第36話 先手
目の前に現れたアイリスに対して、隣にいたシルヴィアが俺を庇うように前へ出た。
銀色の髪が視界を横切る。俺との間に立った彼女の背中は、まっすぐにアイリスへ向けられていた。
その背中を見つめる。
守られることに慣れていないわけではない。けれど、彼女がこうして俺の前に立つたび、胸の奥に残るものがある。
彼女が何を思って前へ出たのか、聞かなくても分かっている。昨日の出来事を経てもなお、俺を守ろうとする。その選択を、ただ受け入れるだけでいいとは思えなかった。
俺は彼女の隣へ歩み寄り、肩越しに顔を覗かせた。
「大丈夫だ、シル」
耳元に声を落とす。
シルヴィアが振り返った。蒼の瞳が俺を捉える。銀色の髪が頬をかすめ、胸元へ伸ばされていた手がゆっくりと下がっていった。
「……ですが、アル」
すぐ近くに届いた声には、まだ伝えきれていない言葉が残っている。
俺はその瞳を見つめ、ほんの少しだけ頷いた。
「さて、アイリス。何の用だ?」
シルヴィアの横を通り、アイリスへ向き直った。
「皇帝陛下からの勅命よ」
「それは、あまりにも早いな。昨日の今日だぞ?」
「ええ、そうね。それが陛下の凄いところよ。決断を先送りにしては、問題が積み重なって悪くなっていくものだからね」
迷いのない声だった。
赤い髪が肩から流れ、青紫の瞳が俺を見据えている。そこには皇帝への揺るぎない信頼があった。昨日、俺に向けられていた敵意とは異なるものだ。
「……そうか。それで、答えは?」
「答えは、王城で話す、よ。だから、アルカディア神聖帝国へ来なさい」
「誰がわざわざ敵の本拠地へ行くと言うんだ? 断る。その皇帝陛下に言っておけ。お前がここに来い、と伝えろ」
俺の言葉を受け、アイリスの口元が引き締まった。
「皇帝陛下を侮辱することは許さないわ。昨日の続きをしたいってことかしら」
隣でシルヴィアの髪が揺れた。
「アルノ様。落ち着いてください」
背後から届いたクロエラの声に、俺はわずかに目を向けた。
彼女は俺とアイリスの間を通るように前へ出る。眼鏡の奥の瞳を一度だけアイリスへ向け、穏やかな声で告げた。
「立ち話もなんですから、応接室をご案内いたします」
クロエラの声は穏やかだった。
アイリスはクロエラを見た後、俺へ視線を戻した。
「しょうがないわね。行ってあげるわ」
俺たちは応接室へと向かった。
廊下を進む間、アイリスは周囲を確かめるように城内へ目を向けていた。
応接室に入ると、テーブルを挟んだソファーに俺とシルヴィアが並んで腰を下ろす。向かいにはアイリスが座り、クロエラがそれぞれの前にカップを置いていった。
珈琲の香りが室内に広がる。
クロエラはアイリスの前にもカップを置き、壁際へ下がった。編み込まれた栗色の髪が背中に沿い、眼鏡の奥の瞳が俺たちを見守っている。
客人を迎えるための静かな所作。そこに、昨日まで敵として刃を交えていた相手への特別な警戒は見えない。
その振る舞いは、俺にとっても変わらない。ここで剣を交えるつもりはない。少なくとも、話を聞くまでは。
アイリスはカップに手を伸ばさなかった。
「……改めて言うわ。アルカディア神聖帝国へ来なさい」
「俺の要求は、イエスかノーで答えられるものだ。何故、俺が行かなくてはならないんだ」
俺はテーブル越しにアイリスを見据えた。
彼女は一度唇を結び、懐へ手を入れる。
「読みなさい」
取り出されたのは、一通の手紙だった。
封蝋には帝国の玉璽が刻まれている。俺はそれを受け取り、封を開いた。
「陛下から、何度も断られた時に渡せと仰せつかっているわ。どうしても来たくなるって」
アイリスの声を背に、手紙へ目を落とす。
記された文字を追っていく。数行を読み進めたところで、指先が止まった。
紙を支える指に力がこもる。手紙の端がわずかに歪んでいった。
最後まで読み終えたとき、俺はしばらく顔を上げられなかった。
「……なるほど、面白い。アルカディア神聖帝国の皇帝陛下は、どうやら切れ者のようだな」
声は静かだった。
けれど、手紙を持つ指は震えている。紙の端が俺の手の中で、さらに形を変えた。
「アル? なんて書いてあったんですか」
隣からシルヴィアの声が届く。
彼女の銀髪が肩から流れ、蒼の瞳が手元に留まっていた。
「いや、どうでもいいことだよ」
俺は手紙を下ろし、シルヴィアへ顔を向けた。
彼女の唇がわずかに開く。俺はその瞳を受け止めたまま、手紙を持つ手を膝の上へ下ろす。
(……これを、シルに見せるわけにはいかない)
彼女に伝えれば、俺が受け取ったものを、彼女も同じように背負おうとするだろう。
それを拒みたいわけではない。ただ、今この場で伝えることはできなかった。
手の中に残る紙の感触を確かめるように、指を閉じる。
そして、俺は手紙を破り捨てた。
紙片がテーブルに散らばり、玉璽の刻まれた封蝋もその中に落ちる。
「あなた、何をやってるの?」
アイリスの声が応接室に響いた。
彼女の青紫の瞳が、散らばった紙片から俺へ移る。
「……分かった。帝国へ行こう。その前に、皇帝の名前を聞きたい」
シルヴィアの肩が、すぐ隣でわずかに動いた。
「レオファルト。レオファルト・アウグスト・アルカディア皇帝陛下よ」
「ありがとう。ただ少し、こちらも準備が必要だ。構わないか? アイリス」
「すぐに、と言いたいところだけど、いいわ。陛下もそう仰っていたから」
アイリスは背筋を伸ばし直した。
俺はアイリスの表情を確かめるように目を向けた。
皇帝は、俺がすぐに出発できないことまで織り込んでいたのだろう。手紙を渡す段階から、ここまでの流れを想定していたのかもしれない。
(皇帝は、ここまで読んでいたのか)
手紙を渡すことも、俺がそれを読んだ後にどうするかも。
「……そうか」
テーブルの上には、破り捨てた手紙の残骸が残っている。
俺はそれを拾わず、カップへ手を伸ばした。陶器の取っ手に指を掛け、口元へ運ぶ。
珈琲は冷め始めていた。
口に含んだ苦味が舌に残る。先ほどまで室内に広がっていた香りも、今はどこか遠く感じられた。
「ただ、私と同行しなさい。あなたが勝手に帝国へ入らないように、と厳命を受けているわ。つまり、監視役ってことね。まぁ、あなたがひとりで行っても帝国へは入れないけどね」
カップを置き、アイリスへ目を向ける。
「……なるほど。ところで君は、ここへひとりで来たのか? 昨日の男はいないのか?」
「ええ。私、ひとりよ」
アイリスは短く答え、カップの縁へ指を添えた。
「……ふむ、分かった。なら今日はここへ泊まるといい。出発は明日だ」
「えっ? アル――」
隣からシルヴィアの声が届いた。
俺は彼女の方へ身体を傾ける。銀色の髪が肩から流れ、蒼の瞳がこちらを見つめていた。
「シル、後で話す。今は、それで許してくれ」
シルヴィアの唇が閉じる。膝の上に置かれた手が、衣服の上で重なった。
「……わ、分かりました」
その返事に、俺は小さく頷いた。
彼女に話すべきことはある。けれど、アイリスの前で口にできる内容ではなかった。今は、ここで決めたことだけを伝えるしかない。
俺はクロエラへ目を向ける。
「クロエラ、部屋は大丈夫そうか?」
「ええ、問題ございません」
クロエラはいつもの声で答えた。眼鏡の位置を指先で整え、静かに頭を下げる。
「ちょ、ちょっと?」
アイリスが身を乗り出した。赤い髪が肩から滑り、俺とクロエラを交互に見る。
「なんだ? アイリス。何かあるのか?」
「いきなりなんなのかしら。説明してもらえる?」
「……今は話せない。だが、この件が終わると必ず約束しよう」
アイリスは俺を見つめたまま、しばらく黙っていた。
「はぁ。……あなたは、いつもこんな感じなのかしら」
「うるさいな。どうせ泊まる準備もしてきてるんだろう?」
「……まぁね。でも、私に何かしようとするなら覚悟しておきなさい」
アイリスはカップへ目を落とし、取っ手に指を掛けた。
「そんな事はしない。……分かってるだろう? その珈琲にも毒は入ってないし、飲んだらどうだ?」
「アルノ様」
クロエラの声が、俺の言葉を遮った。
「ん? どうした? クロエラ」
「アイリス様にご用意しているのは、珈琲ではなく紅茶です。アイリス様は、珈琲が苦手ですので」
アイリスの前に置かれたカップへ目を向ける。
琥珀色の紅茶から、柔らかな香りが立ち上っていた。
「ちょっと! 何よ、このメイド? あなたスパイなのかしら」
アイリスがクロエラを振り返る。青紫の瞳が細まり、紅茶の取っ手を握る手に力が入った。
「クロエラは……まぁ、気にしないでくれ。お前は珈琲も飲めないのか。お子ちゃまだな」
「うるさいわね。紅茶の良さも分からず、大人ぶっちゃって」
アイリスは俺を一瞥し、カップを持ち上げた。
紅茶を一口含み、ゆっくりと口元から離す。
「お、美味しいじゃない」
クロエラはその声に小さく目を細めた。
「じゃあ、話はこれまでだ。俺は、少し出る」
俺はカップを置き、椅子から立ち上がった。
扉へ向かおうとしたところで、背後から椅子の動く気配がする。
「アル! 私も――」
振り返ると、シルヴィアがこちらへ身体を向けていた。銀髪が肩から流れ、蒼の瞳が俺を追っている。
「すぐに戻ってくる。その後、話すから待っててくれるか」
彼女の瞳を見つめたまま、俺は声を落とした。
シルヴィアはすぐには答えなかった。やがて、膝の上に置かれていた手が静かに重なる。
「分かりました。早く帰ってきてくださいね」
「ああ。アイリスにこの城の案内をしてあげてくれ」
俺は扉へ向かい、取っ手に手を掛けた。
背後には三人の気配が残っている。
(……先手を打たれたか。レオファルト皇帝か)
一度だけ息を吐き、扉を開いた。
そして、応接室を後にした。




