、それに従うまでです」
男も続く。
「承知しました」
カイルは頷いた。
「そうか」
一歩、二人へ近づく。
「なら、肝に銘じろ」
「はっ」
「ここで守るべきものは、私ではない」
二人は黙って聞いている。
「お嬢様だ」
「はっ」
「そして、お嬢様が守ろうとしているものすべてだ」
「承知しました」
カイルは満足そうに頷いた。
「そうだ」
そして、ふと思い出したように言う。
「一人、鍛えてほしい奴がいる」
「誰です?」
「見込みがある」
二人の表情が変わった。
「どの程度の訓練を?」
「最短で鍛えろ」
「承知しました」
女が尋ねる。
「怪我は、どこまで許容されますか?」
カイルは少し考えた。
「骨折までだ」
「……承知しました」
女は真顔で頷いた。
男が横で小さく息を吐く。
「相変わらずですね」
「何がだ?」
「カイル様です」
カイルは聞こえないふりをした。
「しばらくは、職人たちが常駐している宿に滞在してくれ。頼んだぞ」
「はい」
「承知しました」
二人が頭を下げる。
カイルはそのまま、その場を去っていった。
その背中を見送りながら、男が女へ小さく声をかける。
「……でも」
「何?」
「カイル様、なんか楽しそうだな」
「……私も、そう思う」
二人は顔を見合わせた。
そして。
初めて少しだけ笑った。
*
その夜。
リディアは机に向かっていた。
目の前には、昼間の男から押収した紙。
工場の図。
倉庫。
水車。
人の動線。
知られてはいけないものが、少しずつ外へ漏れ始めている。
リディアは紙を見つめた。
アレクから借りた千ペクトを返せるようになった。
そして今度は、その二十倍を投資してもらった。
もっと作れる。
もっと売れる。
もっと人を増やせる。
もっと、この場所を豊かにできる。
けれど。
大きくなればなるほど。
目を向ける人間も増える。
「……守らないと」
リディアは呟いた。
豊かになること。
人が増えること。
仕事が増えること。
それだけでは足りない。
作ったものを守る力も必要になる。
リディアは、窓の外を見る。
夜のリヴェルには、まだ明かりが少ない。
それでも。
工場の一角には、遅くまで働く人の灯りが見えていた。
あの明かりを。
この土地を。
ここで暮らす人たちを。
守らなければならない。
リディアは、静かに紙を折った。
「……カイル」
「はい」
いつの間にか、後ろに立っていた。
「これから、忙しくなりそうですね」
「ええ」
カイルは答えた。
「ですから、忙しくなる前に準備しておきます」
「何を?」
カイルは、ほんの少しだけ笑った。
「リヴェルを守る準備を」
リディアは、その言葉を聞いて。
小さく頷いた。
「……お願いします」
「お任せください」
窓の外で。
リヴェルの夜が静かに広がっていた。




