第30話 剣を取る
翌朝。
夜明けの畑には、朝露が残っていた。湿った土の匂いを吸い込みながら、ガレスはいつものように鍬を担いで歩いていた。
昨日までと何も変わらない朝だった。
土を耕し、作物の様子を見て、必要なら水をやる。
それが自分の仕事だと思っていた。
「ガレス」
背後から声がした。
振り返ると、カイルが立っている。
「はい」
「来い」
「……どこへ?」
「鍛える」
「……何を?」
カイルは、ほんの少しだけ眉を動かした。
「剣だ」
「……」
ガレスは固まった。
「今日からですか?」
「ああ」
「は、畑は……」
「代わりはいる」
「でも……」
「行くぞ。……やめるか?」
「!!」
「やめません!」
ガレスは慌てて姿勢を正した。
「ふっ。なら行くぞ」
「はい!」
ガレスは鍬を置くと、カイルの方へと走り出した。
*
村の外れ。
刈り入れの終わった草地に、乾いた風が吹いていた。
二人の男女が立っている。昨日、カイルが呼び寄せた二人だった。
「紹介する。私の部下だ」
「ロイド、ミレイユ」
カイルが見やると、二人が前に出た。
「ロイドです。よろしくお願いします」
軽薄そうな笑みのまま、けれど頭の下げ方だけは、妙に行儀がよかった。
「ガレスと言います。よろしくお願いします」
ガレスが頭を下げる。
ただ立っているだけなのに、軍人だったことが分かる。
「ミレイユよ。よろしく」
「よろしくお願いします」
ミレイユにも頭を下げる。
赤い髪を高く結んだ彼女も、静かな佇まいだったが、その目はガレスの全身を一瞬で見ていた。
手。
肩。
腰。
足。
まるで何かを測るような視線だった。
「こいつを鍛えてほしい」
カイルが二人に言った。
「最短で頼む」
「承知しました」
ロイドが答える。
ミレイユも頷いた。
「では早速始めましょう」
「まず構えから」
「はい」
ミレイユは木剣をガレスに渡した。
「右足を少し引いて」
「こうですか?」
「もう少し」
「こう?」
「はい。そのまま腰を落として」
「……こう?」
「そうです」
ガレスは言われた通りに身体を動かす。
何度か直されるうちに、少しずつ形になっていった。
「腕は力を入れすぎないで」
「はい」
「視線は剣ではなく、相手を見る」
「相手……」
「そうです」
ガレスは前を見る。
ミレイユを見る。
木剣を構える。
「……悪くありませんね」
「本当ですか?」
「ええ。少なくとも、構えはそれらしくなりました」
ロイドも横から見る。
「覚えるのは早いですね」
「そうですか?」
ガレス自身には、特別なことをしているつもりはなかった。
生まれた時から貧しい村に育ち、年頃になった頃には、ハンナの夫が無理をしてあっけなく死んでしまった。それからはハンナとニコをなんとかして飢えさせないように必死だった。
畑がダメな時には、なんでもやらねばならなかった。
だから、仕事を覚えるのは早かった。
鍬を扱う時も、足や腰をどう使えば身体が楽に動くのか。どこに力を入れればいいのか。そういうことを、ひとつずつ身体で覚えてきた。
もしかしたら、それが今も活きているのかもしれない。
「ふむ。いいでしょう」
「では」
ミレイユが木剣を構えた。
「実践でいきましょう」
「……実践?」
「避けてください」
「え?」
次の瞬間。
バシィッ!
「うわっ!」
ガレスの木剣が弾かれた。
「ええっ!?」
間髪入れず、今度は肩を打たれる。
バンッ!
「痛っ!」
「避けてください」
「ちょ、たんま!」
「待ってください!」
「待ちません」
「いや、ちょっと!」
ミレイユの木剣が迫る。
「避けて」
「うわっ!」
ガレスが慌てて身体を捻る。
間一髪でかわした。
「……!」
ミレイユの目が、ほんの少し細くなった。
今の動きは悪くない。
だが――
「まだ遅い」
ドカッ!
「ぐっ!」
ガレスが吹き飛ぶ。
「いてぇ……」
地面に転がった。
ロイドが淡々と近づく。
「立てますか?」
「……はい」
「では、立ってください」
「え?」
「続きです」
「ちょっと待って!」
ガレスが慌てて起き上がる。
「今、思いっきり打たれましたよね!?」
「はい」
「痛いです!」
「でしょうね」
「……?」
「避けなければ、打たれます」
ミレイユが木剣を構え直す。
「止めなければ、死にます」
「……」
「打たなければ、打ち負けます」
ガレスはごくりと唾を飲み込んだ。
「カイル様は最短でとおっしゃった。騎士が使う剣術を、一から覚えている時間はありません」
ミレイユは静かに言った。
「あなたは先に、実践で感覚を掴むほうが早いでしょう」
「……俺、剣なんて触ったこともないんですけど」
「そうですか」
「戦ったこともありません」
「なるほど」
ミレイユは少し考えた。
「では、なおさらです」
「え?」
「まずは、死なないことから覚えましょう」
「……」
ガレスの顔が引きつった。
「では、参ります」
「ちょ――」
ドカァッ!
「うわぁぁぁぁぁ!」
ガレスが転がった。
*
「大丈夫ですか?」
「……はい……」
「骨は?」
「たぶん……」
ロイドがガレスの腕を確認する。
「折れていませんね」
「……」
「では」
ミレイユが木剣を構える。
「参ります」
「え?えええええええッ??!!!」
ドカァッ!
「うわぁぁぁぁぁ!」
「ちょっと待ってください!」
「待ちません」
「いや、俺まだ立って――」
「立ってください」
「……」
ガレスは、めまいと鈍い痛みを覚えながらも、なるほどと思った。剣とはこういう世界なのだ。自分が踏み出そうとしている世界は。なら、やるしかないのだと。そして、ふらつきながら立ち上がった。
「構えて」
「はい……」
「避けて」
「はい!」
今度は、先ほどより早く身体を動かした。
木剣が、頬をかすめた。風を切る音が、耳のすぐ横で鳴る。
「……!」
当たらなかった。
ガレス自身が一番驚いていた。
ミレイユも、ほんの一瞬だけ目を見開く。
「今のは良かったです」
「……本当ですか?」
「ええ」
ガレスの顔が少し明るくなる。
だが。
「では、もう一度」
「え?」
ドカァッ!
「うわぁぁぁぁぁ!」
再び地面に転がった。
「……」
ロイドが横を向いた。
肩が震えている。
「ロイドさん?」
「いえ」
「今、笑いました?」
「笑っていません」
「絶対笑ったでしょう!この人!」
ミレイユまで、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「元気ですね」
「元気じゃないです!」
少し離れたところでは、カイルが腕を組んで見ている。
その口元も、わずかに緩んでいた。
*
その後も、数えきれないほど転がされ、数えきれないほど立ち上がった。
でも剣はまともに振れない。
避けることも、止めることもできない。
それでも。
「もう一度」
「……はい!」
ガレスは立ち上がる。
「もう一度」
「はい……!」
また倒れる。
それでも、立つ。
少しずつ。
本当に少しずつ。
木剣が当たる場所が変わってきた。
最初は身体の中心だった。
次は肩。
その次は腕。
そして。
「……今の」
ロイドが呟いた。
ガレスが転がりながらも、木剣を避けた。
「避けましたね」
「……はい」
ガレスは息を切らしながら答えた。
「なんか、見えたかも……」
「見えた?」
「はい」
ガレスは自分でも不思議そうに言った。
「剣先が動くのが……なんとなく」
ミレイユは黙ってガレスを見る。
まだ遅い。
まだ素人だ。
だが、相手を見て身体を動かし、失敗すれば次に修正する。そうやって何度でも繰り返せることが、ガレスの強みだった。
そして何より。
「もう一度、やります」
根性がある。
ミレイユが少しだけ笑う。
「では、もう一度」
「はい!」
*
夕方。
西日が、訓練場の草を赤く染めていた。地面に座り込んだガレスの影が、長く伸びている。
そこへ、リディアがやって来た。
「ガレス?」
「……リディア様」
「どうしたの?」
「大丈夫です……」
「顔が大丈夫じゃないわ」
「大丈夫です……」
ガレスは立ち上がろうとした。
しかし、足がふらつく。
リディアが慌てて支える。
「無理しないで」
「すみません……」
その後ろから、ミレイユが近づいてきた。
「本日はここまでにします」
「そう。ありがとう」
「明日も同じ時間から始めます」
「……明日も?」
ガレスの顔から血の気が引いた。
「はい」
「……」
リディアがガレスを見る。
「剣の訓練をしていたの?」
「……はい」
「そうだったのね」
ガレスは小さく頷いた。
「俺、自分で選んだから……」
その言葉に、リディアは少しだけ目を細めた。
「ええ」
そして、優しく笑う。
「頑張ってね」
「……はい」
ガレスは答えた。
疲れていた。
身体中が痛かった。
それでも、ほんの少しだけ、自分にもできるかもしれないと思えた。
「カイル」
「はい」
リディアが振り返る。
「少し厳しすぎない?」
「本人が望んだことです」
「そうだけど……」
「それに」
カイルはガレスを見る。
「覚えるのは早い」
「本当に?」
「はい。失敗したあと、同じ動きを繰り返さない」
カイルは静かに続けた。
「あれは、鍛える側にとって重要なことです」
ガレスは少しだけ顔を上げた。
今日、一度だけ木剣を避けることができた。
ほんの一瞬だったけれど、昨日までの自分にはできなかったことだ。
なら、明日は今日より少しだけ、その先へ行けるかもしれない。
「では、明日は今日より厳しくします」
ミレイユが言った。
「……」
ガレスの顔が固まる。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
リヴェルの夕暮れに、悲鳴が響いた。
リディアは驚いて目を丸くし。
ロイドはとうとう笑いをこらえきれなくなった。
そしてカイルは。
やはり、少しだけ楽しそうだった。
*
数日後。
カイルの姿を見かけない日が続いていた。
朝から晩まで、どこかへ出かけているらしい。
戻ってきたかと思えば、また誰かと話し込んでいる。
「……最近、何をしているのかしら」
訓練場の端で、リディアは首を傾げた。
その視線の先で、カイルは書類を抱えた商人らしい男と、足早に村の外へ向かっていた。
最後までお読みいただきありがとうございました!
ほんの少しでも「面白かった」「続きが読みたい」と感じていただけましたら、下部からブックマークやポイント評価(★★★★★)で応援していただけると非常に嬉しいです。
毎日更新しております。次回もお楽しみに!




