第10話 嵐の中で
雨が降り始めた。
最初は、ぽつり、ぽつりと降っていた雨が、やがて途切れることなく地面を叩き始めた。
「……強くなってきましたね」
ガレスが空を見上げる。
「ええ」
リディアは答えながら、麦畑を見つめていた。
風に煽られ、麦が大きく揺れている。まだ倒れてはいない。
排水路には、勢いよく水が流れていた。
「こっちは大丈夫です!」
少し離れたところから、男の声が飛んできた。
「水がちゃんと流れてます!」
「分かったわ!」
リディアは頷いた。
冬の間、何度も掘り直した。水が流れるか、どこで詰まるか。雨が降るたびに確かめた。
その成果が、今、目の前にある。
けれど。
「川は……?」
ガレスが呟いた。
リディアは川の方へ視線を移した。
「見に行きましょう」
「はい」
ガレスと数人の男たちが、リディアについて川へ向かう。
雨が顔を打つ。足元はぬかるみ、靴が何度も土に取られた。
川が見えてくる。
「……っ」
男の一人が息を呑んだ。
水位が高い。いつもの川とは、まるで違う。
濁った水が轟音を立てながら流れている。
「去年より……高くないか?」
「まだ、上がってる」
ガレスが川岸に近づいた。
「お嬢様、ここは……」
「近づきすぎないで」
リディアが止める。
「足元を持っていかれるわ」
「はい」
ガレスが一歩下がった。
全員が黙って川を見つめる。
雨はさらに強くなった。川の水が、ゆっくりと川岸を削っていく。
「……補強したところは?」
「東側は、まだ大丈夫です」
「北側もです」
男たちが答える。
「西側は?」
「……少し、怪しいです」
その言葉に、リディアは川を見つめた。
「西側へ行きましょう」
「危険です」
ガレスが止める。
「でも、確認しないと」
「俺たちが見てきます」
「……お願い」
ガレスたちが西側へ走っていく。
リディアはその場に残った。
雨がさらに強くなり、川の音も大きくなる。
「……お願い」
思わず、呟いた。
しばらくして。
「お嬢様!」
遠くから声が聞こえた。
ガレスだった。
「どう?」
「まだ持ってます!」
「よかった……」
リディアは胸を撫で下ろす。
「でも、川の水がかなり上がってます!」
「分かったわ!」
そのとき、別の男が走ってきた。
「畑の方が!」
「どうしたの?」
「水が溜まり始めています!」
リディアはすぐに畑へ戻った。
「どこ?」
「こっちです!」
畑の一角に、水が集まり始めている。
排水路は流れている。けれど、一部の水が別の方向へ逆流していた。
「……出口が詰まってる」
リディアが呟いた。
「石をどけましょう!」
男たちが動く。
泥を掘り、石を動かす。一度は水が流れた。けれど、すぐにまた滞った。
「まだ、ここが高い!」
リディアが叫んだ。
「もっと深く!」
男たちが鍬を入れる。
雨の中、土が崩れる。それでも、少しずつ水の流れが変わっていく。
「流れた!」
誰かが叫んだ。
排水路から溢れかけていた水が、意図した方向へ流れ始めた。
リディアは息を吐いた。
「……よかった」
*
雨は、一晩中降り続いた。
夜が明けても、止まなかった。
川はさらに膨らんだ。
村人たちは不安そうに川を見る。
「まだ上がるのか……」
「これ以上は……」
けれど、畑の水は流れている。
高くした畝は崩れていない。排水路も、何とか水を流し続けている。
地下に作った暗渠も、少しずつではあるが水を逃がしていた。
「……持ってる」
誰かが呟いた。
「畑が、持ってるぞ」
ガレスも息を切らしながら畑を見渡した。
「去年なら……もう全部水の中でした」
その言葉に、周囲の男たちが頷く。
「そうだ」
「去年は畑が全部……」
「今年は、まだ残ってる」
そのとき。
「西の畑が少しやられた!」
見回りに行っていた男が戻ってきた。
村人たちの顔が強張る。
「どのくらいだ?」
「端の方が少しです!」
「麦は?」
「一部、倒れています。でも……」
男は息を整えながら、畑の方を振り返った。
「……だが、少しだ」
誰も何も言わなかった。
男はもう一度言った。
「本当に、少しなんだ」
その言葉を聞いて、誰かがゆっくりと息を吐いた。
「……少し」
「ああ」
「去年とは、全然違う」
別の男が畑を見た。
倒れている麦はある。水の入った場所もある。
けれど、村の畑の大部分は、まだそこにあった。
流されていない。崩れていない。立っている。
「……勝ったんだ」
誰かが呟いた。
「え?」
「俺たち……勝ったんだ」
その声は、次第に大きくなった。
「勝ったんだ!」
「何に?」
「嵐にだよ!」
「勝ったんだよ!」
誰かが拳を突き上げる。
「俺たち、勝ったんだ!」
「勝ったぞ!」
「やったぞ!」
歓声が上がった。
雨の中だというのに。泥だらけだというのに、誰も気にしなかった。
笑っている。泣いている者もいた。
ガレスも、濡れた顔のまま笑っていた。
「お嬢様!」
振り返る。
そこにリディアが立っていた。
「……俺たち、やりましたよ!」
「ええ」
リディアも微笑む。
「よく頑張ったわね」
「みんなでやったんです!」
「そうね」
村人たちの歓声が、雨音に混じって響いている。
誰もが嬉しそうだった。
去年なら、ただ祈るしかなかった。
雨が止むことを。川が溢れないことを。麦が流されないことを。
けれど今年は違った。
自分たちで掘った。
自分たちで石を集めた。
自分たちで水の流れを変えた。
そして、自分たちの畑を守った。
完全ではない。
それでも。
初めてだった。
自然にただ怯えるのではなく、自分たちの手で抗えた。
リディアは歓声を聞きながら、静かに川へ目を向けた。
「……ええ」
そう答えながらも、リディアの視線は川から離れなかった。
今回は、勝った。
けれど――
川そのものは、何も変わっていない。
濁流は、今も激しく流れている。
西側の補強は、もう少しで崩れそうになっていた。
もし雨が、あと少し長く続いていたら。
もし、もう少し水位が上がっていたら。
今回と同じ結果になったとは限らない。
リディアは、川を見つめた。
村人たちは、まだ喜んでいる。
その声を聞きながら、リディアは静かに考えていた。
――次は。
【漫画版のお知らせ】
リヴェルの物語を漫画でも描いています。
ただのジャム――のはずだった。
第11話「実り」より
漫画はこちらから。
▶︎ Xで見る
https://x.com/mir49866665/status/2107312599889297542?s=46
▶︎ noteで見る
https://note.com/tuitoshivv/n/n75ed955678f2




