第9話 冬の仕事
ジャガイモの収穫を終えた夜。
領主邸の庭では、焚き火がぱちぱちと音を立てていた。
その周りには、村人たちが集まっている。
大きな鍋には、収穫したばかりのジャガイモを使ったスープ。湯気と一緒に、ほのかな香りが立ち上っていた。
「……うまい」
誰かが呟いた。
「本当に……うまいなぁ」
別の誰かが、しみじみと言った。
リディアも木の椀を両手で包みながら、スープを口にする。
温かい。
それだけで、胸の奥までほっとするようだった。
「こんなお腹がしっかり満たされるのは、本当に久しぶりです」
隣に座っていたハンナが、嬉しそうに笑った。
「お嬢様は、まるで女神様のようですね」
「そんな……」
リディアが慌てて首を振る。
「もちろん、お綺麗な方というのもありますが……なんていうか。村に光が差したような、そんな心地なんです」
「母ちゃん!」
ニコが横から口を挟んだ。
「女神様は泥なんか触らないよ!」
「こらっ」
「いいのよ、ふふ」
リディアは笑った。
「わたしも、こんな泥を触るのは久しぶりよ」
「え?」
ニコが目を丸くする。
「前も触ってたのか?」
「うん。思い出せないほど昔だけどね。色々やってたのよ、たぶん」
「なんだよそれ。へんなのー」
「うん、そうね」
リディアは焚き火を見つめた。
胸の奥に、ほんの一瞬だけ、土の匂いや紙の感触が浮かんだ。何かを記録していたような、不思議な感覚だった。
けれど、それ以上は思い出せない。
「でも……そんな気がするのよ」
「ふーん」
ニコは首を傾げながら、またスープを食べ始めた。
その姿を見て、リディアは微笑む。
――この笑顔を。
守りたい。
お腹が空いて、明日の食べ物を心配するようなことがないように。
水が溢れるたび、家や畑を失うかもしれないと怯えなくていいように。
安心して眠れる場所にしたい。
「……でも、そんなことより」
リディアは顔を上げた。
「これからよ」
「これから?」
「ええ」
焚き火の向こうにいる村人たちを見る。
「お腹が満たされるだけじゃない。もっとみんなが笑える、安心して眠れる。そんな村にするわ」
ニコが目を輝かせた。
「そんなことができるの?」
「できるわ」
リディアは頷いた。
「でも、あなたの力が必要よ」
「俺の?」
「ええ。あなたの力も、みんなの力も」
ニコの顔が明るく輝いた。
「しょうがねーな!」
胸を張る。
「俺が色々やってやるよ!」
「ふふ。頼もしいわ」
「あはは!」
焚き火の周りに、笑い声が広がった。
*
翌朝。
「さて」
リディアは村人たちを前にして言った。
「次は麦です」
畑には、秋に植えた麦が小さな緑の葉を伸ばしている。
今はまだ元気そうに見える。
けれど。
「嵐がくるまで、およそ半年あります」
ガレスが頷いた。
リディアは畑の向こうを見る。
「だから、それまでにできることを全部やります」
「全部……ですか?」
「ええ」
リディアは地面を指した。
「例年、水がどこから入ってきたのか。どこに溜まったのか。どこから畝が崩れたのか。みんな覚えているでしょう?」
「もちろんです」
「なら、それを一つずつ潰しましょう」
村人たちの顔が引き締まった。
「まずは、水の逃げ道を作ります」
リディアは、地面に簡単な線を描いた。
「ここに水が集まるなら、畑の中に溜めないで、低い方へ流します」
「こっちの土地ですね」
ガレスが指した。
「そうです」
「でも、ここも雨が降ると水が溜まります」
「なら、その先まで繋げましょう」
村人たちは顔を見合わせた。
誰もが、あの酷い雨を思い出している。
「それから……」
リディアは、さらに地面へ線を引いた。
「畝をもう少し高くします」
「また高くするんですか?」
「ええ。でも、今度はただ高くするだけじゃないわ」
リディアは畑全体を見渡した。
「水が入ってきても、畝の中に溜まらないようにするの」
「なるほど……」
ガレスが頷く。
「いつもは、水が来てからどうするか考えてましたからな」
「そう」
リディアは頷いた。
「だから今度は、水が来る前に準備するの」
「分かりました」
「できることから、一つずつやりましょう」
村人たちは頷いた。
「……少なくとも、同じことは繰り返さないようにする」
村人たちから、わずかに笑いが漏れた。
「そっちですかい」
「だって、本当にそうでしょう?」
「違いありませんな」
笑い声が広がった。
もう冬の入り口に差し掛かっている。
リディアは空を見上げた。雲が流れ、冷たい風が吹いている。
「……急がないと」
「何をです?」
「嵐が来るまでに、あらゆる防衛線を張るのよ」
ガレスも畑を見る。
「……でも、今度は何か違う気がします」
「何が?」
「村が」
ガレスは少し考えてから言った。
「前は、冬が来るのを待っていた気がします」
「……」
「今は、冬が来る前に、こっちから動いてる」
リディアは黙って村を見渡した。
畑、水路、森、人々。
確かにそうだった。
何も解決してはいない。
それでも、誰も立ち止まっていない。
「それなら……」
リディアは小さく笑った。
「次はきっと、前とは違うわ」
その言葉の先に、何が待っているのか。
まだ、誰にも分からなかった。
*
そして、春。
雪のない土地にも、確かな暖かさが戻ってきた。
山には新しい緑が増え始める。
村の周りでは、食べられる草や山菜も採れるようになった。
畑では、冬を越した麦が少しずつ背を伸ばしている。
「大きくなりましたね」
ガレスが麦を見ながら言った。
「ええ」
リディアも頷いた。
「去年とは、違います」
もちろん。
まだ何も決まっていない。
雨季はこれからだ。
けれど、村人たちの表情は去年とは違っていた。
「今年は……採れるかもしれませんな」
「そうね」
リディアも麦を見つめる。
「そうだといいわね」
その日の夕方。
風が、少し変わった。
暖かい。
けれど、どこか重い。
リディアは足を止めた。
湿った空気。
遠くから流れてくる、雨の匂い。
空を見上げる。
地平線の向こうに、大きな雲が見えた。
白い雲ではない。
黒く、厚く。
空へ向かって大きく発達している。
「…………」
麦畑の葉が、風に揺れた。
遠くで、低い音がする。
ごろ……ごろ……
誰かが空を見上げた。
「……雨が来る」
リディアは黙って川の方を見る。
半年かけて作ってきた。
排水路。
縦穴暗渠。
補強した川岸。
できることは、やった。
けれど。
これで本当に足りるのかは、分からない。
風が、さらに湿り気を増していく。
遠くの空で、黒い雲が大きく広がっていく。
リディアは静かに息を吸った。
「――来る」




